36「それから」

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 この森は忘却の中にある。
 何人もの王がこの場所を訪れたが、その時間は彼らの時の中のほんの僅かにはみだした一片にすぎず、王達はまた自らの生きるべき場所へと帰っていく。
 それらを数え切れないほど見送ってもまだティレアリアが狂わずにおれたのは、側にいた父のおかげかも知れず、彼女を異端にした精霊のおかげかもしれなかった。
 手のひらと同じ大きさの葉に溜まった朝露に触れる。
 すると透明のその液体は彼女の白い指に吸いつき、均衡が崩され露は地面に落ちて割れた。
 ティレアリアは濡れた指を唇につける。
 その冷たさに、自分が精霊ではなく人間だったのだと思い出した。
 これまで多くの人間とすれ違ってきたが、その中の誰ひとりとして彼女の前で足を止め永遠にそこに留まろうとする者はいなかった。
 まるで彼女が童話の中の姫君であるかのように、この土地に取り残された人ではない者であるかのように、彼らはただ気まぐれに彼女を訪れ自らの物語を語り、助言を求め、そして去った。
 彼女だけが常に、この森に、止まった時間の中で取り残されている。
 共にこの世界に生まれた弟はとうに女神に召されていた。
 母はその魂を精霊に捕らわれ世界を彷徨い、父は自らの半身であるその人を探し続けている。
 強靭で気丈であったティレアリアでも時に、自分がひどい狂気の中にあるのではないかと自問することがあった。
 すでに狂っているのではないのかと。
 何も思わずにただこの長い時を生きてきたわけではない。
 求めているのは、父にとっての母のように自らを変質させるほどの何かだった。
 魂を歪めるほどの何か。
 強い思慕。あるいは憎悪、嫌悪、なんでもいい。
 ティレアリアは幼いころからずっと、父が母を見る時に宿すその熱がほしかった。
 この世界を燃やしつくすような。
 理を歪めるような。
 他のすべてを引き換えにするような何か。
 ティレアリアはずっと、それを求めていたのだ。
 けれどあまりに、長い時間が経ち過ぎた。
 この心はすでに膿みはじめている。
 自分がいつ髪を振り乱し、殺してと父に頼むかわからなかった。
 父はきっと、顔色を変えずにそれをするだろう。
 あるいは彼は、そのためにティレアリアの側にいるのかもしれなかった。
 娘の命を絶つために。
 やはり自分は、もっと以前に死ぬべきだったのだ。
 とティレアリアはそう思った。
 タリアスは否定したけれど、彼女は自らが過ごしてきたこの長い時間に意味があるとは思えなかった。
 彼女に救われたと涙する王や、慕ってくれるかわいい女王はいたけれど、ティレアリアがおらずとも彼らの世界は変わらず動いただろう。
 結局、意味はなかったのだ。
 ティレアリアは紅をそうするように露を唇に引いた。
 父は今、家にいない。
 いつものように母を捜しに行っている。
 この世界のどこかで、死してなお精霊に魂をとどめられた哀れな人間の女を捜している。
 父が帰ってからにしようとティレアリアは思った。
 最期に彼に、愛していると伝えなければ。ありがとうと伝えなければ、と彼女は思った。
 この心臓を止めるのはそれからでもいい。
 しかしその時、がさりと茂みが音を立てた。
 振り向くとそこには、男が二人立っている。
 一人は案内人の役目を負った一族の男であり、今一人は見知らぬ男だった。
 案内人が、その見知らぬ男を紹介した。
 彼は低く甘い声でもう一度自ら名乗ると、「想像以上に美しい方ですね」と言った。
 ティレアリアはその瞬間、先ほど決めたことを忘れた。
 そしてああついに、と思ったのだ。
 見つけたと。
 この世界を燃やしつくすような。
 理を歪めるような。
 他のすべてを引き換えにするような何か。
「ティレアリアと申します」
 微笑んでそう言った彼女は、男の手を取った。
 その瞬間、皇女はかちり、と止まった時が動く音を聞いたのだった。
 他人を貶めて優越感を得る人種というのはどこにでもいるものだ。
 そしてそれは、有能な研究者ばかりが集っているはずの魔術師の故郷、ニスニアロフでも変わりはないようだった。
