23.つま先


 生まれてすぐ魔法にかけられた赤の国の王女は、ずっとこの王城の奥の屋敷で一人暮らしていた。
 彼女の世話をするため屋敷を出入りする女官達が親しく主人に話しかけてくることはなく、王や王妃も訪れることはほとんどない。
 それは王女のために作られた鳥籠であり、彼女だけの箱庭だった。
 そんな屋敷の庭の薔薇の花の間に座り込み、新祢は困り果てていた。
 天気がいいからと庭を散歩していたら、大きな石につまずいてしまったのだ。幸い薔薇の茂みに突っ込むことさえなかったが、どうやら足の親指の爪が割れてしまったようだ。
「困ったのう……」
 呼べば誰かはやってくるだろうが、見つかったらまたすぐ寝室へ押込められるだろう。
 彼女は病み上がりだった。ここ数日、風邪をひいて寝込んでいたのだ。まだ熱の高かった昨晩とは打って変わって今朝はとても気分がよかったので、こうして一人で庭に出ている。
 しかしいつまでもここで座り込んでいるわけにはいかない。
 観念して誰か呼ぶか、痛む足に鞭打って部屋に戻るか思案していると、がさがさと草のこすれる音がした。
「こちらにいらっしゃいましたか」
 振り向いた新祢は安堵に微笑んだ。
「久旺」
 この世界でただ一人、彼女の孤独を癒してくれる従者の青年だ。
 彼なら他の女官達のように新祢の意見を理不尽に無視することはない。
「転んで足を怪我してしまったのじゃ」
 彼女が言うと、久旺は息を吐いた。
「あまり心配させないでください。空の寝台を見た時は肝が冷えましたよ」
「もう熱は下がった。これは不運な事故じゃ」
「どれ、見せてください」
 久旺が足元に跪く。すでに靴は脱いでいた。足のつま先には血が滲んでいて、今もじくじくと鈍い痛みを訴えている。
「爪が割れていますね。他に怪我は?」
「そこだけじゃ」
「それでは失礼」
 久旺はそう短く断ると、ひょいと両腕で新祢を抱き上げた。彼は少しも重くなさそうに庭を横切ると、屋敷の南側に面した新祢の私室へ入り長椅子に彼女を降ろす。
 そして「水を取ってきます」と短く言って部屋を出て行った。
 久旺は間もなく戻ってきて、無言のまま寝椅子に横たわる彼女の前に跪くとそっと彼女の足を取った。そして水で濡らした布で血を拭う。
「痛い」
「当然です。怪我をなさっているのですから」
「怒っておるのか?」
 彼女が問うと、久旺は不愉快そうに片方の眉を上げてその主人を見た。
「どうして君はわざわざ僕の目が届かないところで怪我をするんだ」
 そう言われて、新祢は困ったように眉根を下げた。
「好きで怪我をしておるわけではないぞ」
「好きで怪我をしていたら殴りますよ」
「……」
 新祢が本当に久旺に殴られたことはこれまで一度もない。けれどその言い方で、自分が本当に彼に心配をかけてしまったのだとわかって新祢はしゅんと肩を落とした。
 そうしている間にも久旺は手早く治療を進め、新祢のつま先に包帯を巻き始める。彼女の白い足は今久旺の膝の上だった。
「……すまない」
 彼女が謝罪を口にすると同時に、久旺は包帯を巻き終えた。てっきり長いお説教が始まるのだと思ったら、彼がその膝の上に置いた新祢の足を恭しく持ち上げ、包帯の上からそっと口付けを落としたので驚く。
「く、久旺」
 何をするのか、と問う前に彼がまっすぐに彼女を見上げてきたので新祢は口を噤んだ。
「僕は熱にうなされる君を見るのも、怪我をして痛がる君を見るのも大嫌いだ」
 自分が風邪で寝込んでいる間、つきっきりで看病をしていてくれたのは他でもない彼だったことを新祢は知っていた。朦朧とした意識の中でかけられる優しい言葉や頬を撫でる温かい指先。それらがどんなに彼女の心を満たしたか知れない。
 新祢は無意識のうちに手を伸ばし、そっと彼の頬に触れた。
「心配をかけてすまなかった。……もうそなたを置いてどこにも行かぬ」
 その約束が果たされることはないのだとわかっていても、新祢はそう言った。
 自分はいずれ魔法の眠りに落ちる。
 けれど。
 今こうしていることが消えるわけではない。
 彼の大きな手が頬にある新祢の手に重なる。
「……君はすぐそんな約束忘れてしまうだろうね」
 新祢が反論する前に久旺は続けた。
「でも僕は、決して君を一人にしない」
 そんなことは叶わない。彼女が眠りに落ちている間に、彼の寿命はやってくる。久旺は魔女ではないのだ。何百年も生きてはおれない。
 それでも何度でも、彼は言うのだ。
「どうかそれだけを覚えていて、新祢」
 彼女をそっと抱きしめて。
「君の名を呼ぶから」
 その約束を、新祢はずっと忘れなかった。
 そして二百年後に出会うのだ。

「新祢」
 そうもう一度彼女の名を呼んだ、一人の王子様に。