37.5


 扉を開けたら姉と姪っ子がいた。
 平日の夕方、夕飯前の時間である。今日来るとは聞いていなかったので、広中は顔をキョトンとさせた。十五分ほど前に学校から帰ってきて、ちょうど夕飯の準備を始めようとする所だった。彼がいつも制服から着替えるのは青い長袖と黒のジャージだ。一方その背中ですやすやと眠る子供を背負って玄関先に立った姉は、飾り気のないシャツにジーンズという格好だった。
「どうしたの? 静姉」
 彼女はにこにこと微笑んでいた。広中は、姉が微笑むのは二つの場合があると知っていた。つまり機嫌がいい時と、本気で怒っている時である。しかしこれはそのどちらでもないように思えた。今の彼女にはどこか有無を言わさない雰囲気があった。
「ちょっとごめん」
 静は広中は押しのけると、河野家の玄関に入る。足で靴を脱ぎながら (これは普段の静ならありえない無作法である) 背中の華子を下ろして広中に押し付けた。華子はすやすやと眠っていた。既に一歳の誕生日を迎えた華子は結構重くなってきた。最近は急速に色々な言葉を覚えていっていて、その知識の分だけ重くなっていっているようである。
「お願い」
 華子を受け取った広中が返事をする間もなく、静は玄関を上がり、正面にある階段に向かう。二階にあるのは三兄弟の部屋と客間である和室。結婚してからの静はいつも寝泊りは一階の寝室を使用していた。
「綱兄なら居間だよ。武兄はまだ帰ってないし」
 兄達に用事かと思って広中は言ったが、階段を昇る姉の背中は何も答えなかった。明らかにおかしい。怪訝に思った広中は、華子を抱いたまま静を追った。
 静は真っ直ぐ和室に入ると、押入れから布団を出して敷き始めた。滅多に使われない客用の布団だが、天気のいい時は外に干したりもしているので清潔だ。けれど姉が突然布団を敷き始めた理由がわからない。
「静姉……?」
「入らないで」
 広中が和室に入ろうとすると、静が言った。
 彼女は弟を振り向くと、またさっきのように微笑んだ。
「ちょっと華子お願い。私寝るから」




「三十九度八分。風邪だな」
 それが綱の診断結果だった。
 二階から降りてきた綱は、体温計をケースに収めながら肩をすくめた。
「今和室は風邪菌が充満してるから、華子は入れないようにな」
「静姉が熱出すなんて久しぶりじゃない?」
 ソファに寝かした華子にタオルをかけてあげながら広中が言った。
「駅から歩いて来たのかなぁ」
 駅から河野家までは歩いて十五分ほどの距離である。高熱のまま子供を背負って歩くには少々辛い距離だろう。
「いや、タクシー使ったんだと思う。財布だけ持ってた」
「正平さんは出張中だっけ」
「ああ、そういえばそんな事言ってたな。まぁ、よかったんじゃないの? もし静が熱出したとか聞いたらあの人仕事ほっぽりだしてきそうだし」
「確かに」
 広中は笑った。
 眠る華子の額にかかった髪を撫でるように取ってあげる。華子はすやすやとよく眠っていた。
 身内の欲目を抜きにしても、かわいいと思う。見ていると自然に顔がほころぶ。ずっと末っ子だった広中にとって、華子は突然できた妹のようなものだった。
「こいつ夜眠れなくなるんじゃないの?」
 ソファの後ろから背もたれに頬杖をつき、綱が華子を覗き込む。先ほどまで綱はこの二人掛け用のソファを一人で占領し、テレビを見ていたのだ。そのテレビでは今ニュースが流れている。気象庁が梅雨入りを宣言し、明日から雨の日が続くらしい。
「起こす? 今起こすと静姉呼んで泣きそうだけど」
 幼い頃たまに広中の世話をしていた綱には、少なからず子育てに関する知識があった。だからこういう時、広中は綱の意見に従う事にしている。
「どうせ夕飯の時間には起こすだろ。それまで寝かせとけば」
