30.無視


「リース」
 気まぐれな風の妖精はそうやって優しく彼女の名前を呼んだが、少女は返事をしなかった。まるで精霊の呼び声など聞こえないとでも言うように、そっぽを向いて森の木の実を集めている。
 食事を摂る必要のない精霊達と違い、彼女は人間なので日々の糧を必要とする。それは森に迷い込んだ獣であることもあれば、木々にたわわに実る果実であったりした。
 ずっと幼い頃は精霊達が彼女の為の糧を集めてくれたが、ここ数年、そういった精霊の助けはなくなっている。つまり生きるためには、自ら食べ物を探して獲得しなければいけないのだ。
「リース、ごめんよ。お前がそんなに怒るとは思わなかったんだ」
 テティアトは、媚びるようにして言うと少女の頬をなでた。もし普通の人間がその場にいたのなら、ただ柔らかな風が少女の銀髪を揺らしたようにしか見えなかっただろう。
 風は彼の四肢と同じだ。
 青い風の精霊。
 リースにとっては兄のような親友のような存在。
「リース」
 彼がもう一度その名を呼んだので、少女は仕方なく息を吐いて振り向いた。
「……私、死にかけたのよ?」
「人間のもろさを忘れていたんだ」
 まるで悪戯好きの少年のような顔で、テティアトはくすくすと笑っている。
 今朝目が覚めた時、彼女は森に生える樹の枝の上にひっかかるようになっていて、あやうく落ちて死ぬところだった。どうやらこの風の精霊の悪戯だったらしく、リースが「助けて!」と叫んでやっと風は彼女の身体を優しく受け止めてくれた。
「もう二度としないで」
「約束するよ」
 精霊が答える。
 リースは彼が約束を違えることはないとわかっていた。だから困ったように唇を尖らせる。もう怒る理由はないが、簡単に許したと思われたくないのだ。
 彼女がこの森で生きてきて、死にそうになったのはなにもこれが初めてではない。
 精霊は人間の子供の育て方など知らなかった。人間が何日も食べなくても飢えてしまうということや、環境変化によって病を得たり、ちょっと力を加えてやるだけであっさりと骨を折ったり血を流してしまうということを、彼らはリースで実際に試してやっと学んだのだ。
 むしろこの年齢まで、彼女が生き延びることができたということの方が奇跡だったろう。精霊は気まぐれだ。リースという玩具を、いつ飽きて捨ててしまってもおかしくなかった。
 彼女が生きてこられたのは、この、テティアトという精霊のおかげだ。
 彼が決して、少女を見捨てなかったから。
「……あの高いところにある実が欲しいわ」
 リースは頭上を指差して言った。
 樹冠を作り日差しを遮る緑の葉っぱの中に、ちょこんと誰かの忘れ物のように赤い実が生っている。じゅるじゅるの実とリースが名付けている果実で、水分が豊富で甘い。ただ手が届く範囲には生っていないので、樹を上って採らないといけないのが難点だった。
 テティアトはにっこりと笑うと、地面を蹴った。
 するとふわりと彼が飛ぶ。風のように、という比喩は適切ではない。なぜなら彼は風そのものなのだから。
 精霊は作り物のような赤い実をもぎ取ると、また滑り落ちるようにリースの側に来てその果実を少女の手のひらに届けた。そのついでというように、彼女の柔らかな頬に口付けをする。
「この森のすべてがお前のものだ」
 リースは笑った。
「大げさね」
 少女の笑顔を取り戻したことに、精霊はほっと安堵したような表情を見せた。
 それはとても珍しいことだ。
「あなたでもそんな顔するのね、テティアト」
 彼女が言うと、精霊は少し目を丸くした。
「どんな顔?」
「私に許してもらえて嬉しいの?」
「……嬉しい? うん。そうだね。……嬉しいよ。お前に嫌われたわけではないのだとわかって……」
 彼のその言葉は、少なからずリースを有頂天にさせた。
 彼は自分に嫌われたくないのだ。それはつまり、彼にとって自分は大切な存在ということなのだろう。
 テティアトは精霊で、私は人間なのに。
「あなたは精霊らしくないわね、テティアト」
 他のどんな精霊も、彼のようにリースに接したりはしない。
 嬉しくなって彼女がそう言うと、テティアトは複雑そうな顔で笑った。
「そうだね」
 ……でも、と彼は続けた。
 両手を伸ばし、ふわりと少女を抱きしめる。そして精霊は今度はリースの額に口付けを落とした。
「でも、特別なのは僕じゃない。お前なんだよ、リース」
 その声はその場にいない誰かに言い聞かせるかのようだった。
「……どうしたの? テティアト」
 敏感に異変を察知して少女が問う。
 彼女から身体を離した精霊は、いつもの笑顔を浮かべて、
「何でもないよ。僕のいとし児」
 と答えたのだった。