38.染み


「クルト様」
 その時老いた魔術師の部屋に現れたのは、かわいらしい二人の少女だった。
 アテルナとエッダである。
 困り顔のエッダの後ろに、アテルナが妙に沈んだ顔で立っている。
「クルト様、今いいですか? お願いがあって……」
 そう言ったのはエッダの方だ。
「なんだ」
 魔術師は手に持った本を開いたまま短く答えたが、決して少女達をうるさく思っているわけではなく、相手が子供といえど愛想を振りまけるような性格ではないというだけだ。
 もしクルトに今よりもっと社交性があればこのように閉鎖的なクルーゲの丘になど来なかったし、娘も彼のもとを離れていかなかっただろう。
 今さら言っても意味のないことではあるが。
「あの、時間を戻す魔術とかありませんか?」
 少女のその問いにクルトは老眼鏡を外して目を細めた。
 時間に関する魔術は魔術師の命題と言っていい。現存するすべての魔術は、人間の身体の時間を止める、つまり不老不死に到達する過程でたまたま生まれたにすぎないのだ。そしてその命題はまだ果たされていない。
 エッダのその問いは魔術師としてはあまりに愚かな問いだと言えたが、生来魔術を使うための精霊力を持たない彼女やアテルナのような者達にそのことを教え諭す必要性を、クルトは感じなかった。
「少なくとも儂は知らぬが」
「あ、あの、別の魔術でもいいんです! ちょっと紙にできた染みなんかを取ることができれば……」
「紙にできた染み?」
 その時初めて、クルトはアテルナがその手になにかを握りしめていることに気付いた。よく見ると、どうやらそれは封筒のようだ。封は開いている。
 クルトは咄嗟に、今は魔術師協会によって投獄されている孫息子を思い浮かべた。
 キアット=シュバフは禁術を侵し、魔術師協会と帝国に叛旗を翻した反逆者だ。そしてずっと存在さえ知らなかったクルトの孫。
 エッダやアテルナのように精霊力を持たない者達の隠し村を作るため、キアットが祖父であるクルトを頼ってきた時、老いた魔術師がそれを受け入れたのは他でもない彼の考えに賛同したからだ。しかしキアットが禁術を侵していることに気付きながらも見て見ぬ振りをしたのは、その血のつながりゆえだった。
 父からの愛を諦めて去っていた娘への贖罪と言ってもいいかもしれない。彼はキアットに会うまで、娘が結婚して息子を産んでいたことも、すでに死んでいたことさえ知らなかったのだ。
 そしてアテルナは、クルトが娘にできなかったような方法でキアットに愛情というものを伝えている希少な存在だった。だからこそクルトはこの時、アテルナが手にしている手紙がキアットからのものではないかと思ったのだ。
 しかしその推測はすぐに間違いだと知れた。
「あの、私がアテルナに来た手紙に間違えてインクをこぼしてしまって……。帝国から来たものだったんです。私、見せてほしくて……。ごめんね、アテルナ」
「いいよ、エッダ」
 アテルナは小さな声で首を振った。
 クルトはすぐに何が起きたのかを理解した。おそらく帝国からの手紙というのは王弟ルルーエル殿下からのものだろう。そしてそれを覗き見ようとしたエッダが何かの拍子にインク壷でも倒してしまったに違いない。
 少女同士の他愛のないたわむれと失敗だ。クルトはその皺だらけの手を差し出した。
「渡しなさい」
 すると、やっとアテルナが顔を上げてすぐに手に持った封筒をクルトに渡した。
 その緑色の双眸には期待と諦めが混じり合っている。アテルナがこういう時、純粋な期待のみを抱かないのは彼女がこれまで生きてきた環境の過酷さゆえだ。そしてそこから少女を救い出したのこそが、クルトの孫息子であるキアット=シュバフだった。
 しかしアテルナに笑顔を取り戻したのはキアットではない。
 クルトは会ったことはないが、ルルーエル=ウィド=ティウディメルはアテルナと年が近く優しく穏やかな少年らしい。冷徹で老獪だと評判の帝王イーニアスとは真逆の王子であることは間違いないようだ。
 老魔術師が封筒から便せんを取り出すと、そこには丁寧で読みやすい文字で文章が綴られていた。中央から右側にべっとりとついたインクの染みがせっかくの手紙を台無しにしている。
「クルト様……。全部綺麗にならなくてもいいんです。最初の方の、一部分だけ読めるようになれば……」
 アテルナがすがるように言った。
『アテルナ、お元気ですか? 体調を崩していませんか?』
 と少女の様子を気遣い他愛のない日常のできごとを綴った後、
『アテルナに伝えたいことがあります。内緒にしておこうかと思ったのですが、やはり思いきって書きます。』
 とある。
 そのすぐ横からインクで読めなくなってしまっているので、少女が言うのはこの箇所のことだろう。
 クルトはその手紙を持って書棚の前にある木のテーブルのところに行くと、そこにすでに書かれていた魔術陣を服の裾で乱暴に消した。そして書棚に置かれていたチョークで新たな魔術陣を書き始める。
 手早くそれを終えたクルトは手紙を魔術陣の上に置き、『古からの系譜に綴られる大気に息づく精霊よ……』と小さく文言を唱えた。
 少女達が見守る目の前で、便せんに広がったインクの染みが、細い糸となって紙から離れていく。クルトがチョークを入れていた瓶を逆さにして中身を空にすると、糸は誰かに誘われるようにその中に吸い込まれていった。
「……すごいわ」
 エッダが目をきらきらとさせて呟いた頃には、インクの染みはすべてクルトが左手にもった瓶の中に収まって液体となっていた。もちろん、手紙は王弟の丁寧な文字が完璧に読める状態に戻っている。
 帝国とニスニアロフでは、使っているインクの種類が違ったので助かった。もしそうでなければ、王弟の綴った文章までもが瓶の中に収まっていただろう。
 クルトは表情を崩すことのないまま再び便せんを手に取って自らの成果を確かめると、黙ってアテルナに手渡した。その時やっと、少女の目に喜びが宿るのを老魔術師は見た。
「……ありがとうございます」
「ありがとうございます! クルト様! よかったね、アテルナ!」
 エッダは飛び上がらんばかりに言うと、アテルナと共に魔術師の部屋を出て行った。
 クルトは息を吐く。
 正直、あのように幼い娘は苦手だ。いや、娘に限らず子供が苦手なのだ。何を考えているのかがわからない。
 老魔術師は自らが再び読めるようにした王弟の文章を思い出しながら、ああももったいぶった上で書かれた内容に首を傾げて苦笑した。
 愚かであるということこそが、幼い者のもつ美徳なのだと、クルトは結論づけた。




 アテルナ、お元気ですか? 体調を崩していませんか?
 こちらではシスの花が咲きました。暖かくなってきたので、今日の昼食は庭で食べました。とても美味しかったです。
 アテルナに伝えたいことがあります。内緒にしておこうかと思ったのですが、やはり思いきって書きます。
 実は、庭の木に鳥が卵を産みました。とてもとても小さな卵です。
 よかったら見にきませんか? 青い子鳥が産まれるそうです。
 産まれてから言おうと思っていたのですが、できれば卵の時もアテルナに見てもらいたいと思って書きました。
 アテルナが来てくれるのを待っています。