27「チビ」

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 風が吹いている。
 その風に乗せるように剣を振るい、止める。最初の型に戻し、繰り返す。
 頬を流れる汗は妨げにはならず、その双眸はただまっすぐに目指すものを見ているようだった。
「精が出るな」
 息子が大きく息を吐いたところを見計らって鳥代は声をかけた。
 今年で十三になる東の国の第一王子は、振り向いてそこに父王の姿を見つけると顔を輝かせる。
「お父様!」
 亜令は幼い頃から変わらぬ無邪気な笑顔で父王に駆け寄ったが、しかし幼い頃のように飛びついてきたりはしなかった。長い剣を鞘に戻し、膝を折る。
「お帰りなさいませ、陛下。お戻りをお待ちしておりました」
 仰々しいその言葉遣いに鳥代は苦笑する。
「珀蓮に仕込まれたか?」
 視察や会議などで国をあけるたび、息子は目覚ましく成長した。
 今はまだ背も低く少年の域を出ていないが、妻に似た容貌には男らしい精悍さが加わっている。
「剣を練習していたのか」
 言って鳥代が額を拭く布を渡してやると、亜令は「ありがとうございます」と言ってそれを受け取った。しかし汗を拭く前に少し顔をしかめる。
「……これ香りがすごいですね。甘い」
「ああ、視察先でいただいたハンカチだ」
「くださったのは女性ですか?」
「珀蓮には言うなよ」
 鳥代が悪戯っぽく言うと、亜令は仕方がなさそうな顔で息を吐いた。
「邪魔したか? 悪かったな」
「いいえ、そろそろ授業の時間ですから」
「はは。お前は本当に真面目だなぁ」
 鳥代が幼い頃は、どうやって与えられた課題から逃げ出すかということばかりに頭を使っていた。息子の真面目なところは、きっと母親に似たのだろう。
「着替えるのだろう? 部屋まで一緒に行こう」
「お仕事はよろしいのですか?」
「俺は息子との時間も捻出できないような仕事のできない王ではないぞ」
 鳥代が言うと、亜令は笑った。
「お母様は、お父様がいらっしゃらないと寂しそうですよ」
 二人連れ立って城の中を歩きながら他愛のない会話をする。鳥代は何よりこういう時間が好きだった。
「まさか、珀蓮が?」
 美しい王女は美しい王妃になった。彼女は鳥代が帰ってきて顔を覗かせると、「もう帰ってきたの?」とそっけなく言う。
 しかし亜令は「でも」と続けた。
「でもお父様はご存知でしょう?」
 子供嫌いだったはずの珀蓮は、けれど鳥代から見れば間違いなくよき母だった。亜令を見ればわかる。息子はまっすぐに成長している。
「お母様はお父様を愛しておいでなのですよ」
「……亜令、それをお母様の前で言うんじゃないぞ」
 鳥代は注意深くそう言った。亜令は笑う。
「もちろんです」
 息子がそんなことを口にすれば、珀蓮はきっと顔を赤くして怒りだすだろう。
 そこが彼女の愛すべき可愛らしさなのだ。
「……お父様」
 亜令がまるでなんでもないことのように言葉を紡ぐ。
「僕は、王菜様と結婚したいと思っています」
 先ほど剣をふるっていた時と同じ顔で息子は言った。
「僕はあの方を愛している。……お父様が、お母様を愛していらっしゃるのと同じように」
 鳥代は驚かなかった。
 息子の恋心に気付かないような馬鹿ではないつもりだ。
 気の強い親友の娘を思い浮かべて苦笑する。
「そうか」
「王菜様は西の国を継がれるおつもりです」
「ああ、聞いている」
 西の国の王弟の双子の娘は、亜令の三つ上だ。妹の久袮はつい先日旅芸人の男と結婚して国を出た。現在王位継承権を持っているのは彼女達の従兄弟にあたる第一王子だが、王伊に言わせれば『体力馬鹿で王座には向いていない』ということらしい。
 王女は貴婦人らしく流行の帽子やお菓子にしか興味がないし、王伊に王が向いているはずもない。
 才覚ある王弟の娘である王菜が王座に座ることは、決して夢物語などではないのだ。
「けれど僕はいずれこの国を治めなくてはならない」
 鳥代と珀蓮の子供は亜令だけだ。
