1.はじまり


 正平は乱暴に部屋の扉を開けた。
 もともと私物の少なかったその部屋の荷物は隅にまとめられていて、動きやすい格好で床を雑巾がけしていた彼女を目に入れると彼はあからさまに顔をしかめた。
 右手に雑巾を持って四つん這いになっていた彼女は、チャイムさえ鳴らさずこの部屋の中まで入ってきたその男を見て眉間に皺を寄せた。
「合鍵でも作ってたの?」
『どういうこと? シズ』
 彼は珍しく、恋人の言葉を無視して言った。
 その顔には怒りが露わになっている。彼はずかずかと部屋の中に入り込むと、彼女の前に膝を折ってその細い腕を掴んだ。いつもならまるで硝子細工にそうするかのように彼女に触れていたその手には無意識に力が入っていて、静は眉間の皺を深くした。
 それを見て正平は少し力を緩める。けれど手を離す気にはなれなかった。
『どういうこと?』
 彼女と知り合ってから忘れかけていた日本語を勉強し直した。母が日本人だったこともあって、今はもう日常会話なら問題がないようになっていたが、頭に血が上っていた彼は彼女の母国語で話すことを忘れていた。
『どうして会社をやめたことを僕に黙ってた?』
 日本の会社からアメリカに出向してきていた彼女を引き抜いたのは正平だ。
 アメリカで静に出会って恋に落ちた彼は、彼女の頑なさを何度かの会話の中で感じ取って非常に注意深く彼女に接していた。淡い好意を感じさせることを言っても、無遠慮に迫ったりはしない。やり取りは基本的にメールで、一定の距離を取り、よき相談相手と彼女に思ってもらえるような言葉を選ぶ。
 上司とうまくいかずについには自主退社という形で解雇された彼女にすぐ会いに行った。もちろん仕事を作って、あくまでそのついでを装って。そして彼女を気遣う言葉を言って、イギリスに来ないかと誘った。彼女は欲目でなく優秀だったし何より努力家だった。そして彼女は正平が会長を務めるグループ会社の中途試験を正式に受けて採用となった。
 イギリスに来させてしまえばこっちのものだ。正平は静にしつこくアプローチをした。食事や映画に誘い、電話やメールをした。彼女が自分を恋人として認めてくれた時は本当に天にも昇るような気持ちになったのだ。
 正平は彼女と結婚するつもりだったし、静もそうだと思っていた。
 それが今日、正平は静が会社を退職していたことを知った。それを彼に教えたのはサミュエルだ。正平はグループ会社の人事や雇用を細かく確認しているわけではない。もしたまたま書類を確認していたサミュエルがそれに気付かなければ、正平は彼女を見失っていたかもしれなかった。
 その証拠に、彼女は今にもこの部屋を引き払おうとしている。彼がプレゼントした花瓶は、無造作にダンボールの中に入っていた。
『シズ』
 こんなにも怒りを覚えたことは初めてだった。
『きちんと答えてくれ』
 懇願するように言った。彼女の口から納得のできる言葉を聞くことができなければ、このまま彼女をどうにかしてしまいそうだった。
 静の黒い双眸が正平を一瞥すると、その可愛らしい口は小さくため息をついた。
『言わなきゃわからない? もううんざりなの。あなたの手の中で生きるのは』
 まだ恋人になる前には何度も聞いた毒舌だ。
 彼女はたとえ相手が自分の働く会社を所有している男でも、決して媚びなかったし正直だった。
 腕を男に掴まれたまま、彼女は顔を上げる。かつて心を奪われた、真っ直ぐに射るような双眸がこちらを見ている。黒い宝玉のようだ。正平は、その眼が嬉しそうに細められるのが好きだった。
『別れましょう。私は日本に帰るわ』
『嫌だ』
 彼は言下に答えた。
