17.旅立ち


「駄目だ。新祢。僕には我慢できない。あいつを殺して僕も死ぬ」
「馬鹿なことを言うではない。それではなんの解決にもならぬわ」
「そうよお父様。殺したってなんの解決にもならないわ。拷問して身を引かせるか、久袮にあることないこと吹き込んであの男を見捨てさせるかしないと……」
 けっして狭くはない部屋の隅で、親子三人がひそひそと話し合っているところに呆れたようなため息が響いた。
「……王菜、あなたそんなことをお父様に吹き込んで楽しいの?」
 すると王菜と呼ばれた女性はにっこりと微笑んで振り向いた。
「楽しいわ」
「そうか。なるほど王菜の言う通りだね。あの男を殺してしまっても久袮が悲しむだけだ。久袮があの男を蛇蝎のごとく嫌うよう誘導しないと……」
「……お父様。わたくしは彼が身を引いたら追いかけますし、誰に何を吹き込まれても、自分の耳目で見聞きしたもの以外は信じませんわ」
「……」
「そんな悲しそうなお顔をなされても……」
「王伊、もういい加減諦めたらどうじゃ。久袮が選んだ幸せなのじゃ。妾達にできるのはそれを信じて見守ろうことであろう?」
「ううう。今なら珀御前を閉じ込めた北の王の気持ちがわかるかも……」
 そう言って、ぐったりと王弟は肩を落とした。
 そんな父の様子を見て久袮は仕方がなさそうに笑う。
 彼女はまだ十六だった。
 双子の姉である王菜よりもずっとおっとりと育った彼女が、まさかそんな早く、それも旅芸人の男と恋に落ちて結婚するとまで言いだすとは誰も予想だにしなかったことだった。
 彼女はすっかり落ち込んだ様子の父の前に膝をつくと、その手に触れた。
「……お父様、そんなお顔をなさらないで。……久袮は、ずっとお父様とお母様に育てていただいたから、幸せというものがどういうものか知っております。だから大丈夫。どうかご安心なさって……?」
 久袮は、下位ながらも持っていた王位継承権を放棄して七日後にこの王宮を出る。結婚式もせずに急なことではあったが、旅芸人というものはあまり一所に長いこと留まっていても稼げないものなのだ。恋した男を追いかけて国を出るというその意志は、きっと恋をしたその瞬間から、彼女にとって決して揺るがないものだった。
 二百年の眠りにつこうとする恋人に、二百年後に迎えに行くと言ったあの男のように。
 王伊は小さく息を吐くと、まるでまだまだ幼い子供を見るように優しく笑った。
「……君はずっと僕と新祢の可愛い娘だよ。だから幸せになれるってことはわかってる」
 幸せになれないはずがない。
 奇跡のようにして生まれた二人の娘。
「君も王菜も新祢に似て賢く美しく優しい女性だ。どうか、そのことをずっと忘れないでね」
「……はい、お父様」
 久袮は微笑み、父にそっと抱きついた。




 抱き合う父と娘のその後ろで、新祢はようやく安堵の息を吐いた。
「……王菜」
「わかってるわお母様。ご安心なさって大丈夫。あたしはまだまだ結婚する気なんてないの。あたしはこんなに賢くて美しくて優しいんだもの。一人の男に縛られるなんてもったいないと思わない?」
 そう言って、もう一人の娘はくすくすと笑った。
 その傲慢な言い草が、東の国の友人を思わせるようで新祢は苦笑した。今はこう言っているが、王菜もそう遠くない未来に誰かの妻となるだろう。
 娘達はいずれ旅立っていくが、それでもこの手に残されたものはある。
 暖かく優しいそれを、新祢はかつての恋人に教わって、今の夫と共に育み、娘達に伝えることができた。
「新祢」
 王伊はいつの間にか立ち上がっていて、自然な仕草で妻を腕の中に抱いていた。
「ありがとう」
 新祢は笑った。
 そしてこの上なく幸福だと、そう思った。