33.レトロ


 誰になんと言われようと、自分は幸福なのだとメイディア=キリアスは疑っていなかった。
「目を覚ましてくださいお嬢様」
「もう十分目は覚めているわよ。今わたくしが食べているのが朝食に見えないかしら?」
 実家から輿入れ先までついてきた侍女が憤慨した様子で訴えるのを、メイディアは笑って受け流す。
「そうじゃありません。あの朴念仁な旦那様のことです」
 まだ十四歳のルナが手に紅茶のポットを持って眉をつり上げ肩を怒らせていても、少しも怖くはない。可愛らしいだけだ。メイディアは一口分に切り分けた焦げ目一つない卵焼きを、上品に咀嚼してから嗜めた。
「ルナ。朴念仁だなんて旦那様に失礼よ」
「だって、今日はメイディア様の誕生日ですよ!」
 ルナは今にもポットを振り回しそうな勢いで言った。
「それなのに、おめでとうの一言もなく朝食もご一緒されないなんて!」
「お仕事がお忙しいのよ」
「一言お声をかけるくらいできるでしょう!」
「ルナ」
 メイディアは息を吐くと少し声の調子を落として言った。
「シェンロ様は陛下の腹心の将軍閣下なのよ。妻の誕生日ごときに気を取られていて務まるようなお仕事ではないの。あなたの文句が万が一旦那様のお耳に入ったらどうするの? おかしなことであの方の手をわずらわせないで」
「……」
 ルナが悔しそうな顔で黙り込む。
 まったく、この子にも困ったものだ。まだ不満気な様子を隠そうとしない侍女を、メイディアは手のかかる妹を見るようにして目を向けた。
 ルナは十の頃からメイディアに仕えていて、四つ年上の女主人を本当の姉のように慕ってくれている。もちろんメイディアもまた、彼女を可愛がっていた。だからこそこの結婚が決まった時泣いてついていきたいと懇願したルナの願いを聞き入れたのだし、こうして気の置けないお喋り相手がいるのはメイディアにとっても嬉しいことだった。
 しかしいかんせんルナは女主人の夫が気に入らないようである。
「……メイディア様ならもっと若くて素敵なお相手がいらっしゃったはずです」
 ルナはなおも言った。
「何もあんなおじさんと結婚しなくても……」
「ルナ!」
 メイディアはいい加減腹が立った。
「わたくしの旦那様にそんな言い方をするのは許しませんよ!」
「だって!」
 この結婚にそうやって異論を唱えたのはなにもルナだけではなかった。
 メイディアは十八の由緒正しい伯爵令嬢で、相手は元傭兵で四十三歳の将軍閣下。この組み合わせに違和感を覚える人の方が多いだろう。けれどメイディアにとっては彼しか考えられなかった。
 そう、この結婚を望んだのはメイディアの方なのだ。
 父に頼んで、彼に縁談を持ちかけてもらった。
 彼がどうしてメイディアとの結婚を承諾してくれたのかは知らないが、メイディアは幸せだった。彼女の旦那様……つまり、シェンロ=キリアス将軍は、思っていた通り、いや思っていた以上に素敵な人だったからだ。
 目下の者達にも親切で、メイディアを女性だからと馬鹿にしたりしない。食べ物は残さず食べるし、帰ってきたらきちんとただいまと言う。たまにお酒を飲んでくることはあるが、それでも必ずメイディアが寝る前に帰ってきてくれた。
 外見のことを言うなら、メイディアはシェンロの白髪まじりの髪も髭もとても似合っていると思っていたし、笑うと目尻の皺が深くなるところなんかは最高だと認識していた。
 だから彼女にとってシェンロ=キリアスは、この上なく理想の相手だったのだ。
「……仕方がないわね。ルナ、そんなに言うなら調理場に行って、調理長に今日の朝食の献立を誰が考えたか聞いていらっしゃい」
「何をおっしゃってるんですか、メイディア様! 今はそんな朝食のことを話しているのではなくて……」
「いいから」
 メイディアはにっこり笑った。
