35.背伸び


 隣国の王菜姫が東の国に留学に来たのは、彼女が王座を継ぐための準備なのだというのが暗黙のうちに了解されていた。
 現王弟の長女である王菜の王位継承権は第四位だが、体力馬鹿な王子、流行にしか興味のない王女、そして施政に興味のない王弟がその上位を占める以上、国を治めるという大役が野望と才能を持つ彼女に与えられるのは火を見るより明らかだったのだ。
「本当に好きなだけ持っていってもいいの?」
 王菜は注意深く確認した。
「もちろん。ここにあるのは全部僕の蔵書だから、誰も何も言わないよ」
 亜令はそう笑って頷く。
 二人は東の国の第一王子、亜令の書斎にいた。誘ったのは亜令である。もうすぐここでの留学を終えて国へ帰る王菜に、彼は自らの蔵書を手みやげとして持たせることにしたのだ。
「この『立志書』の初版も? こっちの『原紀史』も?」
 的確に希少性の高い本を取り出して問う王菜に、亜令はにこにこと笑顔を崩さずもう一度頷いた。
「もちろん」
 すると彼女は、手に持った本を手近な台の上に置いて腕を組み、その整った眉を上げて疑い深くこちらを見た。色素の薄い瞳がきらりと光る。
「何が目的なの?」
 これが、彼女の一筋縄ではいかないところだった。
「別に? 餞別にと思って」
 亜令はゆっくりと脚を進め、王菜の後ろの本棚から擦り切れた背表紙の本を取った。
「これも欲しいんじゃない? 『大陸の起源』」
 それもまた亜令が趣味で集めた本の一つで、もちろん希少性の高いものだ。彼が台の上に本を重ねるのを見ながら、王菜は確信を持って言った。
「嘘ね」
 亜令は口元が緩むのを我慢しなくてはならなかった。
「正直におっしゃいよ、亜令。あたしに何をしてほしいの?」
 こういうところは間違いなく彼女の美徳だ。
 亜令はそう疑っていなかった。
 綺麗な容姿と声を持っているのに、誰かが自分のために無償で動くとは信じていない。盲目的に愛を捧げる男達を一蹴するのは強さだ。この人が寄りかかる相手を探したことは一度もない。
 彼女が自分の母である珀蓮に憧れていることは知っていたが、王菜は母とは真逆の女性だと亜令は思っていた。
 自らの美しさを理解し、かしずかれることを当然と思っている生まれながらに高貴な母とは違う。王菜はその内側にある才覚のみで欲しいものを得ようとする野心家だ。
 綺麗な双眸を持つ獣。
「僕が何を欲しいかあなたは知っているはずだ」
 亜令は彼女の耳元で囁いた。
 すると王菜が息を飲む。顔を見ずとも彼女がどんな表情をしているかは想像がついた。きっといつの間にか亜令が“年頃の男女の節度ある距離”を越えていたことに気付いたのだろう。
 じゃれあって遊んだ(ほとんどの場合亜令は泣かされていたが)幼い頃とは違う。
 もうずっと、こんなふうにして彼女に近付くことはなかった。それは彼女が知っていたからだ。
 亜令が求めているものを。
 泣き虫だった幼なじみが、彼女が知っていたのとは違う目で自分を見ているのだと。
「……僕はあなた欲しい」
 背を追い抜いたのは十三の時だ。そしてその時、王菜を手に入れると決めた。
 あれから十年間、亜令は焦ったりはしなかった。彼女の双子の妹の久袮が早くに結婚して家を出てしまったためか、王菜の父は手元に残った唯一の娘にもたらされる縁談を片っ端から断っていたし、彼女自身もそういう話には興味がないようだったからだ。
 亜令は二十三になった。王菜は二十六だ。女性としては嫁き遅れとも言える年齢だが、それで彼女の魅力が失われることはない。
「口にするのは初めてだけど、知っていたでしょう?」
 王菜を囲うようにして背後の本棚に両手をつき、逃げられないようにする。
 間近に見下ろす恋しい人は、目を細めて唇を噛んでいた。
 亜令は微笑んだ。この表情は知っている。悔しい時の顔だ。誰かに出し抜かれた時の顔。
「王菜」
 何か言ってほしくて名を呼ぶと、彼女は「どきなさいよ」と言った。
「嫌だよ」
「亜令のくせに生意気だわ」
「もう泣かないよ」
「泣かないあんたなんかに興味ない」
「やっぱり今すぐここで泣く。ねぇ、王菜。僕と結婚してほしい」
「あたしを呼び捨てにするなんて」
 幼い頃は、『おうな姉さま』と呼んでいた。それがいつしか『王菜様』となり、『王菜』となった。
 ずっと彼女に追いつきたかった。
 横に並びたかった。
 同じ目線で物を見たかった。
「返事は?」
「どいて」
「返事をくれるまでどかない」
「たった本数冊を引き換えにあたしを手に入れるつもり?」
「ここにある本を全部あげてもいいよ」
「綺麗な顔をして腹が立つ」
 亜令は白雪姫と呼ばれた美しい母の血を外見的に色濃く継いでいたが、鏡の中の自分よりも王菜の方が何万倍も綺麗だと、彼は常々思っていた。
「あなたの方がずっと綺麗だ」
 だからそのまま言う。
 亜令の言葉から逃げるように視線を落とす彼女の顎を持ち上げ、口付けを落としたくなるのを我慢した。本当は、心臓がうるさいくらい鳴っている。それがどうか彼女に聞こえませんようにと彼はひっそりと願った。
「あたしは女王になるのよ」
「うん。僕も王になる」
「うまくなんていかないわ」
「うまくいくよ。僕とあなたなら」
 女王と王の結婚など前代未聞だ。けれど不可能ではない。
「愛してる」
 囁くように言った。
「うるさい」
 父が母に愛を囁く現場を何度か見たことがあった。
 いつもは父に悪態ばかりつく母が、そういう時だけはこの上なく幸せそうに顔をほころばせる。亜令はずっと、そんなふうにして笑う王菜の顔が見たかった。
「愛してるよ、王菜」
 俯く彼女に、請うように言う。
「うんと言うまで、どかないから」
 最終宣告のようにそう言うと、耳を赤くした王菜が「あんた、うちのお父様みたいにしつこいわ!」と怒ったので亜令は思わず声を上げて笑ってしまったのだった。