 そう言うと、綱はもう興味をなくしたようにそこから離れ、一人掛けソファにどさりと座った。
 静がいなくなってから、河野家では夕飯は基本的に交代制である。しかし大半の場合は広中が作っていた。仕事で遅い武一や研究やバイトで不規則な綱に比べて、高校生の広中は毎日定時に夕飯を用意できるし、何より彼は三兄弟の中で最も料理が上手かった。
 いつもながら自ら手伝おうというそぶりをかけらも見せない兄を呆れたように見て、広中も華子から離れて台所に向かう。
「綱兄、えんどうのスジ取って」
「んー」
 今日の夕飯は、肉じゃがと子持ちししゃも、ほうれん草のおひたしにカブの味噌汁。さらに華子用の離乳食も必要だ。
 広中は腕をまくった。




 武一は七時頃帰って来た。
 携帯で話しながら玄関扉を開けそのまま靴を脱いでいたが、居間から広中に連れられて現れた華子を見て、彼は声を上げた。
「あれ? 何で華子がいるの?」
 携帯を耳にあてたままの叔父に、広中の手から離れた華子はボテボテと歩いて近づいた。満面の笑みである。華子は無口だが、その笑顔だけで武一はメロメロになった。武一はこの小さな姪っ子を溺愛しているのだ。
「静姉が風邪ひいたらしくてさ、夕方頃来たんだ。静姉は今和室で寝てるよ」
 居間へと続く戸口で広中が答えた。居間の方からは夕飯の匂いがする。テレビの音もするので、綱が見ているのだろう。
 武一は電話を肩で挟み、両手で姪っ子を迎えた。
「おー。華子ーただいまー」
 先週の土曜ぶりの姪っ子との対面である。河野家の長男はだらしなく目尻を下げた。
「え? いや華子華子」
 武一は電話を肩で支えたまま器用に華子を抱き上げると、姪っ子を左手で抱えて右手に電話を持ち直した。電話の向こうの相手が何か言ってきているらしい。
「ああ。なんか静が風邪ひいたらしいよ。そうそう……は? なんて? 今。おい。ちょっと待てって、大丈夫だから。おい……あー切れた」
 武一は困ったように携帯電話を耳から離した。画面には通話終了の文字が出ている。彼は仕方なさそうに息をつくと、携帯をスーツのポケットに入れた。
「なに?」
「今から来るって」
「誰が?」
「正平」
 これには広中も驚いたような顔をした。
「あれ? 正平さん出張中でしょ? もう帰ってきてるの?」
「いや。だから今から来るんだろ」
「出張先どこだっけ」
「イギリス」
「……着くの夜中じゃんか」
 そういう問題でもない。
「誰が来るって?」
 広中の横を通り過ぎて居間に入った武一に、ソファに座ったままの綱が声をかけた。すると武一は顔を厳しくして弟を嗜めた。
「開口一番がそれか?」
「おかえり。で、誰が来るの? まさか正平さん?」
「ただいま。そうだよ」
「静が風邪ひいたって教えたの? 武兄」
「……」
「なにやってんのさ。わかりきってるのに。正平さんの行動なんか」
「……だってだなぁ」
「まぁ、後で静に怒られるのは覚悟しておくんだね」
「怒られるのは正平さんじゃないの?」
 武一の後ろから居間に入り、台所へ向かいながら広中が言った。華子にはもう既に離乳食を食べさせてあるが、三兄弟の夕食はまだなのだ。後はししゃもを焼けばすぐ食べられる。
 広中は笑った。
「てゆうか怒られるってわかってるのに帰ってくる正平さんもすごいと思わない? 静姉は愛されてるね」
「あー。そういや、前に正平が言ってたな。昔のリミットは一日だったって」
 華子を下ろしてやりながら武一が言った。
「何の?」
「静に会わないでいられる時間。まだ結婚する前で、静を好きになったばかりの頃は一日静に会えない日があるとイライラしちゃって、夜中だってのに静の家に押しかけたんだと」
「本当に?」
 苦笑しながら言ったのは広中。
「一歩間違えたらストーカーだな」
 呆れたように綱。