「行ってらっしゃい、ルナ。そうしたらあなたにもきっとわかるわ」
 四年間メイディアに仕えてきたルナには、その笑顔が最後通告なのだと理解できるのだろう。少女はまだ何か言いたげな顔をしながらもポットを置いて部屋を出て行った。
 やっと一人になった室内で、メイディアは大好きな胡桃入りのパンをちぎって食べる。
 本当はこれは、メイディアの中での秘密にしようと思っていたのだけど、ルナがああもシェンロのことを悪く言うのは聞いていられなかった。
 まったくあの子はわかっていないのだ。
 メイディア=キリアスの旦那様が、どんなに素敵な男性かということを。
 やがて部屋に戻ってきたルナは怪訝そうな様子で首を傾げていた。
「どうでした? ルナ」
「それが……今日のメイディア様の献立はすべて、旦那様が考えられたそうです」
 今度は胸がほっこりとあたたかくなってメイディアは顔をほころばせた。
 ああ、やっぱりそうだ。と心の中で思う。
「そういうことですよ、ルナ」
「どういうことですか? さっぱりわかりません。お忙しいはずの旦那様が、どうしてメイディア様の食事の献立を……」
「これは絶対誰にも言ってはだめよ、ルナ」
 メイディアは釘を刺してから言った。
「旦那様はね、ここ数日、とてもさりげなくわたくしに好きな食べ物を聞いてこられたのよ。たとえは夕食をご一緒させていただいている時とか、届いた結婚祝いを開けている時なんかにね」
『そういえばあなたはいつも卵焼きを美味しそうに召し上がっているがお好きなのですか?』
『ああ、この花をくださったグレイ男爵夫人というのは美味しいパンを焼く方なのですが、あなたはパンはお好きですか?』
 最初、自分はどれだけ食い意地がはっていると思われているのだろうと思ったメイディアだったが、この日の朝、テーブルの上に並べられた朝食の皿を見た時に理解したのだ。
 黄色いふわふわの卵焼きと胡桃入りのパン。宝石みたいなベリーが乗ったサラダと玉ねぎのスープ。どれもメイディアが好きな食べ物だとシェンロに答えたものだ。
「旦那様はとても古風なお方なのよ。最近の軽薄な男性みたいに簡単に甘い言葉を吐いたりなんてされないの」
 年頃のメイディアに、これまで言いよってきた男性がいないわけではなかった。
 けれど彼らの口からすらすら出てくる甘くて聞こえのいい言葉を、彼女はなかなか信じることはできなかった。
 その点、彼女の旦那様は違う。
 今でもメイディアは、彼に初めて出会った日のことを昨日のことのように覚えていた。
 ドレスの裾を踏んで転びそうになった彼女を、彼は難なく受け止めてにこりとも笑うことなく言った。
『前ばかり見ていては足元が疎かになりますよ』
 あの朴訥とした言葉にメイディアは射抜かれたのだ。
 思い込みで暴走して失敗することの少なくない自分の本質を見抜かれたような心地になった。
 そして彼以外にはいないと思ったのだ。
「まさか今日のお食事を全部メイディア様のお好きなものにすることがおめでとうの代わりだというんですか? そんな遠回しなことをされるより、目を見ておめでとうと言われた方が女性は嬉しいものなのに」
 なおも理解できない、というふうにルナが言う。
 けれどメイディアはこれ以上ルナにシェンロのよさを説明しようとは思わなかった。
 ルナに彼を好きになられると困るからだ。
 メイディアの旦那様が、この年まで独り身だったのは奇跡としか言い様がないだろう。あるいは部下には厳しいと噂の陛下にこきつかわれて、これまでそんな余裕がなかったのかもしれない。それなら自分は陛下に感謝しなくてはならない、とメイディアは思った。
 自分の旦那様、シェンロ=キリアスは世界一の旦那様だ。
 そして彼と結婚できた自分は世界一の幸せ者だと、彼女は疑っていなかった。