31.静か


 昔南の国の第六王子妃がよく淹れてくれた菩提樹の香草茶は、かつての記憶を呼び起こす。
 あれからずいぶんと年月が経った。
 鳥代は王となり、子供達は成長した。西大陸との国交も再開し、今ではこの大陸で魔術師の育成機関が作られようとしている。変われば変わるものだ、と王伊は息を吐いた。
「はぁー」
「どうした。妾とおるのにため息か?」
 隣で妻がからかうように言う。
「いや、静かだなぁと思って」
 少し前までは忙しさで目が回るようだった。王となった兄から回される執務や子育て、日々欠かすことのない鍛錬。けれど最近は、こうしてぽっかりと穴が開いたように妻とゆっくり過ごす時間が増えてきている。
「ははぁ」
 したり顔で眉を上げた新祢を見て、「何?」と王伊は促した。
「そなた、寂しいのじゃろう」
 彼女はいつだって正しい。
 王伊は両手で顔を覆うと香草茶の用意された卓の上に突っ伏した。
「そうなんだよー。寂しいよー。なんで娘は嫁に行っちゃうんだよー」
 久袮はとっくに旅芸人の妻となって家を出たし、王菜は今東の国に行っている。
 いずれ女王になると宣言している王菜だが、次期東の国の王である亜令の求婚にはまんざらでもなさそうだ。王同士が婚姻を結ぶのは前代未聞だが、不可能ではないだろう。広兼にはそのための新しい法律の草稿作りを依頼している。
 新祢は仕方がなさそうに笑ってよしよしと王伊の頭を撫でた。
「そう嘆くでない。娘達が幸せになれるのならよいではないか。それに王菜が女王となれば、ここを出て行くことはない」
「そうなんだけどさー。やっぱりなんか違うよね。ああ、あんなに小さかった僕達の娘が他の男のものになるだなんて信じられる?」
「久袮も王菜も、いい相手を見つけたと妾は思うぞ」
「そうかな? 旅芸人なんて安定してない仕事だし、亜令は少し気が弱すぎる」
 王伊が言いながら手のひらの隙間から妻を見ると、彼女は綺麗な赤い双眸を細めて優しく夫を見つめていた。白く細い指はまだ彼の頭を撫でている。王伊はもう一度息を吐いて新祢の柔らかな手を取ると、その花びらのように可愛らしい爪に口付けをしながら顔を上げた。
 新祢はくすくすと笑う。
 王伊がばつが悪くなって顔をしかめた。
「わかってるよ」
「何をじゃ?」
 問う彼女の指を、自らの手で囲って離さない。
 柔らかな風が新祢の前髪を揺らした。無骨な王城の庭を、こうも鮮やかな花で埋めたのは彼女の功績だ。
「僕のこれは愚かな嫉妬だ」
「そうかもしれぬな」
「二人が幸せになれるのなら、僕の出る幕じゃない」
「そうじゃのう」
 王伊は開いている方の手を伸ばして少し乱れた妻の赤い髪を直した。その時指先が耳に触れ、新祢はくすぐったそうに笑う。
 ああ。
 と彼は思った。
「僕は目眩がしそうなくらい幸せだ」
 今でも鮮明に思い出せる。
 あの塔の上で出会った君。
 君を目にした瞬間涙を溢れさせた情熱は、今もこの胸の内にくすぶっている。
「愛してる」
 彼は囁くように言った。
 妻の答えは、優しい口付けの中に消えた。