「兄としては変な気分だよ。あのよちよちしてた静に、そこまで惚れこむ男が現れるなんてなぁ」
 武一はスーツを脱ぎながらそう嘆息した。
「うわ。おっさん発言だね武兄」
「おっさんで結構。じゃ俺着替えてくるから。綱、ちゃんと華子見とけよ」
 好奇心旺盛な一歳児はソファーの前の卓に置かれたバナナを獲得せんと奮闘中である。テレビを見ていた綱は自分の足元で卓にしがみ付いて必死に手を伸ばす姪っ子を一瞥して、 「んー」 と返事をした。
 居間を出て玄関前の階段を昇りながら、武一は改めて息を吐いた。彼の部屋は階段を昇った正面にある。部屋の扉を開けて向かいのカーテンレールにかかったハンガーを取り、そこにスーツをかけた。その時ちらりとカーテンの向こうに見えた外はもう暗く、夜の支配する時間になっている。昔はその暗闇を怖がる弟妹の手を引いて歩いた。いつからか弟妹の手は離れ、それぞれに別の道を歩いている。
 ネクタイを剥ぎ取りズボンを脱ぐ。箪笥から部屋着を取り出し、素早く身に着けた。武一の部屋の中のものの配置は、昔から変わっていない。ベッドも机も椅子も箪笥も、まるでそこだけ時間から取り残されたかのように部屋に残っている。ただ学生服がスーツになり、この部屋で過ごす時間が減っただけだった。
 武一は部屋を出て階段を降りようとしたが、ふと思いついて和室を覗いた。
 小さく開けられた襖の間からもれる光が暗闇に定規を引いたような境界線を作った。来客用の布団で眠る静の顔はその暗闇側にあってよく見えない。武一は和室に入ると、襖を閉めた。
 真っ暗になる。
 目が慣れるまでしばらく待ち、白い布団が視界に浮かび上がってくると、足を進めた。静の枕元には水をはった洗面器が置かれていた。武一はそこに腰を下ろし、目の前で眠る妹の白い顔を見た。
 額に置かれたタオルに触れると既にぬるくなっていたので、まだ冷たい水を含ませて絞り、そっと額に戻した。その時指が触れた彼女の頬は熱く、まだ熱があるのだと知れた。
 昔から静は滅多に熱を出さない子供だったが、その代わり一度熱を出すとひどい高熱になった。最後にこの状態の妹を見たのは静が高校生だった時だ。勉強とバイトで無理をしすぎて、突然バタンと倒れた。あの時はそうなるまで妹の体調に気付かなかった自分が信じられなくて自己嫌悪に陥ったし、強く静を叱った。
 あれ以来、静は弱った所を見せない。
 自分の力で仕事を見つけ、海外に渡った。
 そしてそこで結婚をし、子供を産んだ。
 本当の所、武一はいまだ複雑な気分でいた。
 正平は好きだ。同世代だし、気も合う。もちろん華子の事もまるで自分の娘であるかのように可愛い。
 けれどそれとは別に、静が結婚し、家庭を持っている事を手放しで喜べない自分がいる。
 何故かはわかっている。
 寂しいのだ。
 たとえ結婚しても、静が妹である事には代わりないというのに、寂しいと感じる。
 自分だけなのだろうか。綱や広中は、なんとも思わないのだろうか。まるで自分の玩具を取られた子供のように、時折正平に嫉妬する。いや自分だけではないだろう。綱や広中も、何も思わないはずがないのだ。
 寂しいと。
 兄弟に、自分達以外に大切な人ができてしまった事が。
 面白くない。
 子供のようだ。
 自分で考えていて苦笑する。
 静は布団を少しも乱す事なく、浅い息をして眠っている。こうして見ていると、この子が、正平の妻でもなく華子の母でもなく、ただ自分の妹なのだと感じる。自分の妹で、弟達の姉で。
 確認しなければ、思い出せない。
 綱や広中が結婚相手を連れてきた時もまた、こんな気持ちになるのだろうか。
「やだなぁ」
 呟いて、その声が静かな室内に意外に大きく響いたのに驚いた。幸い静は身じろぎ一つしない。こんな風に寝る子だっただろうか。
