15.後ろめたさ


 この廊下には果てがないように見える。
 いや、実際に果てはないのだ。まるで合わせ鏡の世界のように、床はずっと先まで伸びて、扉はどこまでも続く。
 もちろん魔法だ。
 鏡の魔法を使う魔女など、きっと今この時代には一人しかいない。
「師匠ー」
 北の国のはずれに建てられたこの屋敷は、北の国の王がその妃のために用意させた離宮だ。妻に盲目的な愛を注ぐ北の国の王は、こういった絶え間ない努力によって気まぐれな魔女をかろうじてその隣につなぎ止めている。
「ったく」
 瓏ははぁと息を吐いて足を止めた。
 本来なら王の妃の離宮に彼のような若い男が一人で訪問することなど歓迎されるべきことではないはずだが、あの北の王でさえ彼をとがめることはない。
 なぜなら彼もまた魔女だからだ。
 おそらくこの世界で生まれた最後の高位魔女。
 北の王妃の唯一の同胞。
 ただ一人の弟子。
「あの部屋かな……」
 瓏はその赤い双眸を周囲に走らせ、無限に続く扉の中からただ一つを選び出した。
 真鍮のドアノブがついた、なんの変哲もないその扉を瓏は来訪を告げることなく開ける。
「師匠?」
 中は意外なほど小さな部屋だった。
 中央に女性一人が余裕で眠れる大きさの寝台と、部屋の隅に卓と椅子が置いてあるだけである。
 これは魔女が眠るためだけに作った私室で、外部の物音を完全に遮断した空間なのだと瓏は知っていた。以前にも一度だけ、来訪した彼に気付かず魔女がこの部屋で睡眠を取っていたことがあったからだ。
 その話を聞いた瓏の母は、感心したように言ったものだ。
『まぁ。お義母様は本当に瓏に心を許していらっしゃるのね』
 どうやら自分が眠っている私室に第三者が踏み入れることを許すなど、以前の魔女には考えられないことであったらしい。
 実際、魔女が瓏にいくつかのことを特別に許可しているのは真実だった。たとえば誰の許しもなくこの離宮に訪れること、この扉が無限に続く空間へ踏み入れること。
 魔女の寝室を見つけられるのは、彼の魔女としての才覚ゆえだ。本当の部屋へ通じる扉は、魔力が凝っているように見えるのだ。彼がそれを見分けられるようになったのは、十六になった時だった。
「いねぇな……」
 室内が無人であることをすぐに確認した瓏は、がっかりして肩を落とした。どうやら今日は本当に不在らしい。
「今日来るって言っておいたのに……」
 聞きたい事があったのだ。
 だがこれだけ呼んで、この部屋にもいないということであれば、魔女は出かけてしまっているのだろう。
「しょうがねぇなぁ」
 彼が諦めて帰ろうとした時だった。
 目の端に動く影を捕らえた。
 何かと再び室内に視線を戻して、それが卓の上に置かれた鏡なのだとすぐに気付く。動いたのは鏡に写った自分の虚像だ。
 瓏は一瞬躊躇してから室内に踏み入れ、卓に近付きその鏡を手に取った。
 それはおよそ彼の知る魔女には似つかわしくないものだった。
 おそらくその辺の露店で売っているような量産品。子供の玩具だ。それも決して新しいものではなく、それなのに今自分の顔を映す鏡面は磨き上げられたかのように曇りひとつなかった。
 瓏はすぐにそれがなんなのかわかった。
 彼が生まれる前に、彼の父が記憶をなくしていた魔女に買ってあげたという手鏡。
 記憶を取り戻した魔女がそれを持っているところは見たことがないので、きっと捨てたのだろうと父は言っていた。
 違ったのだ。
 と瓏は理解した。
 あの愛すべき天の邪鬼な魔女は、これをずっと持っていた。それも大切な宝物のように、ずっとこの自分だけしか踏み入れぬ私室へ隠して。
 瓏はふと笑いをもらすと、その鏡をそっと元のように戻して踵を返した。そのまま黙って部屋を出て、廊下を戻ってまた扉の一つを開ける。
 するとその向こうはまた廊下だった。けれど今度は正面にきちんと窓があり、すぐ右には曲がり角がある。左側には扉が二つしかなく、廊下の突き当たりには何も飾られていない壁がまっすぐにたっていた。
 瓏は別に驚くことなく左の曲がり角を曲がり、屋敷の出口に向かって足早に歩いた。
 あの空間からこんなふうに自由に出入りができるのは、あれを作った本人の他には彼だけだ。赤い髪と眼を持つ西の国の新祢姫でさえ、こんなふうに魔力の流れをはっきりとつかみ取ることはできない。
 おそらく、この世界に残ったただ二人の高位魔女。
 だからこそ魔女葫は瓏にいくつかのことを許してはいるが、今回ばかりは本気で怒ってしまうかもしれない。
 瓏は笑う。
 あの魔女が帰る前に、早くこの屋敷を離れなくては。そしてもう二度と、女性の私室に許可なく踏み入れることはやめようと彼は思った。
 あれは明らかに魔女の秘密だ。
 きっと誰にも知られたくはない、魔女の心のかけらだった。