2.温度

 皇太子タリアス=イジア=ジーティスは困っていた。
「ティーレ」
 彼女の私室はもちろんのこと、王城の奥にある中庭、図書室、衣装室、調理場、どこを捜しても彼の双子の姉は見つからない。
 今日の午後までに提出しなければいけない課題があるのだ。自分の分はもうできていたが、姉の分と合わせて出さなければいけない。
 国史の教師は何かというと二人で協力して仕上げる課題を出してきた。十一ともなると立場の違う二人にはそれぞれ別の教師がつき、行儀作法や剣技や帝王学などを学ばせるが、国の歴史を教える教師はティーレもターラも同じだった。
 年若い国史の教師はこの帝国を統べる王のたった二人の子供である彼らに協調性を学ばせたいのだと言うが、協調性がないのは姉であるティレアリアだけで、自分は十分にそれを備えているとターラは思っていた。
 あと捜していないところは……とターラは考えをめぐらせる。王城は広い。奔放で自由な姉が行きそうなところなどありすぎて特定が難しかった。
彼は踵を返した。
 広大な帝国の中心であるこの王都は、もとは公国ザーティガの首都にあたる。
公太子であったザーティスが帝国の王となった後、議会との議論の末彼らが王の住まう都を公国ザーティガの首都リアゼルにおいたのは、それが背後を森に囲まれた丘陵地帯に位置する天然の要塞だったからだ。
帝国の王都となってからリアゼルはツァイゼルと名を変え、王城もまた様々な改築が行われている。
 ターラの祖父母でもある大公ザカリアと大公妃テシィリアは、ターラが六つの時に南方の田舎に離宮を建ててそちらに移り住んでしまっていた。城壁は城が建つ崖を囲むように作られ、その周辺に点在しているだけだった町が統合され大きな都になろうとしている。
 その内この崖の上全体が城と呼ばれ、王都とはこの丘陵地帯の広い区域を指すようになるだろう。
 黎明期の帝国の変化はめまぐるしい。
 王城の中の改築で最初に手をつけられたのは王の執務室とその周辺だ。小さな国の王でしかなかった公王の執務室は警備がしやすく建て直された。
帝国リグリアは、統合した国々の王の内六名が公の称号を与えられ議会を構成し、帝王に次ぐ権限を持って政務を行っている。帝王ザーティスが独裁の体制を取らなかったのは彼を賢帝と評する理由の一つとなっているが、実際のところ自分一人で国をまわしていくのが面倒だから議会を作ったのだろう、というのが帝王に親しい者達の一致した見解である。
 長い廊下の中で、一際精緻な彫り細工のなされたその扉をノックすると「入れ」と低く硬質な声が答える。
 扉を開けたターラは、部屋の主と彼が膝に抱いている女性を見て少しだけ困ったような顔をした。
「ターラか」
 帝王の執務室。その奥にある窓際の椅子に座った王は、膝に銀髪の女性を抱いていた。左手を彼女の腰に回し、右手にペンを握っている。部屋の隅では二人の文官が机に向かって仕事をしていて、あまり動じていない彼らを見る限りこういった状況は今回が初めてではないようだった。
「ターラ」
 しかしそれまで王の膝に大人しく座っていた女性は、部屋に入ってきた皇太子を見て助かったとでも言いたげな笑顔を見せた。
「何? どうしたの? 私を呼びに来たの?」
「……いえ、ティーレを捜しているのですが」
 息子の正直な答えに、帝妃ジーリスはしゅんとあからさまに肩を落とした。妻のその様子を見てザーティスは不愉快そうに片方の眉を上げる。
「なんだ。私から離れたそうだな」
「膝から降ろせってさっきから言ってるのが聞こえなかったの? この馬鹿」
 ジーリスは冷たく言った。
「どうか妃殿下はそのままに、殿下」
 何か言うべきか逡巡していたターラは、扉の側で黙々と机に向かっていた文官の一人に小声で懇願するように話しかけられて、とりあえず目の前の事態に口を挟むのはやめた。
 父が母に会うためにたびたび執務を抜け出してしまうのは知っている。おそらく母がこの執務室にいることで、今日の仕事は滞りなく進んでいるのだろう。
「降ろしてもいいがそうしたらペンも放り投げるぞ」
 とザーティスが言うと、ジーリスは憎憎しげに夫を睨み付けた。そしてまた彼の膝の上で大人しくなる。諦念というものが彼女の内側を大きく侵食していることは、外から見ても明らかだった。
 そんな妻の様子に満足したのか、ザーティスは改めて息子に目をやった。父王の優先順位はいつも一番に母がくる。ターラもティーレも、それは当然だと思っていた。幼いころからそういう両親を見ているからだ。
「それで、ティーレがどうした」
 人間離れした整った容貌を持つ父を前にすると、ターラはほんの少しだけ緊張する。
「はい、あの、一緒に提出しなくてはいけない課題があるのですがどこにもいないので、父様に捜していただこうと思って」
