46「螺旋」

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「無理よ!」
 ジーリスは悲鳴を上げた。
「絶対にドレスの裾を踏んで転ぶわ」
 しかしザーティスは無情にも言う。
「しかしワルツは結婚披露の場で主役の夫婦が必ずこなさなければならないダンスの一つだ」
「もっと簡単なダンスがあるでしょう?」
「あえて困難な問題に二人で立ち向かうことに意味がある」
 しれっと答える未来の夫を、ジーリスは睨みつけた。
 ジーティガ公国は浮き足立っていた。中々結婚相手を決めなかった公太子がこのたびようやく、その結婚を決めたのだ。
 盛大に祝われる結婚式を前にして、しかし当の結婚相手は大きな問題に直面していた。
 ダンスである。
 ずっと森で精霊と共に暮らしてきた彼女は、そもそも宮廷作法というものを一切知らなかった。淑女らしい歩き方から食事の際のマナーまで、ジーリスは結婚式までの短期間で嫌というほど叩き込まれることとなった。
 そんな中、最も彼女にとって障害となったのが、王城の中で淑女が身につけるべき下着とドレスである。
 まず、身体を締めつける構造の下着は風通しのいい上下ばかり着ていたジーリスにとって息苦しいことこの上なかったし、裾が床についてしまうほど長いスカートは歩きにくいし重かった。
 この格好で、ダンス?
 ジーリスは何かの冗談だろうとさえ思ったが、ダンス指導の教師としてやってきた伯爵夫人は、もののみごとにあの重たく邪魔苦しいスカートをさばき、くるくると踊ってみせた。信じられない。
 しかも、ジーリスに課せられた課題はテンポの速いワルツだ。
「がんばって、ジーリス」
 見学に着ていた公妃テシィリアは、いかにも他人事な声援を送った。
「あなたが恥をかくのよ、ザーティス」
「お前が転んでも僕の恥にはならない。それはお前の恥だ」
 ジーリスはこの瞬間本気で、この男との結婚をやめようかと悩んだ。
「ほら、そんなことを言っている暇があるなら練習しろ。フィステッド伯爵夫人も暇ではないんだ」
「……わかってるわよ」
 ジーリスは舌打ちしそうになったのをかろうじて我慢して、伯爵夫人とのステップの練習に戻った。
 そんな妻の様子を、母の隣に立ったザーティスは腕を組んで見守る。
「意地悪な子ね」
 テシィリアは小さな声で息子を非難した。
「どうしてそんな嘘をつくの? 結婚式での課題のダンスがワルツだなんて、聞いたことがないわ」
 そもそも課題のダンスなど存在しない。
 ザーティスは笑った。
「彼女を退屈させるわけにはいきませんからね」
「ジーリスは十分に忙しく頑張ってるわ。退屈なんてするわけないじゃない」
「母上は彼女がこれまで置かれていた環境を理解しておいででない。ジーリスは、あの森の中で常に自らの生命が危険にさらされる野生の緊張の中で生きてきたのです。それが突然こんな幾重にも安全策の張られた環境に置かれて戸惑っている。今の彼女には、立ち止まる暇も与えないくらいで丁度いいんですよ。そうすれば、冷静に現状を分析することもできないでしょう」
 テシィリアはこの時初めて、息子の真意を理解した。
「あなた、彼女が結婚しないと言い出すのが怖いのね?」
 するとザーティスは意外そうな顔で母を見た。
「その可能性はきわめて高い。予防策を張るのは当然だと思いますが」
 ジーリスが森を出て城に入ったのは、ザーティスの妻になるためだ。
 彼女は決して、森を出ることを望んでなんていなかった。
 彼と結婚するためには、それを選択せざるをえなかったのだ。
 王城の中には彼女が望んでいたものは何一つとしてない。結婚までの短い期間の間でも、人の中で暮らしその不自由さを思い知ったジーリスが森に帰りたいと望むのは当然考えられる事態だった。
 だからザーティスはわざと、ジーリスに休む暇もない日々を送らせているのだ。
 根気強い彼女が悲鳴を上げるほどに。
 結婚さえしてしまえば、彼女を側に留めておく理由はいくらでも作れる。
 テシィリアが息子にじとりとした視線を送っている間にも、ジーリスは自らのスカートの裾を踏んで転びそうになった。そこへザーティスがすかさず駆け寄り助ける。
「危なっかしいな。仕方がない。俺も今日の仕事はやめてお前のダンスの相手をしてやろう」
「……あんたの足が腫れ上がるまで踏んでやるから」
 ジーリスは恨めしい声で言った。
 しかしザーティスはにこにこと笑っている。
 そんな息子夫婦の様子を見て、テシィリアはため息をついた。
 今この状況も、息子のもくろみ通りに違いない。
 かつて自らが生んだ王女の帰還と息子との結婚は、テシィリアにとって今生で最大の喜びであったが、この結婚が果たしてジーリスにとって幸福と言えるものであるのかどうか、疑問を抱いてしまう公妃であった。



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