11「階段」

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 女性が好きだった。
 その甘さと柔らかさ、したたかさや小賢しささえ、彼は愛すべきものだと思っていた。
 老いも若きも女性であるなら彼には同じように愛情を注ぐ対象となりえたし、身分さえも関係はなかった。貴族であろうが町娘であろうが彼は同様に跪いて、あらゆる言葉で彼女達を讃えた。
「病気だな」
 黄臣が呆れたように言う。
「お前に言われたくない」
 彼はそう答えながらも、先ほどからちらちらとこちらを見ているご婦人ににっこり笑って手を振った。するとご婦人はぱっと頬を染め、側にいた友人達と声を上げる。
 可愛らしい。
 彼は思わず顔をほころばせた。
 夜会は終わりにさしかかっていた。
 外にはもう夜の帳が降りているし、一部の恋人達は既に姿を消している。
 花のような女性達としばしの時間を過ごせるこういう場は、彼にとっては癒しの場でもあった。
 彼自身はもちろん、長年の友人である黄臣もご婦人方の人気は高い。それなりの家の令息だし、顔も悪くないし、物腰は柔らかく会話は機知に富んでいる。これらの要素さえあれば大抵の女性には笑顔で接してもらえるものだった。
 今日はもう十分に癒されたし、そろそろ帰ろうかと思っていたその時、彼はある女性に目を止めた。
「お、壁際に美女発見。柱の影で気付かなかったな……。一人みたいだけど、お前知ってるか?」
 この距離では顔は見えないが、彼には後ろ姿だけでもその女性が美人かどうかを見分ける能力があった。
「壁? ああ。うーん。さぁ。なんか……どこかで見たことがあるような気はするけど……」
「俺ちょっと声かけてくる」
「あ、馬鹿待て」
 友人の静止を聞かず、彼はすたすたと会場内を横断した。そして壁際の柱の影で一人、炭酸入りの甘露酒を手にしていた女性の前で止まる。彼女は身体にぴったりとした赤いドレスを身にまとっていて、その肩に長い黒髪を無造作に流していた。
 その女性の周囲には誰もいない。
 近付いてから初めて、彼はその理由がわかった。
 彼女は左ほほを真っ赤に腫れ上がらせて、むっつりとした様子で杯を煽っていた。既に彼女のすぐ横の卓には空になった杯がいくつも置いてある。
 彼は苦笑した。
「ごきげんよう」
 そう声をかけたが、女性はまるで聞こえなかったかのように反応を示さなかった。けれどこれくらいでくじける彼ではない。
「ごきげんがいいわけないかな? ほっぺた大丈夫? 冷やすものでも持ってこようか?」
 重ねてそう言うと、女性は顔は動かさぬまま、視線だけちらりとこちらに投げかけた。
 ほら、やっぱり美人だ。
 彼は嬉しくなった。赤く腫れ上がった頬は残念だが、睫毛は覆うように長く鼻の形も整っている。唇が少し薄すぎるような気もするが、上品だと言える部類だ。少し幼さの残る顔立ちから、彼は十六、七だろうとあたりをつけた。
 そして彼女はただ短く言った。
「去ね」
「は? 稲?」
 彼は本気で言われている意味がわからなかった。
 けれどたった二文字の単語を吐いただけで、彼女はまたふいと視線を外してしまったので、彼はその言葉の意味を考えなくてはいけなかった。
(いね……いね……あ!)
「もしかしてあっち行けってこと?」
 無視である。
 おそらくこれまで彼女に声をかけてきた男達はこの時点で呆れるか怒るかして退散したのだろう。けれど全世界の女性を愛する彼は、なんとしても彼女となんらかの会話を成立させたかった。
 彼はもう一度笑った。
「うーん。でも俺は君と話がしたいんだ。双方の願望の不一致だね。こういう時はどうすればいいかな?」




 知るか!
 と彼女は思った。
 どうも今回の男はしつこかった。願望の不一致? どうでもいい。お前の願望を燃やして塵にして風で飛ばせ、と彼女は心の中で罵った。
 もうこれで六杯目である。いい加減やめておいた方がいいのは自分でもわかっている。
 けれどじんじんと痛む頬が彼女の苛立ちを増し、酒を煽る手を止められなかった。
 いくらなんでも殴るなんてどうかしている。
 娘の、それも王女たる自分の顔を、だ。
 一人娘だから可愛がられて育てられたという自覚はあった。彼女は王族で、国のためには望まない結婚も仕方がないのだともわかっている。
 けれど、けれど、だ。
 結婚なんてまだしたくない。
 まだ自分は十六なのだ。
 花の盛りだと言っていいだろう。いつか政略結婚をするのなら、今この時期に遊んでおかなくてどうする。
 そう思って身分を隠したまま方々で遊び歩いていたら、殴られた。
 父王は容赦なかった。
 拳骨である。
 おかしいだろう。
 酒を呑むたび口の中が染みた。四杯目あたりで、ようやく痛覚が鈍くなってきたというところだ。けれど怒りは収まらない。それどころか煮えっぱなしである。
「よし、じゃあこうしよう。君は話さなくていいよ。俺が勝手に話してるから。俺の名前は……」
 まったくめげる様子のない男に彼女はいいかげんうんざりとして杯を置くと、「去ね」以降一言も発さないまま踵を返した。
 我ながら足元がおぼつかない。
 いつもより強い酒を呑んでしまった。
 確か二階に休憩室があったはず……。そこで休憩させてもらおう。
 彼女が階段に足をかけた時だった。
 ぐいと腕がひっぱられる。
 なんだ。
 苛立ちながら振り向くと、先ほどの男がいた。
 眉根を寄せ、まるで心配しているとでも言いたげにこちらを見ている。
「ふらふらじゃないか。危ないよ。ここで待ってて。侯爵夫人を呼んでくるから……」
 侯爵夫人とはおそらくこの夜会の主催のことだろう。
 彼女は男の腕を振り払った。
 そして睨みつける。
「無礼者。下がりなさい」
 男は目を丸くした。
 ああ。自分は酔っている。と彼女は自覚した。
 仮面もつけていないのに、まっすぐに相手を見据えてしまうなんて。ばれてしまうではないか。
 黒髪黒眼は王族の証だ。
 破魔の王女。
「あなたは……」
 もう、彼女は我慢できなかった。
 胸の内からこみ上げてくるものに逆らうことができず、目の前の男の胸倉をがしりと掴むとぐいと引き寄せて、
「うおええええええええ」
 吐いた。




「お母様……。私はそんな汚物の話を聞きたいのではないのよ」
 智莢は深く息を吐いた。
 するとこの国の王妃である彼女の母親はころころと笑う。
「あら、私とあの人の出会いの話が聞きたいと言ったのはあなたでしょう?」
 東の国の第二王女はほとんど泣きそうになった。
「嘘でしょう?」
 敬愛する父と母の出会いがそんな汚物にまみれているだなんて……。彼女は想像もしたくなかった。
「いいこと? 智莢。愛というものを前にしてはどんなものも障害にはなりえないのよ」
「お父様はどうしてお母様に恋をしたのかしら……」
 彼女は本当にわからない、とでも言いたげに首を振った。
 すると王妃はにっこりと微笑んで答えた。
「決まっているじゃない。そういう運命だったからよ」



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