18.即席


 その翌日の日曜日に正平がようやく休みを取れたというので、静と二人ででかけるように勧めたのは武一だった。正平は喜んだが、静は「駄目よ」と首を振った。
「どうして? いいじゃない。華子が生まれてからずっとデートらしいデートをしてないし」
「でも私達がいなかったらきっと泣くわ」
「華子は武一達にも十分懐いてるよ」
 静はどこか恨めしそうに、綱に抱っこされている娘を見た。
「行ってくれば?」
 綱が言って華子を高く持ち上げてやると、彼女はきゃーと声を上げて笑う。
 その笑顔が決め手だった。
 静は小さくため息をついて、
「わかったわ」
 と言った。




「さて」
 と武一が言った。
「いいか? 静が持ってきたおむつはあそこだ。着替えはこれ。このツナギみたいなやつが下着だ。パンツはなし。昼飯は一時、風呂は七時。夕飯はその前だ」
 華子は一歳を四ヶ月過ぎたところだった。まだ意味のある言葉を話すことはできないが、ある程度自分の意志を伝えることは可能のようだ。
 静が家から持ってきた華子のお気に入りだというぬいぐるみを綱が押し付けると、彼女はそれを乱暴に振り払った。
「やー!」
「なんでだ。お前が好きなやつじゃないわけ?」
「押し付けるからだよ綱兄」
 広中が笑いながら絨毯の上に座っている華子をひょいと抱き上げて膝に乗せた。
「さー、華子。教育番組でも見る?」
「やー!」
 しかし彼女がじたばたと暴れるので広中は眉尻を下げて彼女を膝からおろした。
 どうやらお姫様はさっきからずっとご機嫌斜めだ。
「よし、これの出番だ」
 武一は言うと、台所に戻って出かける前に静が用意していたミルクの入った哺乳瓶を持ってきた。人肌に冷ましていたのだ。
 ソファを回ってきて華子を抱き上げた兄を見上げながら、綱が笑う。
「懐かしいな。俺広中にミルク作ってやったことある。覚えてるか?」
「覚えてるわけないじゃん。それにその話聞いたことあるし。綱兄も年取ってきたね」
 広中が呆れたように言うと、頭上で華子が叫んだ。
「やー!」
「おいおい、ミルクもいやか? 何が気に入らないんだ」
「静達がいないことだろうな」
 綱が言うと、とたんに華子の顔が歪んだので武一は慌てた。
「ば、綱! 華子、大丈夫だ。静達はすぐ帰ってくるぞー」
「夕飯も食べてくるって言ってたよね」
 広中が追い討ちをかけた。
「っぎゃーーーーあん」
 乳児の悲鳴のような泣き声が河野家に響く。
 綱と広中はさっと耳を塞いだ。
「華子! 落ち着け! よしわかった! こっちへ来い!」
 顔を引きつらせた武一が華子を連れたまま居間を出て行ったので、残された二人の兄弟は顔を見合わせた。
「どこに行ったの?」
「さぁ」
 二人が頷いて居間を出ると、どうやら泣き声は一階の寝室から聞こえてくるようだった。
「よし華子! これを見ろ! ママだぞ。ほら。匂いも一緒だ。わかるだろ?」
 二人が寝室を覗きこむと、武一が何やら枕を両手に持ってコミカルな動きを見せている。驚いた事に、ベッドの上に座り込んだ華子は泣き止んでいた。
 部屋の中に入ってから、二人は枕に落書きがされていることに気がついた。おそらくマジックで書き込んだのだろう、乱暴な顔が描かれている。それはお世辞にも静には見えなかった。
 しかし武一がその枕を近付けると、華子はきゃっきゃと笑顔を見せた。
「……マジで?」
 綱が苦笑する。
「さすがだけど武兄……」
 広中は残念そうな顔をした。
「そのカバー、シルクだよ。たぶん。静姉が向こうの家から持ってきてたやつだから」
「……言うな。俺も描いてからあっ、と思ったから」
 華子をあやすため笑顔を作りながらも武一は答えた。
「……」
「……」
「……」
 おそらくもう二度と三人で子守りは任せてもらえないだろうと思った兄弟だった。