29.メモ


「母上。渡してきましたけど……」
 南の国の瓏殿下は、部屋で裁縫をしていた母を見つけそう声をかけた。
 するとその髪の色から金妃とも呼ばれる第六王子妃が顔を上げて微笑む。
「まぁ、ありがとう。瓏、こっちへいらっしゃい」
 十四になったばかりの息子を近くに呼び、早苗は縫っていた服を広げて大きさを見た。
 瓏はここ数年でずいぶんと身長が伸びている。そんな息子の服を縫うことが、母の楽しみの一つであることを彼は十分に理解していた。
「これもきっとすぐに着れなくなるわね」
 花の咲くような、と父が賞賛する母の笑顔は、息子である瓏にとってもほっとするものであるはずだが、今この状況においては素直に笑顔を返すことができない。
「……父上、かなり落ち込んでましたよ?」
 おずおずと瓏が言うと、早苗はにこにことした笑顔のまま答えた。
「少しくらい落ち込んでいただいたらいいのよ」
 そして縫いかけの服を膝の上に戻し、再び針を手に取る。その針さばきがいつもより鋭いのは気のせいではない。
 これは駄目だ、と瓏は思った。
 父には悪いが、母の怒りを解くことは非常に難しそうである。
 発端は今朝のことだった。
『前から話し合ってたことのいい解決策を思いついたから、今日の午後から鳥代のところへ行く予定なんだ。帰りは明日になるけどあなたも一緒に来るかい?』
 と朝食後に父が聞いた。
 通常であれば、「まぁ、ご一緒させていただいてよろしいですか? 珀蓮に会うのも久しぶりだわ。亜令様も大きくおなりでしょう」と母が返すところだったのだが、この時ばかりは違った。
『今日の午後?』
 にっこりと微笑んだまま母が聞き返す。この時点で、広兼は敏感に危険を察知したらしかった。頭の中の引き出しをひっくりかえして、今の自分の言葉のどこに妻の逆鱗に触れる要素があったのかを高速で検証する。
 そして思い立ったと同時に彼は声を上げていた。
『あ! ええと、今日瓏と約束していた遠乗りはだなぁ』
 そう、広兼は今日の午後、息子と遠乗りに行く約束をしていたのだ。日々忙しく駆け回っている父と子の、貴重な触れ合いの時間である。ーーそれを子供が求めているかどうかは別として。
『俺は結構ですよ、父上。別にもう遠乗りくらい一人でできますし』
 瓏はさしてがっかりすることなくそう答えた。父との約束が反故になったのはこれが最初ではない。
 しかし早苗はそれを許さなかった。
『広兼様、瓏との約束をお破りになったのはこれが五回目ですね?』
『あ、ええと、そのお』
 賢者の王子がもごもごと言葉を詰まらせる様など、滅多に見られるものではないだろう。
 早苗は柔らかな笑顔を崩さないまま立ち上がると、『言い訳は結構です』と短く言った。
『口約束といえど契約のようなもの。それを何度も破棄されるなんて信用がなくなって当然です。そのような方とは私も今後一切どんなお約束も契約もいたしません。ご了承くださいね』
 南の国の第六王子妃はつらつらとそう告げると、夫と息子を残して部屋を出て行ってしまった。父はそれからずっと、母に会うことを許されていない。
 そして先ほど、瓏は母に一枚の紙片を託され「これをお父様に渡してきてくれる?」と頼まれた。『東の国へはお一人で行かれてください』と書かれたその紙片を渡しに行った時の父の落ち込みようといったらなかった。そもそも母がこんなふうに怒ることなど、数年に一度あるかないかなのだ。
「俺は別にいいんですよ、母上。父上はお仕事なのですし……」
「仕事であれば家庭を疎かにしてもいいというものではないわ」
 早苗はぴしゃりと言った。とりつく島もない。
 瓏はため息をついた。
 普段はいちゃいちゃと目障りな両親だが、こう仲違いされていても面倒だ。それも原因の一端に自分があるとなればなおさらに。
「許してさしあげてください、母上。執務に支障が出ます」
「出ませんよ。お父様はそこまで愚かな方ではありませんから」
 母の言う通り、落ち込んではいても広兼は仕事を滞らせるような人間ではなかった。そんな愚鈍なことでは賢者の王子は務まらないのだ。
 いよいよもう、この母の怒りを解くことは自分には不可能だ、と瓏が諦めかけた時、早苗が続けて言った。
「そして私も、あなた達と自分は違うのだと理解できるほど賢明にならなくてはならないのにね……」
 母は針を持った手を止めて苦笑した。
「ごめんなさいね、瓏。私が愚かだったわ。私は小さい頃、もっとお父様に遊んでほしかったけれど、あなたもそうとは限らないわね。あなたと広兼様は、また別の親子なのだもの……。あなた達にはあなた達の絆があるわ」
 瓏は目を丸くした。母が自らの小さい頃のことを息子に投影していたなどと思いつきもしなかったからだ。
「こっちへいらっしゃい、瓏」
 瓏は早苗に言われるがまま歩み寄り、その前で膝をついた。母の柔らかな手が頬に触れる。それを少し照れくさいと思ったが、振り払うようなことはしなかった。息子のその優しさに気付いているのか、早苗は微笑む。
「ずいぶんと大きくなったわね、瓏」
「父上にはまだまだ子供だと言われます」
「あら」と早苗は首を傾げた。
「それはね、瓏。お父様に試されているのよ。子供だからと甘んじないで、好きなことをなさい。新しいものは自由のもとに生まれるわ。あなたは賢者と魔女の息子よ。そして賢者も魔女も、縛られない者の名前なの」
 瓏は瞬きをした。
 母からこういう話を聞くのは初めてだった。
「好きに飛びなさい、瓏。神話の龍のように」




 その後、母はすぐに出かける準備をして東の国へ出立した父について行った。
 結局のところ、あれは犬も食わないようなただの夫婦喧嘩だったのだ。父も母も老いて死ぬその瞬間まで仲睦まじかった。
 魔女として長い時を生きる決意をし、近しい者達の死を見送った後も、瓏は何度かあの時の母の言葉を思い返した。
 彼の中にあった楔を解いたのは、あの言葉だった。
 一人の人間として、生まれ育った時間に縛られその命を終えようとしていた彼を解き放ったのはあの言葉だったのだ。
 それが正しい選択だったのかなどきっと誰にもわからない。けれど後悔したことなど一度もない。
 魔女とは孤独の名ではなく自由の名なのだ。

『好きに飛びなさい、瓏。
 ーー神話の龍のように』