「かわいいわねぇ」
レベッカがため息をついた。
「……」
エイダは無言のまま、真剣な目つきでレベッカの腕の中にいる生き物を見つめている。
《弱ソウダ》
《オイ、コレ、本当ニアイツノガキナノカ? ケケッ》
《クッテイイヨナ?》
三つ頭の灰豹がよだれを垂らしてそう言うと、その頭上から銀の盆が振り落とされガキン! と鈍い音を立てた。
《痛ッテェ!》
脳天に響いた痛みに灰豹の頭の一つが身を低くして悶絶する。
「食っていいわけがないでしょう」
少し凹んだ盆を直しながら、執事姿のマーティンが冷たく言い捨てた。
その一連の流れを見たレベッカが灰豹に呆れたような目を向ける。
「馬鹿ねぇ」
「レベッカ、ゲイル様は眠りましたか?」
ディンヴィリヴェーラに向けた氷点下の視線が嘘のように、マーティンが慈愛を眼差しに浮かべてレベッカの腕の中を覗き込んだ。
つい数日前にこの世に生を受けたゲイル=レイデは、凶暴に泣き叫んでいる時とは別人のように、まだよく見えていないはずの目を瞼の後ろに隠してすやすやと眠っている。両手は軽く握られ、赤みのさした頬が健やかそうだ。
「ええ、もうぐっすりよ。奥様は?」
「眠っていらっしゃいます。お疲れになられたのでしょう」
数時間おきに夜中目覚める赤ん坊のせいで、レイデ夫人は寝不足だった。それで今朝、妻の目の下にクマを見つけたレイデ伯爵が、「今日はリナレーアをしっかりと休ませるように」と魔物達に厳命して仕事へと出かけて行ったのだ。
「あまり長く寝かせてもダメよね? 夜眠れなくなるものね」
「そうですね。二時間くらい経ったら、庭に連れて行ってさしあげましょう」
今のところ、魔物達の子守はうまくいっている。てきぱきと排泄の世話や寝かしつけをこなすマーティンとレベッカのおかげだろう。
「……二人とも、慣れてますね」
エイダの言葉に、レベッカが一度目を丸くして笑う。
「あは! まぁ、あたしには年の離れた妹がいたからね。子守は初めてじゃないのよ」
「私も長く生きていますからね。一応一通りの経験はしていますので」
一方でエイダには、子守など初めての経験である。
「エイダ、抱っこしてみる?」
レベッカに言われて、エイダはふるふると小さく首を振った。
「いえ、いいです」
生まれたばかりの時に一度この赤ん坊を抱っこしたが、すぐ泣き始めてしまったのでものの数秒でリナレーアに戻してしまった。
けれどその時の感触は、今でも覚えている。驚くほど柔らかく軽かったのに、しっかりとした存在感と秤ではわからないだろう重さを感じた。リナレーアの大きな腹がたまに動くのを見るのだけでも不思議だったのに、あの腹の中からこれが生まれたのだと思うともっと不思議だ。
こんな生き物が、あの女性から出てきたなんて。
「いいからいいから、抱っこしてみなさいよ」
「いいです。いいですってば」
レベッカはいつも人の話を聞かない。固辞するエイダを無視してぐいぐいと赤ん坊を押し付けられ、結局その小さな生き物は再びエイダの腕の中に収まったのだった。
「……ゔゔ」
ゲイル=レイデが眉を寄せて少しみじろぎしたので、エイダはかちんと氷のように固まってしまった。
やはり、またこの間のように泣き出すのかと思ったが、一度ぴんと伸びをした赤ん坊はそのまま小さな体を弛緩させた。そして泣き出すこともなくエイダの腕から飛び出そうともしないので、彼女は途方に暮れた顔でマーティンを見た。
「……寝たのでしょうか?」
「うん。気持ちよさそうに寝ているね」
先輩魔物からそう確証を得て初めて、エイダは赤ん坊を間近からじっと見つめることができた。
つんと上を向いた小さな鼻がすんすんと動く。呼吸をするたび、エイダの手のひらに収まる大きさの胸はわずかに上下して、柔らかそうな髪が頭にぺたりとくっついていた。
「……この子は、魔物ではないのですか?」
エイダは、赤ん坊から目を離さないまま聞いた。
「どうしてそう思うんだい?」
マーティンが優しく問い返す。
魔物じゃないのだろうか。
だって。
「だって、とても甘い香りがして、心が暖かくなるような気がします」
腕に抱いただけで泣きたくなる。
無力なこの小さな体の中に、抗えない何かを感じる。
不思議な確信があった。
自分は、この子のためにならなんだってするだろう。
「どうしてでしょう。数日前に初めて目にした赤ん坊なのに」
なんの力も持たないはずの小さな存在なのに。
そう言うと、レベッカが「あはは!」と声を上げて笑った。
「あんたって本当にかわいいわね! エイダ」
小馬鹿にされた気がして、エイダはレベッカを睨んだ。すると、銀盆で殴られたところを前足で掻きながらディンヴィリヴェーラが言った。
《本能ダ》
「……本能?」
エイダは灰豹を見た。
《群レノ幼体ヲマモロウトスルノハ本能ニキマッテルダロ、ケケッ》
《食イタイノニナ……》
三つ頭の灰豹は、ぶるると頭を振ると、ぷいと踵を返して窓際の日が当たっているところに移動して横になる。その時、灰豹の尾がふわりと赤ん坊の足を撫でたのをエイダは見逃さなかった。
再び腕の中の赤ん坊を見る。
本能。
その言葉は、すとんとエイダの中に落ちた。
なるほど、これは本能なのだ。
自分が、これから何があろうともこの子を守ろうと思うのは。そう誓いたいと思うのは。
「本能なのね」
なぜだかほっとした。
この子が魔物ではないとわかったからだろうか。
魔物として生きるということは、安寧とは程遠いから。
この子には、ゲイル=レイデには、世界中でもっとも穏やかで幸福な日々を生きてほしい。
エイダはそう願った。
「マーティン。この子は幸せにならなければ」
エイダがそう言うと、マーティンが答えた。
「そうですね。きっと」