『君は僕を見くびりすぎている。君が病院に行ったことくらい、調べればすぐにわかるんだ』
 彼女の瞼がぴくりと震える。そして無意識にだろう、その小さな白い歯で唇を少し噛んだ。
 正平は幾分冷静になっていた。
「結婚しよう」
「やめて」
 彼女は正平の手を振り払う仕草をしたが、彼は離さなかった。
「どうして。その子から父親を奪うつもりなの?」
 わざと彼女が怒るような言葉を選ぶ。
「父親はあなたじゃないわ」
 正平は眉宇を寄せた。そんなのは嘘だとわかっている。けれど向ける先のない嫉妬が腹の奥から湧き上がってきた。
「意味のない嘘だ」
 静は笑った。
「どうして嘘だってわかるの? 私を監視でもしてたの?」
「君はそんなことできない。それくらい僕が知らないとでも思っているのか」
「あなたは私のことを何も知らない」
 彼女はきっぱりとそう言った。
「君のすべてを知っているとは思ってない。ただこれは事実だ。もし君が本当に」正平は何かを吐き出す前のような顔をしてから続けた「本当に、なんらかの理由で他の男と関係を持ってしまったとしたら、君はそれを僕には黙っておけない」
「私はあなたが思っているような女じゃないわ」
「君こそ僕がなにを君に見ているか知らないだろう」
 彼女が。
 何かを秘めているのは知っていた。
 ずっと彼女を見ていたのだ。気付かないわけがない。
 けれど正平は彼女が話してくれるのを待っていた。そうしろと、ベルに言われたからだ。
 正平はもどかしげに彼女の腕を引くと、その華奢な身体を抱きしめた。柔らかな温もりに心臓が高鳴る。たとえどんなに長く側にいようとも、自分が彼女のこの柔らかさに慣れる日などこないだろう。
「君を愛してる」
「……私は愛していない」
 嘘だとわかっていても、彼女のその言葉は正平の心臓にぐさりと突き刺さった。
「僕は愛してる。君を愛してる。世界で一番愛してる」
 痛みを覆い隠すようにして彼は繰り返した。
『愛してる』
「うざい!」
 どん、という衝撃が胸にきて彼は尻餅をつく。甘い言葉を囁いていた恋人を突き飛ばした静は、すっと立ち上がった。そして男を見下ろす。
「うざいうざいうざいうざい!!」
「う……さすがの僕も三日くらい再起不能になりそうだよ……」
 正平は心臓を押さえて呻いた。
 静は顔を歪めている。
「うざいのよあんたは! どうしてそうなの? どうしてそんなんなのよ? あんたがそんなだから私もほだされちゃったのよ。あんたを好きになんてなるんじゃなかった。こんな……こんなことなら」
 君の屈託を僕は知らない。
 けれどそれでもよかったのだ。大事なのはとても単純なこと。互いに互いを愛しているということだ。
 正平はそう思っていた。
 子供ができたと知って彼女は正平の前から姿を消そうとしたくせに、子供を堕ろそうとはしなかった。病院で医者に聞いたのだ。彼女は嬉しそうに笑顔さえ浮かべていたと。
「ありがとうシズ」
 正平は彼女の言葉を遮って言った。
 心臓を押さえていた手を伸ばし、まだふくらみのない静の腹に触れる。ここに命が宿っている。それはこの世のどんなことよりも不思議で素晴らしいことだった。
「ありがとう」
 彼女の黒い双眸が涙で滲む。泣くまいと我慢する恋人は、このうえなく可愛らしかった。
 正平は立ち上がってもう一度彼女の身体を腕の中に閉じ込めた。そのまま彼が何も言わないでいると、やがておずおずと彼女の手が背に回されたのを感じて正平は狂喜した。
「愛してるよ、シズ。僕と結婚しよう」
「……馬鹿」
 彼女のその罵倒はひどく甘く、彼は思わず笑みを零すと彼女の髪をそっとよけてその首筋にキスをした。