 この帝国の王がもともと人間ではないということを知っているのはごくごく一部の者だけだ。
精霊としてこの世界に誕生し人間だった母と取り替えられて育った父は、今はもうほとんど人間と同じだが、感覚が異常に優れていて遠く離れていても妻や子供達の存在を辿ることができる。
 ザーティスは片方の眉をあげると、しばらく何か考えるように目を伏せてから顔を上げて言った。
「城奥の中庭にいるぞ」
「えっ、でもあそこはもう捜してきたのですが……」
「木の上は見た?」
 ジーリスにそう問われ、ターラはぎょっとした。
「木の上ですか? まさか」
 王城の奥のティーレが気に入っている小さな中庭には、シスという名の木が植えられている。
以前は後宮へ行く途中の庭に植えられていたそれは、城が改築された時に植え替えられたのだ。そしてかつてシスの木が一本だけあった場所には今は何本もの苗木が植えられている。それもシスだった。
 一昨年の王と妃の生誕祭の時に北方の国からシスの木の苗が大量に送られてきたのだ。どうやらそれはシスの花が好きなジーリスのために王が手配したものらしく、今はまだ幼いそれも、何年か後には見事な花を咲かせるだろう。
 シスの木は背が低く、春には幹さえも隠れるほどの花をつける。淡く色づいたその花が咲き乱れ風に散るさまは、ターラが見ても幻想的に見えるものだった。
 だがシスは節の少ない真っ直ぐな幹を持つため木登りにはあまり向かない。もう少し大きくなれば一番低い部分の枝に届くだろうが、今のターラにはまだ無理だったし、そもそも彼は木登りをしようとはあまり思わなかった。
「あら、ターラ知らないの? ティーレは最近あれに登れるようになったのよ。よくシスの上で昼寝をしているもの」
 ジーリスが言う。
 ターラとティーレは双子だが、四六時中一緒にいるわけではない。それぞれに皇太子あるいは皇女としてやることはあるし、むしろ日中は行動を別にしている方が多い。
 ターラはため息をついた。
「ご存知だったのなら止めてください母様。皇女が木登りだなんて……」
 貴婦人の模範たる女性のやるべきことではない。
 けれどザーティスが声を漏らして笑った。
「ジーリスはもともと森で育った女だからな。娘が木登りをして諌めるなんて考えを持っていないのだ」
「別に人に見られる場所じゃないんだからいいじゃない。外でそんなことしてたら私だって叱るわよ」
 そういう問題じゃない、とターラは思う。
「わかりました……ありがとうございます、父様母様」
 とりあえず両親に礼を言って執務室を出ると、彼はため息をついてからもう一度王城の奥へ向かったのだった。




 シスの花びらは薄い赤に色づいている。
 今それは満開の時期で、日当たりのいいこの場所には暖かな陽光が惜しみなく降り注ぎ、とろりと眠気を誘うような雰囲気に満ちていた。
 先ほどは廊下からざっと捜すだけにとどめていた中庭に降り、シスの木の下に行く。
「ティーレ」
 彼は呆れたように言った。
 彼の姉、ティレアリア=ウィデア=ジーティスは、その白く可愛らしい脚を枝から放り出して幹に背を預け目を瞑っていた。スカートを履いているがその裾は膝まで捲りあがっていてはしたないことこの上ない。
「ティーレ」
 返事のない姉を木の下から見上げて、ターラは再度その名を呼んだ。すると、ティーレの薄い青、分厚い氷と同じ色の双眸がその瞼の下からゆっくりと現れて、弟を見下ろした。
「なあに? ターラ」
 その声は、幼い少女のものだ。
 タリアス=イジア=ジーティスとティレアリア=ウィデア=ジーティスは双子だが、年齢を経るにつれてターラよりもティーレの方がずっと幼く見えるようになった。ターラの成長が早いのではなく、ティーレのそれが遅いのだ。
 二人は今年の秋に十二歳になるが、ティーレはまるでまだ七つか八つの少女のように見える。
 この成長速度の違いに彼らの周囲の人間が気付いたのはここ数年で、もっと幼いころは二人は同じ速度で大きくなっていた。だがやがてティーレの成長速度のみが遅くなり、今では誰が見ても彼女をターラの双子の姉だとは思えないほどに差が開いてしまっている。
「どうやって登ったの?」
 自分よりも背の低い姉が、自分でさえ手の届かない枝の上にいることにターラは不満そうな顔をする。
「精霊が助けてくれたのよ」
 ティーレはターラを見下ろしたまま、無邪気に笑って答えた。その笑顔はまるで春の太陽のように晴れやかだ。
 ターラとティーレの父はもともと火の精霊だったという。そして父と母を取り替えて、母を育てたのは森に住む風の精霊だった。
 双子が母の腹に宿った時に、母は二つの精霊の祝福を受けた。
 胎児の頃に与えられる祝福はその存在の本質にまで影響を及ぼす。その影響が、ターラよりもティーレの方に強くでてしまった理由はわからない。
