鳥代はその日も森の中の塔で仕事をしていたが、一段落ついたので息抜きをと思って執務室代わりの部屋を出た。
階段を降り、廊下を通って主塔へ行く。その途中の渡り廊下で中庭を覗き、食堂と調理場も覗いたが誰もいなかった。今朝王伊と新祢は乗馬の練習をすると言っていたし、早苗と広兼は買い物だろう。昼前のこの時間、珀蓮は大抵部屋に引っ込んでいる。日焼けするのが嫌なのだそうだ。
婚約者の部屋を訪ねる勇気はなかったので、少し酒でも飲むか、と鳥代は主塔の階段を上って娯楽室へ向かった。そこには何種類かの酒瓶を収めた棚があって、誰でも自由に取れるようになっている。
娯楽室に入ると彼はすぐに左手にある戸棚から目当ての酒を出して杯に注いだ。その香りに思わず顔がほころぶ。
彼は杯を持ったまま、暖炉の前の椅子に座ろうと部屋を横切ったところであることに気付いて足を止めた。
振り向く。
娯楽室には椅子がいくつかあるが、寝椅子は一脚だけだった。その上では大抵広兼が寝転がっていて、本を読んだり考え事をしたりしている。
しかし今、そこには長い黒髪を垂らしすやすやと眠る王女の姿があった。
珀蓮だ。
鳥代は、唐突に自分の心臓が大きく鼓動を打ったことを自覚せざるを得なかった。むしろその音が大きすぎて珀蓮を起こしてしまったのではないかと懸念したほどだ。
しかし幸いなことに北の国の王女は目覚める気配がなかった。
鳥代は持っていた杯を近くの小さな卓の上に注意深く置くと、そっと婚約者に近付いた。
春迎祭の騒動の際にすやすやと眠る彼女を目にしていたが(それどころか濃厚な口付けもした)、こんな静かで平和な午後に、恋人の寝顔を見たのは初めてだった。
鳥代は、眠る王女の側に跪くとまじまじと彼女の顔に見入った。
長い睫毛。整った鼻梁と目元は作り物のようだ。唇は驚くほど赤く、今は僅かに白い歯を見せて寝息をたてていた。
この口からあんな罵倒がすらすらと吐き出されるのが信じられない。彼女は確かに人々が畏怖を抱くほど美しかったし、その輝きは人ではないようにさえ思えるが、鳥代は珀蓮の弱い部分も可愛らしい部分も知っていた。だからこんなふうに無防備に眠る彼女を見てついつい不埒なことを考えてしまうのは、健康的成年男子にとっていたしかたがないことだった。
しかしその時、そんなことをしようものならアレをちょん切られて燃やされてしまう、ということを思い出した東の王子は、かろうじて過ちを犯さずにすんだ。危機一髪である。
彼はゆっくりと深呼吸をすると、彼女から意識を引きはがすようにして立ち上がった。そして酒瓶が収められていた戸棚へ行くと、その下の方から毛布を取り出した。
これこそ本当の紳士の行動だ。
そう自分に言い聞かせた彼は、毛布を持って寝椅子の前に戻りそっと彼女にかけてあげた。そしてついつい流れるようにして(ほとんど無意識に)身を屈ませ眠る恋人の額にそっと唇を押し付ける。
しかしそれがいけなかった。
がし!
と胸倉が掴まれた。
その瞬間彼は自分の犯した過ちに気付き、盛大に自分を罵倒した。
おそるおそる目線を下におろすと、つい先ほどまで無防備に眠っていた王女殿下が、にっこりと微笑んでいらっしゃった。
「ちょんぎられたいのね?」
「いやいやいやいや待ってくれ!」
と鳥代は悲鳴を上げた。
それから王伊と新祢が戻ってくるまで、鳥代は植木鋏を持った珀蓮から逃げ惑わなくてはならなかった。