「ただじゃすまさないわよ」
 エルケは低い声で忠告した。
「うるせぇ、よそもん!」
 少年の一人がそう言ってぐいと彼女の銀髪を引っ張ったので、エルケは「痛い!」と悲鳴をあげた。そして後で抜けた髪の本数だけ殴ってやる、と心に決める。
「外でもらわれてきたお前なんか仲間じゃねぇし」
「なんだよこのババァみたいな白い髪! 気持ちわりー」
「よそ者エルケ!」
 三人いる少年達がそれぞれにはやし立てるが、エルケは痛覚を刺激されたことによる生理的な涙さえ流さないように我慢した。こんな馬鹿どものために身体から水分を失うなんてもったいなさすぎる。行動が低能なら発言だって低能だ。自分の髪は白じゃなくて銀なのに。
「俺の親父だって言ってたぜ。お前の養い親は変人だってな」
「あ、俺知ってる! 変人ディルクだろ!」
「一人でわけわかんねぇ研究してるんだろ。気持ちわりー」
「ディルクの研究が理解できないのはあんたの親が馬鹿だからよ! 痛いってば!!」
 反論するとさらにぐいと髪を引っ張られ、エルケは前に転びそうになった。
「何をやっている」
 するとそこに、第三者の声がかけられた。
 いや、厳密には第三者とは言えないかもしれない。なぜなら声の主は、少年達が話題に出していた変人ディルクその人だったからだ。
 ディルクは少し長めの金色の髪を無造作に結び、両腕を組んで背の高い樹のそばに立っていた。薬草園の片隅の人目につかない場所で少女を囲んでいた少年達は、その男の登場にさぁと顔を青ざめさせる。そして「やべぇ!」と叫ぶと、ぱっとエルケの髪を離して蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「あ、待ちなさいよ!」
 エルケは少年達の背中に怒鳴りつけたが、彼らはあっという間に生い茂る植物の向こうに消えてしまった。あの三人は普段から悪戯好きで有名なのだ。だから逃げ足も早い。
「ディルクも、首を突っ込んでこないでよ」
 エルケはやり場のない怒りの矛先を自らの養い親に向けることにした。
「声をかけただけだ」
 ディルクと呼ばれた男は悪びれずに答える。その造作は幼いエルケの目から見てもはっとするほど整っていて、平凡な容姿を持つ自分がこの男と血がつながっていないことを証明しているようだった。
 もちろんそうでなくても、ディルクがエルケの父親でないことは疑うべくもない。エルケの父親は、安い商売女だった母親と寝た下品な男達の誰かだ。そして母は産まれたエルケを四歳まで育てて捨てた。自分の意志を持ち言葉を話せるようになってから捨てたのは、母としてのせめてもの愛情だったのかもしれない。
「それが首を突っ込むって言うのよ。ああ、もうからまってる。髪切ろうかしら」
 少年が乱暴にしたせいで、エルケの長く豊かな銀髪は一部がもつれ、ひどいことになっていた。エルケはその一束を手にとりぐいぐいと手櫛で整えようとした。がさつだと言われるのは慣れている。しかし彼女の憐れな銀髪は、ディルクの手によってすぐに救い出された。男は少女の隣に膝をつき、丁寧にもつれた髪をほどいていく。
「ここに何をしにきたの?」
 先ほどの少年達とは真逆の手つきで自らの髪に触れる男を見ながら少女は問うた。ディルクの研究に薬草は必要がない。その答えは予想ができた。
「お前を探していた」
 と男が答える。
「目が覚めたらいないから」
 エルケは呆れて息を吐いた。
「あのね。人は夜寝て朝起きるものなの。夜明けの後に寝て昼食の時間まで寝てるあなたに付き合ってなんていられないのよ」
「起こせばよかっただろう」
「たまには一人になりたいの」
 と少女は大人びた口調で言った。
 するとディルクは笑って、「俺は一人になるのはごめんだ」と答えた。作り物の笑顔を浮かべた男を、少女は困った顔で見る。
 あの少年達が言った通り、エルケはディルクの拾い子だった。
 母に捨てられ物心ついた時から道でゴミを拾い、施しを受けて生活していたエルケはいつの間にかひどい病にかかっていた。そしてそれを救ったのがディルクだ。彼はエルケに薬を与え、暖かい寝床と食事を与えた。エルケが自分の薄汚れた髪の色を銀色だというのを知ったのは、ディルクと出会ってからだ。