 珀蓮が子供嫌いだというのもあるが、亜令を産む時の珀蓮の苦しがりようを見た鳥代は次の危険を侵すことをやめた。珀蓮を失っては、生きていけないと思ったからだ。
 亜令は一国の王子として産まれた自らのその運命を呪うことだってできた。
 けれど彼らの息子は、その双眸に鬱屈とした感情を宿すことはなかった。
「それでも僕は、王菜様を僕の妻にしたいのです」
 亜令は言う。
「……俺の許しが必要か?」
 念のため鳥代は問うた。しかし息子は驚いたように目を丸くして父を見上げただけで、子供のような無垢な笑顔を浮かべて答えた。
「いいえ。お伝えしておこうと思っただけです」
 鳥代は声を上げて笑った。
 本当に、息子は妻に似ている。
 美しく、真面目で、強靭だ。この子はきっと間違いなくその欲しいものを手に入れるだろう。白雪姫と呼ばれた母親がそうしたように。
「亜令!」
 遠くから名を呼ばれ、亜令はぱっとそちらを見た。
 鳥代は見なくてもその声の主が誰だかわかった。
 年を経てもなお変わらぬ艶やかな黒髪と白い肌。子供を産んでから少しだけ表情は柔らかになったがその気高い空気は清廉な水を思わせる。
「あら、あなたももう帰っていたの?」
 東の国の王が愛してやまない王妃殿下は、凛と背筋を伸ばして廊下の先に立っていた。
 息子と共にいる夫を見て眉を上げる。
「やあ、ただいま珀蓮」
 彼は思わず顔をほころばせた。いつ見ても妻は美しい。
「亜令。すぐに着替えていらっしゃい。授業に遅れてよ」
 しかし珀蓮はそっけなく夫を無視して息子に言った。
「あ、はいお母様」
 亜令は慌てた様子で鳥代に一礼すると、自分の部屋に駆けていった。鳥代はその後ろ姿が廊下の角に消えるまで見送ってから、妻に歩み寄る。
「会いに行くのが遅れてすまない。亜令が剣術の稽古をしていると聞いてね」
 鳥代は妻の腰に腕を回すと頬に口付けをした。
 最近はこれくらいで殴られることはない。
「最近稽古時間を増やしたのよ。王菜に何か言われたらしいわ」
 珀蓮が答える。「なるほど」と鳥代は苦笑した。珀蓮に憧れているらしい王伊の娘は、少々気が強く傲慢だ。亜令を今も泣き虫の子供だと馬鹿にしている。鳥代には亜令があの娘のどこに惚れたのかわかりかねたが、人の好みなどそれぞれだ。かく言う鳥代も、親友二人には散々女の趣味が悪いと言われているのだから。
「俺達の息子は努力家だ」
「泣き虫が治るならいいことね」
「王菜のような女性の扱いにかけて亜令の右に出る男はいないさ。なにせ産まれた時からあんたを見てたんだからな」
 そう言うと、珀蓮の冷ややかな双眸に睨まれる。
「どういう意味?」
 鳥代は肩をすくめた。
「亜令には俺が助言してやってもいい」
「変態の影響を与えるわけにはいかないわ」
「だが必要ないだろう。あの子は自分で道を見つける」
「当然よ。そう育てたのだもの」
 そう言ってつんと顎を上げた妻の前に回り込み、鳥代はぐいと彼女の腰を引き上げた。お互いの息づかいが感じられるほど顔を近付け、囁くように言う。
「そうだな。さすがあんただ」
 妻の白い頬に赤味がさす。
 彼女のこんな可愛らしい一面を知っているのは、きっと自分だけだろう。鳥代は得意になって口付けを振らせた。
「会いたかった……」
 本心からの言葉を口にのぼらせると、彼女は雰囲気に飲まれたように「わたくしも」と言う。鳥代は一瞬舞い上がったが、次の瞬間珀蓮ががしりと彼の胸倉を掴んでくんくんと鼻をならしたのではっとした。
「……ずいぶんと甘い香りを纏わせていらっしゃるのね? 陛下」
「そそそそそそれはだな!」
 どうやら先ほどのハンカチの香りが移ってしまっていたようだ。完全な失策である。
「どういうことなのか説明してくださる?」
 そう言って妻がにっこりと微笑んだので、平穏な午後の甘やかな夫婦の再会を諦めざるを得なかった東の王であった。



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