12.境界線


 俺は一本線を引く。
 意識してそうしてるわけじゃないけど、これまで何人かの女性にそう言って振られてきたからそうなのだろう。
 けれど彼女はいとも簡単にその線を越えた。
 これまで付き合ってきた女性達と彼女と、いったいどんな違いがあったのかはわからない。
 けれども俺はいつしか知っていた。
 ああ、この人なのだと。
 この人がそうなのだと。




「いやよ」
 彼女のその台詞に武一は凍り付いた。

 指輪は既に買っていた。
 下準備は完璧だったのだ。
 指輪のデザインは矢那が好きそうなシンプルなもの。値段もそれなりにしたが、その分長く使えるだろう。肝心のサイズは変わっていないはず。
 レストランも夜景の綺麗な店の窓際を予約して、料理はなんとコース料理だ。大奮発だと言えるだろう。
 もちろん台詞は一ヶ月もの間熟考して絞り込み、推敲に推敲を重ね、いわゆるロマンチックなプロポーズというものを演出するために用意したものだ。
 なにせその日は女性と二人で過ごす初めての誕生日だった。
 誇張ではない。
 二十八という年齢になるこの年まで彼は、自分の誕生日を家族抜きで迎えたことなどなかったのだ。
 いや、正確には、矢那はもうすでに家族も同然だと彼は思っていたし、もちろんこれから自分がする提案に彼女が拒否を示すとは微塵も思っていなかった。
「これからのお前の一生を、俺に護らせてくれないか?」
 その答えは、是以外のものであるはずなどなかった。
 それなのに。
「いやよ」
 と彼女はそう言った。
 え? と聞き返すこともできない。
 いわゆる痛恨のダメージというやつだ。レベルが1とか2とかの状態でラスボスに挑んで死にそうになっている時の気持ちだった。相手の攻撃は、たった一撃で自分のHPを3くらいまで減らしてしまうほどの破壊力を持っていた。
 ああ、やっぱり待たせすぎたのがいけなかったのだ。
 と武一はそう思った。
 その手からぽろりと指輪のケースが落ちる。
 ああ、差し出した右手が恨めしい。
 なんてことだ。
 こんなに時間が戻ればいいと願ったのは、両親が死んだ時以来だった。
「ちょっと、指輪落ちたわよ、もう」
 ああ、いいんだそんな指輪。
 帰って静にでもやるよ。あいつは正平からこんなのもらい慣れてるかもしれないが……だったら大きくなった華子にやる。
 うう。
 ちょっとまて自分、と武一は叱咤した。
 こんなことでどうする。一家の長が。
 女に一度ふられたくらいで何だ。
 何度でも口説けばいい話だ。
 彼女しかいないと、そう思うなら。
「武一さん?」
「矢那、あのな……」
 意を決して顔を上げる。
 しかし咄嗟に次の言葉が出てこなかった。視覚情報を得てそれを認識し、それが思考に到達するまでに少し時間が必要だったからだ。
「……お前なんでその指輪してるんだ?」
「え? だって私にくれたんじゃないの?」
 矢那の左手の薬指には彼女のために選んだ指輪がぴったりとはまっていて、矢那は嬉しそうに頬を染めている。
 彼女はにっこりと微笑むと、そっと伸ばされたままの武一の右手を手に取った。
 そして彼女はこう言ったのだ。
 うっすらとその双眸に涙を溜めて。
「ありがとう武一さん。すごく嬉しい。でもね、護ってくれなくていいの。だって一緒に生きていくんでしょう? あなたと結婚するからには、長男の嫁としてあなたもあなたの家族も皆護ってあげる。私には、それくらいの覚悟はあるのよ」




「あの時あいつは女神だと俺は思った」
「………っ」
「静、笑いすぎ」
「矢那さんすごいねー。いいなぁ。僕もそんなふうに言ってくれる人と結婚したいなぁ」
「ちょっと、武一大丈夫? お酒飲みすぎじゃないの……?」
「ヴィーナスだと俺は思った」
「……ちょ、もう武兄、やめて。笑い死ぬから」
「静涙出てるよ」
「その前に彼女が欲しいなー」
「静、大人なんだから床に転がって笑ってないで。綱君も傍観してないで。ヒロ君は武一からいい加減日本酒取り上げて。それ以上面白くなったら静が本当に死んじゃうから」
「アフロディテだと俺は思った」
「………っっ」
「……武一いい加減にして。静を笑い殺す気?」