7「扉」

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 その扉は木でできていて、周囲の壁はすべて蔦で覆われていた。
 普段その蔦は家全体を覆っていて、招かれた訪問者がある時だけ蔦がうごめき扉が姿を現すのではないかとシンシアナは空想したが、
『植物を動かすことはできないのよ』とあの人はおっしゃったので、そうではないのだとわかっていた。
 今日もあまり時間はない。
 この場所を訪れる時だけが、彼女のささやかな安らぎだった。
 それはシンシアナから見れば、納屋かと思えるような小さな家だ。
 最初にここを訪れた時、幼い彼女の手を引いていたのは祖父だった。思えばあの時から、彼女の中の何かが決定的に変わったのだ。
 扉をノックする。
 するとほどなく、向こう側から扉が開かれた。
 覗いたのは透き通るような灰色の双眸。癖のある金色の髪は胸のあたりまで伸びていて、着ているのは装飾のない白いドレス。
 ずっと昔、幼いシンシアナは、森の奥の家から現れたのが厳めしい木こりではなく精霊かと見紛う可憐な女性であったので、目が零れ落ちるかというくらいに驚いたのだ。
 そしてあの時の精霊は、あの頃からずっと変わらない。
 シンシアナは微笑んだ。
「お久しぶりです、お姉様」
 女性もまた微笑んだ。
「ええ。久しぶりね。シア。さぁ、お入りなさい」
 家の中には部屋が四つ。入ってすぐ左には台所とテーブルがあって、シンシアナはいつもそこに通される。他の部屋は書斎と寝室ということだが、シンシアナは書斎にしか踏み入れたことはなかった。
 もう何度も訪れているが、この家に泊まっていったことはない。
「待っていてね。ケーキを焼いたところなの」
 確かに甘い匂いが漂っていた。シンシアナは顔をほころばせる。
「何か手伝いますか?」
 言うと、彼女はくすくすと笑った。
「以前あなたにお茶を淹れてもらおうとしたら、茶葉がポットから溢れ出たわ」
「あら、わたくし、あれから練習したのですよ。見ていてください。きっととびきりのお茶をご用意して差し上げますから」
 シンシアナは唇を尖らせてそう言うと、彼女の隣に立った。
「茶器はこれですね。茶葉は?」
「ここよ」
「うん。練習したものと、あまり変わらないわ。きっと大丈夫です。ええと、お湯はどこから出るのですか?」
「沸かすのよ。ここに水を淹れて」
「沸かす?……まぁ。火を?」
「そうよ」
「火はどうやって点けるのですか?」
「ええと、面倒ね。いいわ。そこに置いてちょうだい」
 シンシアナは言われた通り、水の入った鍋を竃の上に置いた。竃に火は入っていない。
 けれどその人の白い指が踊るように鍋の底をなぞると、とたんそこに青い火が点いて、水はあっという間に沸騰した。
「まぁ」
 シンシアナは感嘆のため息をついた。
「うちの魔術師が見たら卒倒するでしょうね」
 彼女は微笑む。
「じゃあ、そのお湯を、少しだけポットに淹れて。まずは茶器を暖めるのよ」
「ああ、何もおっしゃらないで、お姉様。わたくしに、お任せになって。ええ。ここまで揃えば、大丈夫です。お姉様はその美味しそうなケーキを切っていらして?」
「はいはい。じゃあそうするわ」
 シンシアナは慎重にポットにお湯を注ぎ入れた。ゆっくりとポットを回して中を暖め、湯を捨てる。これが大事なのだという。そしてティースプーンを使って、茶葉をポットに移す。スプーンの形状が練習したものと少し違ったが、少しくらいの誤差は問題ないだろう。そして彼女はゆっくりと新たに湯を注ぎ入れた。
 茶葉の香りが鼻腔をくすぐる。
「いい香りね。お父様もお呼びしようかしら」
 シンシアナはどきりと心臓が大きく鳴るのを抑えきれなかった。そしてその鼓動が隣の美しい人に聞こえてなかったかどうかを危惧した。
 その人の父に、シンシアナは一度だけ会ったことがある。あの時彼女は、ただ震えていた。彼が持っていた深く暗い闇がまとわりついてくるようで恐ろしかった。
「ああ。そういえば、お父様はでかけていらっしゃるのだわ」
 残念ね、とその人はシンシアナに笑いかける。
「あの方も……出かけられるのですね」
 どこかほっとしながら、シンシアナは聞いた。
 一度だけ相見えた彼は、外界に興味があるようには思えなかったからだ。
 あの人は、そう、ただ、生きていた。娘であるこの人を見る時だけわずかな慈愛を感じさせたが、それ以外はただ時間が経つのを待っているようだった。
 誰かを……待っているようだった。
「数日に一度はでかけるわ。母を捜しに」
 シンシアナは困惑した。
「奥方様を……?」
 その人は、もう亡くなっているはずだ。シンシアナが生まれる、ずっとずっと昔に。
 隣に立つ美しい人は、ナイフを入れたケーキをそっと皿に移して息をついた。そのため息さえも、甘い芳香をまとっているのではないかと錯覚を覚える。
「父は精霊と約束をしたの……。母の魂を捕らえるって。私も弟も反対したのだけれど、父には耐えられなかったのね。母を失うことが」
「……」
 シンシアナは困惑する。
 するとその人は、彼女を見て微笑んだ。
「男の人って本当に馬鹿よね。さぁ。カップを準備してシア。ケーキを食べましょう?」
 微笑んでいてもその人は、どこか悲しげに見えた。その笑顔を見たシンシアナの胸はひどく痛んで、彼女は慌てて言った。
「お姉様、わたくし、結婚するのです」
 言ってから、舌打ちをしそうになる。
 こんなことを言ってどうなるのか。かの人の屈託を晴らすことなどできるはずがない。
 けれどその人はきょとんとした様子で一拍置くと、ついで両手をパン! と合わせて「嘘!」と声を上げた。頬が紅潮している。
「結婚? シアが? やだ。本当? 誰? 誰かしら?」
「ま、魔術師です……。その……。公的にではなく、内緒で……」
「やったわ! ああ、信じられない!」とかの人はシンシアナを抱きしめた。シンシアナは顔を赤くする。
 そんなに喜んでもらえるとは思わなかったのだ。
「あなたが、結婚? ああ。私、シアはもう結婚なんてしないんだとばかり思っていたわ。でもあなた、まだ二十七だものね? 子供だってじゃんじゃん生めるわ。嬉しい。ねぇ。生まれたら連れてきてね?」
 シンシアナは目頭が熱くなるのを感じた。
 こんなふうに、この結婚を手放しに祝福してくれる人は他にいない。彼女だけだ。だから自分は今日ここに来たのだろうか。
 期待していた?
 その人はその果実のような唇をシンシアナの頬に軽く触れさせた。
「おめでとう、シア。今日はお祝いね」
 シンシアナは頬を流れる涙を意識しながら微笑む。
 その人の口づけが、祝福を意味するのだと知っていた。
「ありがとうございます、ティレアリア様……」
 そう言って、冷酷にして鋭敏と評される帝国の女帝は、抑えきれぬ涙を覆って俯いたのだった。



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