42「紅葉」

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 寝椅子で横になっていると、顔に上にぱらぱらと何かが振ってきた。
 驚いて飛び起きなかったのは、部屋に入って来た者の気配を感じていたからだ。彼女は足音をさせないようにこっそりと入室してきたようだが、その軽やかな靴の音も柔らかな衣擦れの音も、完全に消すことはできていなかった。
 アーデルベルト=ヴェル=ティウディメルは、ちらりと片方の目を開けて笑った。
「ごきげんよう。俺の姫」
「起きていたの? アル」
 今年で十歳になったヴィシック=ボリバルは、唇を尖らせてつまらなそうな顔をした。
「いや、寝ていたよ。ところでこれはなんだい?」
 むくりと上半身を起こすと、ぱらぱらと数枚の葉が床に落ちる。その葉はどれも綺麗に赤く色づいていた。秋の葉だ。
「お仕事で忙しいあなたに贈り物よ」
 少女は自信たっぷりに笑った。
 よく見れば、その髪は少しほつれているし、頬には小さな傷がある。
「ヴィーが全部集めたの?」
 アーデルベルトは胸の上に残った一枚を手に取った。虫に食われた跡はないし、緑も残っていない。それは少女が彼の上に降らせた葉、すべてに言えることだった。
 完璧な秋の葉だ。
「時間がかかっただろう」
「ぜんぜん」
 少女の強がりはいつものことだ。
 アーデルベルトはヴィシックの頬の擦り傷を撫でて、微笑んだ。
「ありがとう、ヴィー。嬉しいよ」
 いつもはこう言われれば嬉しそうに笑う彼女が、今日ばかりは心配そうに眉を寄せた。
「目の下にクマができているわよ、アル。疲れているんじゃない?」
 まだまだ子供だと思っていた娘に気遣うように言われ、彼は驚いた。
 確かに疲れてはいる。
 最近、仕事が引きも切らない。父王が譲位を考えているという噂も耳にした。自分は期待されている。それは物心ついた頃から自覚していた。
 賢く優秀な王子様。
 それがずっと、彼だった。
 期待を重いと思ったことはない。帝国に身を捧げることに疑問を抱いたこともなかった。当然のことだ。自分はこの国の王になる。
 しかしこの少女の前でだけは、彼は自分がただの十七歳の男であるという気持ちになった。ヴィシック=ボリバルが目の前にいるだけで、ここは二人だけの箱庭になる。
「そうか?」
 アーデルベルトが首を傾げると、ヴィシックはまた唇を尖らせた。
「そうよ。もう、寝るならちゃんと寝台で寝たら?」
「ああ。でももう戻らなきゃ……」
「駄目よ!」
 彼女はそう言うと、寝椅子から降りようとした彼の腹に小さな両手を当ててそれを止めた。
「まだここに寝てて!」
「ヴィー」
 彼女がこんなふうに駄々をこねることは珍しかった。賢いヴィシックはアーデルベルトの王子としての立場をきちんと理解していたからだ。彼がヴィシックと遊んでばかりいられないのだということも。
「駄目だってば。ほら、ここでいいからもう一回寝て」
 ぐいぐいとヴィシックに押され、アーデルベルトは再び寝椅子に横になった。少女は彼が身体を起こさないように胸の上で両腕を組んで顎を乗せる。
「まったく、もう。世話が焼けるんだから」
 まるでどこかの母親のような口調にアーデルベルトは苦笑した。
「俺は世話が焼けるか?」
「とってもね。アルったら、そのうち倒れちゃうわよ。あなたがどんなに頭がよくったって、体力は人並みなんだから、ほどほどにしなきゃ」
「まさかお前にそんなことを言われる日がくるなんて」
「私じゃなきゃ誰が言うの? アルってば、誰に対しても完璧すぎるのよ」
 彼女はたまに、驚くほど鋭いことを言った。
 誰に対しても完璧すぎる。
 その通りだ。
 アーデルベルトは日常生活で気が抜けることがない。
 隙を見せない。それは無意識でしていることだ。ヴィシックと二人で遊んでいて初めて、彼は緊張を解くということを知った。
「皆知らないのよ。あなたが口を開けていびきをかくことや、木登りが下手なことを」
 ヴィシックは、顔を傾けてこちらを見ている。
 まるで猫のようだ。
 くりくりとした赤茶色の双眸は輝きを失わない。
「いちじくが嫌いなことも?」
「それはきっと、料理長なら知ってるかも」
「甘い香水の匂いが苦手なこと」
「乳母が知ってるわ」
 アーデルベルトは笑った。
「お前が俺の可愛い姫だってことは?」
 すると彼女はやっと驚いたように目を丸くして、嬉しそうに頬を紅潮させた。
「皆知ってるわ」
 しかしまだ怒っているふりをして言う。
「もう。からかわないで」
「お前がそう言うなら、まだここで寝ていよう。ヴィー。お前が持って来てくれた秋の褥は心地がいい」
 彼は寝たふりでもして、満足したヴィーがいなくなってから仕事に戻ろうと考え目を瞑った。しかし胸の上の少女の温かな重みと秋の香りが思いのほかまどろみを誘い、アーデルベルトはあっという間に夢の中に落ちてしまった。
 目覚めた時に窓の外が暁に染まっているところを見た彼は、少女のいなくなった部屋で秋の葉を手に取り苦笑した。
 頭が今までになくすっきりとしている。
 こんなに深く眠ったのは久しぶりだった。
「まったく、ヴィーには敵わないな」
 少女の優しい気遣いを思い、何か彼女が好きそうな絵本を贈ってやろうと決めたアーデルベルトであった。



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