 ただそのせいでティーレの成長が遅くなり、風や火が少しだけティーレの願う通りに動いてくれるということは確かだった。
 ターラは眉間に皺を寄せる。
 もっと幼い頃はティーレがうらやましくて仕方がなかった。
 自分達は双子なのに、どうしてティーレばかりがと思って怒ったり泣いたりした。けれど今となってはあまりうらやましいとは思わない。自分だけが伸びていく身長。大きくなっていく手足。彼の不安を見透かしたように、ティーレは笑う。
「どうやって登ったのかを聞きに来たの?」
「課題」
 ターラは短く答えた。
 自分も登りたいとは言わない。ティーレが思い通りに動かせる火や風の力は微々たるもので、十一の少年の身体を持ち上げられるようなものではないとわかっているからだ。
「あー。国史の?」
 ティーレは枝の上で伸びをした。そうしているところをみるとまるで猫のようだ。たぶんまだ寝ぼけている。
「そう。できてるの?」
 首が痛くなってきたので、ターラは見上げるのをやめて視線を地面に下ろした。鮮やかな緑に色づいた草の上にシスの花びらが散っている。ちりちりとざわめいているような植物達の芽吹きは、ターラの目には見えない精霊というものの存在を確かに感じさせるに十分だった。
「ターラ!」
 呼ばれて顔を上げ、彼はぎょっとした。
「ちょ」
 今にも飛び降りようと枝の上で膝を曲げた姉を見て、ターラは一歩後ずさりながらもとっさに両手を前に出す。すると木の上にいた彼女は何のためらいもなく弟の腕に飛び込んだ。
 風が吹く。
「……痛い」
「あははは! ごめんごめん」
 姉を受け止めた衝撃でそのまま地面に後ろから倒れたターラは、憮然として顔をしかめた。そんな彼に、少女が馬乗りになって笑っている。
 彼女が飛び降りる直前に強い風が吹いた。
 ふわりと舞い上がったティーレの金色の髪はターラの目の奥にちかちかと焼きついていた。
「ねぇ、ターラ! 一緒に城の外に行きましょうよ!」
 どうやら完全に寝起きのぼんやりを吹っ飛ばしたらしいティーレは、いつもの明るすぎる笑顔で言った。
「何言ってるの? 行かないよ。僕らだけで出かけられるわけじゃないし、僕らが出かけるとなったら他の人も巻き込むだろ。それより課題」
 言うと、ティーレはその可愛らしい唇を尖らせる。
「少しくらいいいじゃない。城下が今どうなってるか見たいってターラも言ってたでしょう?」
「今度父様にお願いして連れて行ってもらえばいいだろ。今すぐは駄目だよ」
「馬鹿ね。父様にも母様にも内緒で、っていうのが面白いのに!」
「駄目。それよりティーレ、課題は?」
 するとティーレはくるりと目を丸くする。
「やってないわよ?」
 ターラはがばりと起き上がった。拍子にころりとティーレが後ろに転がる。
「なんで!」
「ちょっと。いきなり起き上がらないでよ」
 ティーレはぶつぶつと文句を言いながら身体を起こした。
「今日提出だよ、あれ!」
「忘れてたんだもの。いいじゃない別にターラは怒られないわよ」
「共同課題だっただろ。最後の考察は一緒に合わせないとできないんだよ!」
「ええ? そうだったかしら? 大丈夫よ。私がやってなかったからできませんでしたって言えば」
「駄目! ああ、もう。今すぐ蔵書室へ行くよティーレ。参考文献はわかってるから大丈夫」
 ターラは姉の手を引っ張って一緒に立ち上がると、その手をぐいぐいと引きながら王城にある蔵書室へ向かう。どこかでこうなるんじゃないかとは思っていたので、姉の分の課題の草稿は彼の頭の中に出来上がっていた。あとはきちんと参考文献と照らし合わせて、姉の字で書かせるだけなのでそんなに時間はかからないはずだ。
「ええっ! 今から!?」
 弟に引きずられるようにして歩きながらティーレは苦虫を噛み潰したような顔をした。皇女としてはありえない下品な顔である。
「無理よ!」
「無理じゃない!」
 こうなると、ターラには従うしかないのはティーレにもわかっている。彼女は憮然として黙り込むと、ぐいと全身で弟の腕を引っ張ってその足を止めた。
 いずれこの帝国を統べる王となる少年は、自分よりも幼い外見の双子の姉を不愉快そうに振り返る。どこまでも完璧主義な弟は、適当で我侭で自由な姉を見下ろした。
「ターラが早歩きだと私は走らなくてはいけないのよ。おぶって」
 彼女が言うと、ターラはため息をついてその場にしゃがみこんで姉に背中を向けた。するとティーレはその背中に飛びつく。
「よくってよ」
 とティレアリアは傲慢な皇女様のように言った。
「うるさい」
 と皇太子タリアスは一蹴すると、幼い姉を背負って立ち上がった。
 ティーレは弟の肩についたシスの花びらに気付くと笑ってそれを取ってやる。
 木漏れ日と同じくらいに暖かく心地よいその背中で、ティーレは再び眠気を覚えたのだった。