16.淋しさ


 不思議だった。
 どんなに殴られ罵倒され屑のように扱われても、あの女は自分にとって母だったのだ。
 あの女から引き離され施設に入った最初の夜、この目から溢れた涙がそれを証明していた。
 僕は同室の子供にわからぬように枕に顔を押しつけ嗚咽した。
 愛してほしかった。
 他の誰でもなくあの女に。
 そう思った自分がただただ滑稽で、惨めだった。




 五年生になって少しした頃だった。
 当時クラスでは大抵の学校に存在するひどく無意味なもの、いわゆるいじめというやつが発生していて、その時標的になったのはクラスで一番太った女子だった。
 子供というのは残酷なもので、他者を排除する時には抜群のチームワークを発揮する。彼女は特別なきっかけもなく標的になり、そしてクラス中の男女に無視をされたり菌扱いされたりした。
 僕はそれに積極的に参加することさえなかったが、かといって彼らを止めようとしたりはしなかった。そんなことをすれば標的がこちらに移ってくるのは目に見えてわかっていたし、それはひどく面倒なことに思えたからだ。
 僕は当時から、クラスの中でも地味な方で他人に無関心だったが、そういったトラブルに巻き込まれたことは一度もなかった。
 特に仲のいい友達がいるわけではなかったがそこそこに要領と愛想がよく、異質だと他者に思わせない術を知っていたからだ。
 おそらく彼女には、そういった能力が欠如していたのだろう。
 少しくらい太っていてもうまくやれる奴はいくらでもいる。そういう意味で、彼女は異質だったのだ。
 まず彼女は不正を嫌った。駄目なことは駄目だとはっきりと言い、曖昧な部分を糾弾した。相手が誰でも物怖じせず、まっすぐに目を見て対峙した。
 その強さがきっと、周囲の恐怖を煽ったのだ。
 彼女を排除しなくてはならないと思わせた。
 実際彼女は強かった。
 クラスメートのどんないじめにも泣くことも笑うこともしなかったし、それを教師に言うこともなかった。菌扱いされても黙々と掃除を続けたし、ノートの落書きなど見えないように振る舞った。
 そのせいでいじめがどんどんエスカレートしていっても、彼女は表情を崩すことなく、毎日規則正しく登校し続けた。
 夏休みに入る前のことだ。
 僕はその日、帰宅途中に忘れ物を思い出して学校へ戻った。部活動をやっているグラウンドの横を通り過ぎ、昼間よりずっと静まり返った校内を歩く。この時間はもう教室にも誰もいないだろう。
 そう思っていたが、開け放たれた教室の戸口から人影が見えて僕は立ち止まった。
 彼女だった。
 僕は息を飲んだ。
 彼女はこちらに背を向けて、窓際に立っていた。
 美味しそうな夕日。
 ずんぐりとした彼女の身体の形を切り取って貼付けたような影が机と椅子と床の上に落ちている。
 彼女の机は窓際から二列目だった。
 今日の下校時間まではなかった落書きがされている。そしてその上に、泥のようなもので汚れたスニーカーが置いてあった。彼女のものだ、と僕はそう思った。
 二つ呼吸をした後、僕は口を開いた。小さく、けれど確かに彼女には届く声で。
「……死にたいの?」
 そう聞いた。
 彼女の肩がびくりと震える。僕がいることには気付いていなかったのだ。
 振り向くだろうと思った彼女はけれど、まったく動こうとはしなかった。
「……」
「……」
 おそらく三分にも満たない時間が経ち、僕が諦めて忘れ物だけ取って帰ろうとしたその時に、
 がたん!
 と大きな音がした。
 なんだと思う間もなく、彼女は机の上の靴を奪うように取り、僕を突き飛ばすようにして(太っているから僕の横にあいた隙間は通れなかったのだ)教室を出ていった。
 すれ違い様に低い呟きを残して。
 よろめいた僕は、戸口に肩をぶつけた。
 そして教室の中を見る。彼女が立っていた場所のすぐ横にあった椅子が倒れ、机が動いていた。たぶん、蹴ったのだ。彼女が。
 脳裏に鮮やかに蘇る彼女の顔。
 涙がぬぐいさられた跡の残る頬。赤い瞼。真一文字に引き結ばれた唇。低く、けれど強く響く声。
「……はは」
 僕は笑っていた。
「……あはは」
 なんて。
 綺麗な。
 その時僕は理解したのだ。
 僕も、彼女を恐れていた。
 その強靭さを。正しさを。鉄のような揺るがなさを。
 彼女ならきっと、僕のように、手に入らないものを求めて泣いたりはしない。そう思って、畏怖した。
 だから見ていた。
 ずっと彼女を。
 この感情の名を知らぬまま。
 今まで名前さえろくに覚えてこなかったクラスメートの中で、彼女の名前だけすぐに覚えられたその理由を、考えぬまま。
「……一谷伊津」
 僕はきっと、これから一生墓に入るまで、あの時の、すれ違い様の彼女の声と言葉を忘れることなどないのだろう。
 あれは、僕の心が完全に奪われた瞬間だったからだ。


「クソッタレ」