 その時階段を昇る音がした。その足音は一度武一の部屋の扉を開け、そしてまっすぐに和室まで歩いてきて襖を開けた。
「武兄?」
 光が和室に差し込み、小声で兄を呼びながら広中が顔を覗かせる。その後ろに綱もいた。武一は眩しさに目を細めながら、小さく注意するように言った。
「閉めろ」
 すると広中と綱はこっそりと和室に入り、襖を閉めた。再び暗闇が満ちる。
「……見えない」
 綱が呟いた。
「目が慣れてから動けよ。静に転んだら洒落になんないぞ」
 しばらくして、目が慣れたのか綱が動いて布団を回り込み、武一の向かいに腰を下ろした。次いで広中も綱の後についてその横に座る。武一は苦笑した。
「今静が起きたら驚くだろうな」
「何で囲んでんの? って?」
「武兄が下りてこないからだろ」
「昔さ、静、自分の平熱は七度五分だと思ってたんだよな」
「え、なんで?」
「体温計が壊れててさ、その壊れた体温計で一回ピンピンしてる時に熱測ったら七度五分あって、ああ自分の平熱は七度五分なんだな、って思ったらしい」
「へぇ」
「あーそれなら覚えてるかも」
 綱が笑った。
 自分の平熱が人より高めだと思っていた静は、ある朝体調が悪いなと感じて熱を測ったけれども七度六分しかなく、気のせいかなと思ってそのまま登校してしまった。そして登校途中で倒れて病院に運ばれたのだ。
「あん時はびびった」
「俺も。なんだかんだ言って、病院率は静が一番高いよな。車に轢かれた事もあったろ」
「なにそれ。静姉何者?」
 三兄弟は小さく笑う。
「広中は覚えてないかもしれなけど、その時もこうやって三人で静を囲んだんだ」
 病院のベッド眠る静がとんでもなく重い病気のように思えて、兄弟達は不安な気持ちで一杯だった。幼い広中などは、綱とぎゅっと手を繋いで、必死で泣くのを我慢していた。
「あんま、変わらないな。やっぱり」
 あぐらを掻き、その上に頬杖をついて綱が言った。
「誰が? 静姉が?」
「いや静もそうだけど、俺達も」
 闇になれた目に、お互いの顔が浮かぶ。綱は静を見ていて、広中は綱を見ていた。
 武一は苦笑した。
「そうか?」
 変わってないはずがないのだ。もう何年も経っている。時間は確実に流れているのだ。その証拠に、広中は高校生になったし、今静の姓はもう 『河野』 ではない。
「そうだよ」
 しかし綱は言った。
 まるで兄の心を読んだように、武一を見た。
「変わんないよ」
 双子だけれども静と綱は似ていない。こんな風に、水のような目をするのは綱だけだ。静の目はいつも色を変える。あまりに違いすぎて、よく二人が双子である事を忘れる。
 その時武一は、やはりと思った。
 ああそうだ。
 綱も感じていたのだ。
 この複雑な感情の想起を。流れる時間に対する郷愁とも言えるこれを。
 確かに。
 誰もが。
 変わらなければいいと。
 ずっと、このまま。
 なにも。
 兄弟四人で。
 あれればいいと。
「……そうかな」
 言って、武一はもう一度妹を見た。
 静は自分の上で交わされる会話などものともせずに深い眠りに落ちていた。
 かつてもそうだった気がする。病院で眠る静を見ながら兄弟達がどんなに不安そうに会話を交わし広中が泣き始めても、静はずっと眠っていた。あまりに普通に彼女が眠っているので、しまいに兄弟達は自分達が心配しているのが馬鹿みたいに思えて、安心して家に帰ったのだ。
「あ」
 武一が声を上げた。
「そういえば華子は?」
 まさか一階に一人で置いてきたのだろうか。すると平然と綱が答えた。
「武兄の部屋に閉じ込めてきた」
「早く言え馬鹿!」
 呆れた武一は小声で怒ると、さっさと立ち上がった。
「はらへった」
 綱が言いながら腰を上げ、
「僕、いつ腹が鳴るかどきどきしてた」
 と広中が笑った。