51「ぬるま湯」

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「何者だ」
 戸口に立ったイーニアス=ティウディメルは、ぴりぴりと全身に走る緊張感でもって誰何した。
「……」
 しかし雲に隠れた月明かりに浮かびあがる薄暗い部屋の中、寝台の横にただずむ影が返したのは静寂だけである。
 イーニアスは、護衛のためについてこようとした兵士を下がらせたことを後悔した。城の中にも警備の兵士はいるが、ここで声を上げたところで聞こえまい。
(……ヴィシックのやつ、侵入者に気づかず寝てるのか?)
 ふいに夜中に目が覚めて、思い立ってかの女の部屋を訪れたのは、特別よこしまな気持ちがあったわけではない。
 ただなんとなく、彼女がそこにいるかどうかを確かめたかっただけだ。
 イーニアスは本当のところ、ずっと夢見心地であった。まだ信じられない。彼女が自分を選んだということが。ともに永遠を生きていけたはずのあの男ではなく、不本意ながらまだ子供と言える年齢の自分と限りある命を選んだということが。
 ぬるま湯の中にいるような、安穏とした心地であったことは否定できない。
 だからこそ、まさかまだあの女の周囲に危険が潜んでいるなんて思いもしなかったのだ。
「何者だと聞いている!」
 荒げた声音にはあの寝台で眠っているはずの女を起こす意図があったが、寝台の中に動く気配はなく、その代わりに外の雲が動いた。
 雲の背に隠れていた月が現れ、不届きな影を照らす。
「……?」
 イーニアスはわずかに眉を寄せた。
 怜悧な判断力を評される若き帝国の王であるが、この時はわずかに頭の回転が遅れた。何度も見たことのある顔だ。しかしそれはいつも壁に飾られた大きな絵の中であったので、生身の人間として目の前にあることをすぐには受け入れられなかったのだ。
 けれど彼が呆然としたのは、ほんの一呼吸の間だけであった。
 すぐに思考が動き出す。
「……皇女ティレアリアは、もうここにはいない」
 イーニアスは言った。
「その女は、あんたの娘ではない。手を出すな」
 少し考えればわかることだ。
 伝説と史書の中に生きたこの男が、ヴィシック=イース=ボリバルの前に現れた理由など、一つしかない。
 ――皇女ティレアリア。
 ヴィシックの中にいた特別な魂。
 しかしそれは今はもういなくなった。
 少し前に、イーニアスの祖父――アーデルベルト=ヴェル=ティウディメルが連れていったからだ。永遠の終焉を望んでいた善き皇女はようやく、本当の終わりを迎えることができた。
 男は、肩を揺らして笑った。
「幼い守護者だな」
 少し前であったら、その言葉に怒りを覚えていただろう。
 けれどもうそのような挑発には乗らない。
「今はもうあんたの時代ではないはずだ。早々に退散していただこう」
「昔は友人もいなかったようだが、こんな守護者がついているとは」
「何をしにきたんだ」
「器を確かめにきた」
 男は答えた。
「あれが気にしていたから」
「あれ?」
「ティレアリアだ」
 イーニアスは眉を寄せる。
「魂の一部が消えたことで、この娘は不安定な存在になった。安穏とした生は送れまい」
 帝国の王は小さく息を吸う。
 それは懸念されていたことだ。異能をなくした帝国の魔術師がどうなるのか。時はどうなる? 止まっていたあの女の時は本当に動き出すのか。それとも、堰き止められていたそれはある日一気に襲いかかってくるのか。
 すべてはまだわからない。
 前例がないのだ。仮説と検証によって、可能な予防策を取っていくしか方法はない。
「だからこれは、一種の祝福だと思ってもらっていい。娘の最後の願いを叶えてくれた礼だ」
 イーニアスは毛が逆立つのを感じた。
 考える前に床を蹴り、飛びつくようにして寝台の中で眠る女を覗き込む。
「ヴィシック!」
 ほんの数日前まで帝国の魔術師であった女は、穏やかな顔で静かに眠っていた。
 肩を掴んで揺さぶるが目覚めない。おかしい。普通ではない。イーニアスは焦燥と怒りがないまぜになった顔で男を睨んだ。
「……ヴィシックに、何をした?」
 今すぐにフェリテシアを呼ぶべきか? 協会に連絡を……。
 そこまで考えたところで男が言った。
「祝福だと言っただろう?」
 男の声は、まるで白い布を染める黒い染料の一滴のように、静かにその場を支配した。
 圧倒的な何かを感じる。
 自分を害しようとした魔術師を前にしても恐怖を感じなかったイーニアスをして、じわりと額に脂汗が滲んだ。
(これは)
 異常な存在だ、とイーニアスは感じた。
 魔術師はもちろん、ヴィシックらに従う精霊たちともきっと違う。
 伝説を信じるなら、この男は——帝国の始帝——ザーティス=イブ=ジーティスは、精霊として生まれ落ちて人間として育ったのだ。
 それゆえの歪みなのか。
 男はすでに、人間でも精霊でもない何かのようだった。
「安穏な生は約束できないが、人が生きて死ぬ間くらいは、魂の不足分をごまかすことができるだろう」
「……」
 イーニアスは黙って男の視界からヴィシックを隠す。
 帝国の王のそのわずかな抵抗を見て、男は静かに笑った。
「お前に一つ命じよう」
 イーニアスは直感的に理解していた。
 おそらくこの男は、指を鳴らすような気安さで、イーニアスもヴィシックも引き裂くことができるだろう。
 しかしそれはせず、この帝国の始祖はただこう言ったのだった。
「戦争はするなよ。じきに戻るジーリスが、また戦場に行きたがったらたまらないからな」


「嘘でしょう?」
「僕は意味のない嘘はつかない」
 翌日、昨晩起きたことをイーニアスから聞いたヴィシックは、眉を寄せて自らの身体を見下ろした。
「特別、変わったところは感じないけど……」
「とにかく、何か異常が出たらすぐ協会に対処させるから我慢するなよ」
「わかったわ……」
「それと、お前の部屋の周囲に何か魔術的な結界みたいなものでもはらせろ。まったく、お前はおかしなものばかり引き寄せるから僕の気が休まらない」
「ちょっと、私のせいみたいに言わないでよ」
「はぁ。昨晩は僕の繊細な心臓が止まりそうだった」
「あなたの心臓のどこが繊細だって?」
「しかし……、始帝ザーティスが亡くなった戦場妃ジーリスの魂を捜して彷徨っているという伝説は本当だったわけだ」
「そんな伝説があるの?」
 ヴィシックが聞くと、イーニアスはもっともらしく頷いた。
「特に始帝ザーティスに関しては様々な伝説が残っている」
「まぁ……普通の人じゃなかったものね」
 その言葉に、イーニアスが眉宇を寄せてヴィシックを見る。
「……お前、会ったことがあるのか?」
「うーん、針の穴時代にね、それっぽい人に話しかけられたことがあるの。殺されるかと思ったけど、幸いなことに生き延びたわ」
「ヴィシック」
 イーニアスは真面目な顔で言った。
「何よ」
「僕の部屋で寝るか?」
「寝ないわよ!」
 元帝国の魔術師はきっぱりとそう答えたのであった。


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