「世界一大切なもの?」
唐突な娘のその質問に、ジーリスは首を傾げた。
「どうしたの突然」
八つになった頃から成長が遅くなってきた娘のティレアリアは、今となっては弟のタリアスと双子だとは思えないくらいに外見的な年齢差が出てしまっている。
それでも明るさを失わずいつも笑っている娘に、ジーリスがどれだけ救われてきたことか。
息子と区別せず育ててはいるつもりだが、皇太子であるタリアスにはどうしても厳しくあたることが多くある。それで落ち込んでいる弟を、うまく慰めるのもティレアリアだった。
そんな可愛い娘の問いに、けれどジーリスは怪訝そうな顔を隠せなかった。
世界一大切なもの?
正直言って考えたこともない。
「課題よ。そのテーマで作文を書くの。それで参考までにいろんな人の世界一大切なものを聞いているのよ。お母様の大切なものって何?」
ティーレは紙とペンを手に持って、にこにこと笑っている。
面白い課題を出す。倫理学を担当しているグレイルだろうか。ジーリスは笑顔で、
「あなたとターラが大切よ」
と答えた。
迷うことなく導き出したその答えに、しかしティーレはなぜか不満そうな顔をした。
「世界一よ、お母様。二人は駄目だわ」
「ええ? そうなの?」
ジーリスは困惑する。
「一番大切なものが二つあっちゃ駄目なの?」
「駄目よ。一つよ」
「えーと、じゃあ、この国の民かしらね」
「不正解だわ。民なんて、何人いると思っているの?」
ティーレはその小さく可愛らしい手を腰に当てて、聞き分けのない生徒に言い聞かせるように言った。
「一つよお母様。お母様が大切なたった一人よ」
ジーリスは眉間の皺を深くした。
「お義母様とお義父様……も駄目よね? 二人だもの」
なんとか答えをひねり出してみるが、娘の顔をちらりと見て違うのだとジーリスは唸る。
「あ、国だわ。この帝国」
嘘ではない。ここにはジーリスの愛する者が皆住んでいる。決して失いたくはない場所だった。
「もう! お母様。わざと言ってらっしゃるの?」
ついにティーレはぷりぷりと怒り出した。
「なんなの? ティーレ。正解があるなら教えてちょうだい」
「私が教えても意味はないんです。お母様。胸に手を当ててもう一度よーく考えてちょうだい。お母様が世界で一番大切な方がいらっしゃるはずよ。誰よりもお母様を愛していらっしゃる、素敵な方よ」
ジーリスはあっ、と声を上げて手を叩いた。
「もしかして、ザーティスのことを言ってるの?」
するとティーレはほっとした顔をする。
「そうよ! お母様!」
娘がちらりと部屋の戸口の方を窺ったのを、ジーリスは見逃さなかった。
「じゃあ最初からもう一度よお母様。お母様が世界で一番大切なものはなに?」
ジーリスはため息をついた。
冷ややかな目で少しだけ隙間の開いた扉の方を見る。
「少なくとも娘をだしにこんなくだらないことを言わせようとする馬鹿ではないわね」
「残念だなティーレ。お母様にばれてしまった。課題免除はなしだ。溜め込んでいる課題は全部きっちりやるように」
「えー! ひどいお父様!」
案の定扉を開けて入ってきたのはこの帝国の王だった。まるで盗み聞きなんてしてませんでしたよ、と言わんばかりの堂々とした態度で部屋に入ってくる。ティーレは父の足元にまとわりつくと、ぴょんぴょんと飛んで抗議した。持っていた紙はくしゃりと手の中で丸まってしまっている。
そんな娘をザーティスはそっけなく手で払った。
「何を言う。ひどいのはお母様だ。私はいたく傷付いた。最後まで私の名前が出てこないとは」
「なんであんたってそんなに馬鹿なの? その馬鹿頭を床に何回か叩きつけてやらないと治らないのかしら?」
「私頑張ったのに! お父様!」
「ティーレ」
煩そうに父に無視されてもめげなかった帝国の皇女は、しかし母である帝妃の声にぴたりと動きを止めた。
ちらりと母を窺うと微笑んでいる。
「課題は全部自分でやりなさい。タリアスに頼っても駄目よ。タリアスが協力したことがわかったら教師に言って課題はすべて倍にさせます」
言うと、絶望的な表情になった娘は「……はい、お母様」と肩を落として部屋を出て行った。それでも扉を閉める前に「失礼しますお父様、お母様」と挨拶ができたことはさすがと言うべきか。
ジーリスは些かうんざりしながら少し離れた場所に立つ夫を見やった。
ザーティスは笑っている。本当なら執務の時間のはずだ。また抜け出してきたのだろう。仕事を放っておいて何馬鹿なことをやっているのかこの馬鹿は。と頭が痛くなる。
「ひどい女だ」
ザーティスは再度言った。
言葉のわりに、顔が嬉しそうに笑っているのが気に入らない。
「世界で一番大切なのはどう転んでも間違いなくあんたじゃないもの」
こめかみに手を当てて目を瞑りジーリスは答える。すると次の瞬間、頬を何かが撫でる感触がする。
瞼を開けると、憎らしいほどに美しい夫の顔が目の前にあった。その指は自分の頬を撫でている。
「それなら俺はなんだ」
ひどく艶っぽい声で男は言う。精霊は年をとらないが、自らの意志で人間に近付いているザーティスは確実に年をとっている。そして厄介なことに、年を負うごとに増幅するのはなぜか色気だった。
ジーリスは自分の顔が赤くならないように意識を冷静に保って夫を睨んだ。
「馬鹿」
罵倒したその口を、ザーティスが啄ばむように口付ける。
「不正解だ」
「次してきたら噛むわよ」
「喜んで」
ジーリスは目を細める。
「あんたを大切に護るつもりなんて私にはないわ」
精一杯、冷たく聞こえるように言ったつもりだった。けれど目の前の男がひどく満足気に口元を緩めたので、ジーリスは舌打ちをしたくなった。
だからこの男は気に食わないのだ。
「そうだな。俺も、お前を大切に護るつもりなんてない。世界一大切なんて称号はティーレやターラで十分だ。俺はお前を世界で一番愛してる」
ジーリスにとって、ザーティスは大切にする対象ではない。
護る相手ではないからだ。横に立ち、共に戦っていく相手。背を預けうる者。抱いているのは信頼や愛情であって、庇護欲ではない。
彼女のその意図を、ザーティスは最初から汲み取っていた。だから笑っていたのだ。
心を見透かされたようなそれが気に入らない。
「言っておくけど、私は一言も、あんたを世界で一番愛してるなんて言ってないわ」
また口付けをされた。
顔はもう鼻が触れるほどに近いので、噛み付こうと思えばいつでも噛み付けるだろう。ザーティスの手は妻の頬を包み込むようにして持ち上げている。
性格の悪さがにじみ出てきたような顔で帝国の王は笑った。
「言わせてやる。今すぐに」
どうしてあそこで顔を真っ赤にしてしまったんだ、と後々まで後悔した帝妃であった。