 しかしエルケは、たまに自分がディルクを救ったかのような錯覚に陥った。彼は異常だ。そう断言できるほど、男はエルケに執着している。
「一人がいやなら、奥さんを迎えに行けば?」
 彼には妻がいた。ディルクが多くを語ることはなかったが、断片的な話から推理するに、ずいぶん前に逃げられたらしい。彼の性格ならそれも仕方がないとエルケは思っていた。整った外見と反比例するように、ディルクの内面はどうにも歪んでいる。彼が変人と言われるのは、その研究のせいだけではなく性格にも問題があることは明らかだった。
「お前がいればいい」
 ディルクはそう言うと、手の中にある銀髪に口付けを落とした。すでにほつれは解けている。
「やめて」
 エルケは男の手からするりと抜け出した。
 少女には自分が苦々しい顔をしているという自覚はあった。
 彼がまるで恋人のように自分を扱うたびに苦しくなる。それはディルクが、自分ではない誰かの影を見ているとわかっているからだ。まだエルケは十歳だが、女なのだからそれくらいわかる。そしてエルケがわかっていることを、きっとディルクも承知しているのだろう。それが苦しい。
 その時、遠くから悲鳴が聞こえた。
 耳を澄ますと、『水を持ってこい!』『子供の服から火が!』と数人が叫んでいる。
 無言で立ち上がったディルクをエルケは不安に思いながら見上げた。火の魔術は彼の最も得意とするところだ。たまに彼が使っているのが魔術なのかどうか疑わしいほど、ディルクは火と相性がいい。
「……ディルク」
「なんだ」
 無感情に答える男を恐ろしいと思ったその瞬間、エルケは目眩を覚えた。




「やめなさい」
 突然口調が変わった少女を見て、男はとろけるように微笑んだ。
「やはり、お前の魂が浮上してくるのには法則があるな」
 その微笑は、先ほど少女に見せたものとは質が違った。まるでその口から語られているのが愛の告白であるかのように甘く優しい。
「ザーティス。今すぐやめなさい」
 少女の双眸にはもう不安や恐怖は宿っていない。それどころか彼女が抱いているのは純粋な怒りだ。そして僅かな憐憫。
「もうやめている」
 ディルクと名乗っている男は両手を上げて言った。遠くで『火が消えたぞ!』『なんだったんだ』と大人達が騒いでいる。
「法則がわかるか?」
「エルケは勘付いているわ」
 少女は男の問いを無視してなおも睨んだ。
 そんな怒りを宿した双眸でさえ、彼にとってはひどく愛しい。
「こんなの間違ってる。せめて事情を話すべきよ」
「そうすることによる影響がまだ予測出来ない以上危険を侵すつもりはない」
 男は少女が抵抗する間もなく彼女を抱き上げると、可愛らしいその唇に口付けをした。
「ザーティス」
 少女が非難の声を上げる。
「自分の妻に口付けをして何が悪い」
 男は笑顔を崩さぬまま言った。
「この身体はエルケのものよ」
「今はお前のものでもある」
「違うわ」
 なおも否定すると、男は一転して氷のように冷たく双眸を細めた。
「お前がどんなに否定してもこの事実は変わらない。お前の魂によってこの少女の身体は
病による死から逃れたんだ。お前の魂が離れれば少女の身体は一度死に、その魂も霧散する」
 それが事実だ。
 この少女の身体には二つの魂が共存している。
 一つは不幸な少女で、そしてもう一つは彼のたった一人の妻だ。
 もうずっと求め続けた魂。狂うような時間を探し続けた光。
「ジーリス」
 男は歌うようにその名を呼んだ。
「ただし、エルケの魂が消えてもその身体がお前のものになるだけだ」
 それが男の望みだった。そのために、少女を養っていると言っていい。
「絶対にさせないわ」
 しかし少女に宿っている彼の妻がそれを許さない。
 彼女はかつて戦場女神と呼ばれていた頃そのままの強い瞳で続けた。
「あなたを殺してでも、エルケには手出しをさせない」
 男は声を上げて笑った。
「知っているか?」
 問うまでもない。
 彼女は知っているはずだ。
 だからこそ、泣きそうな顔でこちらを見ている。
「それは俺の本望だ」
 それが、彼の偽らざる本音であった。



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