その知らせは、まず末弟にもたらされた。
 学校から帰ってきた広中は、二階の自分の部屋に鞄を置いて制服を着替えている時に電話が鳴っていることに気が付いた。今家には自分しかいない。彼は慌てて一階に降りて受話器を取った。
 受話器の向こうの人間が説明したことを聞いて彼はしばし呆然としたが、すぐ長兄と次兄に連絡を取った。そして迷った末、姉の旦那にも電話をした。
 緊急の場合に備えて直接繋がる携帯電話の番号を聞いていたのだ。電話に出た姉の旦那はいくつか質問をして、まだ高校生の義弟を落ち着かせるような言葉をかけてから電話を切った。
 広中は財布と携帯だけ持って家を飛び出した。
 嘘だ、と誰もが思った。
 なぜ、と。
 そして次にはどうかと願った。

 どうか。


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 出先から連絡を受けた武一は、そのまま会社に電話をして事情を話し、行くはずだった取引先には別の人間に行ってもらうことにしてすぐ病院に向かった。今日の営業先は少し遠かったので、家の近くのその病院までは時間がかかった。タクシーの中で矢那から電話が来たが、出なかった。矢那の電話を受けている時に他の兄弟から電話がかかってくるかもしれないと思ったからだ。
 雨は降っていない。今は夕方で、タクシーに乗っているのはスーツを着た自分一人だ。
 昔とはあまりに違う状況。それでも武一は、両親が死んだ夜のことを思い出さずにはおれなかった。
 昼に食べたものをすべて吐いてしまいそうだったが、我慢した。ただ何度も、笑う妹の顔を頭に浮かべた。
 静は、華子と買い物に出かけていた時に事故にあった。華子は無事で、静だけが今集中治療室で治療を受けている。
 あの時とは違う。あの電話を受けた時武一は、静も両親も皆死んだのだと思った。でも静は生きていた。静だけが生きていた。
 妹が死ぬはずがない。
 悪運だけは強いのだ。銃をつきつけられたことだってあるのに、車にはねられたくらいで死ぬはずがない。
 武一は移動中の気の遠くなるような時間を自分にそう言い聞かせ、病院に着いたら財布に入っていた一万円を運転手に押し付けて転がり出るようにタクシーを降りた。
 昼間の、人がたくさんいる待合室を人の目も気にせず走り、受付の看護師に河野静がどこかと聞いた。救急車で運ばれたはずです、と言うと看護師はやっと武一に治療室の場所を教えてくれた。
「広中!」
 エレベーターが来ていなかったので階段を駆け上り、治療室へと繋がる角を曲がる直前で早歩きにスピードを落として、椅子に座っていた弟の名を呼んだ。
 私服姿の弟ははじかれたように顔を上げると立ち上がって武一を見た。顔色が悪い。
「静は」
 声を大きくしなくても届く距離まできて、武一は静かに聞いた。右手にスーツの上着と鞄を持っていたので、左手で弟の肩を掴む。
 広中は特に目を潤ませるわけでもなく、ただ血の気が引いた顔で武一を見上げて意外なほどしっかりした声で言った。
「わからない。少し前は何人か出入りしてたんだけど、今は全然。看護師さん捕まえて聞いても、今頑張ってますからとしか言ってくれなくって。僕……なんか、ごめん。こういう時、どうしたらいいかわからなくって、着替えとか、持ってきてないんだけど……いるのかな? こういうのって夜までかかるの?」
「静次第だろ。綱は?」
 武一は広中の最後の質問にしか答えなかった。
「華子のところ」
 綱は大学にいたはずだから、武一よりもずっと早く病院には着いたのだろう。
「華子はどうなんだ」
「無事だよ。僕も様子見に行ったけど、眠ってた。たぶん、すぐ目を覚ますだろうって言われたから、華子が目が覚めた時一人だと泣くからって、綱兄が」
「そうか」
 武一は息をついた。そして治療室の上の赤いランプを見上げる。
 自分がまるで親の敵を見るかのような目でそれを睨み付けていることを自覚していた。
「広中、先に夕飯食べて来い」
「え……でも、別にお腹すいてない」
 広中はこの場を離れたくなさそうだった。
「そうか」
 武一はそれだけ言うと、先ほど広中が座っていた椅子に腰を下ろした。鞄を床に置いて、上着は膝の上に持つ。広中はしばらく立ったままだったが、やがて武一の隣に腰を下ろした。
「……静姉、病院にお世話になりすぎだよ」
 広中が姉を非難するように言った。武一は「ああ」と答える。
「ジャングルジムから落ちたって聞いた時はびっくりしたな」
「インフルエンザにだって一人だけかかっちゃうし」
「普段病気とかしないくせに一回一回が大きいんだ、あいつは」
 でもその度に、けろりとした顔で戻ってきた。
 今回も同じだ。そうに決まっている。
 武一は頭を抱えた。
駄目だ。どうしても、落ち着いてなんていられない。広中がいるのに。泣き叫んでしまいたくなる。やめてくれと誰かを罵倒したくなる。
 これ以上どうして奪うんだ。
 俺達から。
 もうやめてくれ。十分だ。今度穴があいたら塞ぎきれない。無理だ。もう。
「静……」
 武一は呻くように妹の名を呼んだ。
「……静姉」
 その広中の声が、懇願しているように聞こえた。




 どれだけの時間が経ったかなんてわからなかった。
「シズは……」
 その声が聞こえて初めて、武一は正平が到着したことに気付いた。顔を上げると、あの整った顔が金色の髪を乱れさせてそこにあった。
「まだ、治療中。大丈夫かどうかはわからないって」
 答えたのは広中だった。
「そう……」
「そう、じゃねぇだろ!」
 武一はかっとした。
 思わず正平の胸倉を掴み、静かな青を湛えるその双眸を睨み付ける。
「来んのが遅いんだよ! お前ならジェット機でもなんでも飛ばして来れただろ!? その間に静が死んじまってたらどうすんだ!!」
 怒鳴りつけながらも、これが理不尽な怒りだと武一はわかっていた。正平は武一なんかとは立場も責任の重さも違う。妻が車にはねられたからといって、すぐに駆けつけられるわけではない。
 武一だって社会人だ。それくらいのことは理解している。けれどそれでも怒鳴りつけずにはおれなかった。怒りを露わにせずにはおれなかった。
 こんな事態にも、目の前の青い色は変わらない。可愛い姪と同じ色の双眸。恐らく武一のよりも何倍も高いだろうスーツの襟を乱暴に掴み挙げる義兄の手を、正平はどけようとはしなかった。
「すまない」
 彼はただ一言そう言った。
 その声があまりに静かで、武一は一瞬、混乱した。
 正平の胸倉を掴んでいた手を離すと、その自分の手が震えていたことに武一は気付く。いつから震えていたのだろう、この手は。病院に着いた時からか。いや、タクシーに乗った時からかもしれない。
「ヒロ君」
 正平の声が聞こえる。静が広中をヒロと呼ぶので、いつからか正平は広中をそう呼んでいた。
 彼は武一の横を通り過ぎ、椅子の前に立つ末弟を抱きしめた。
「ありがとう、連絡をくれて」
 まるでこの空気の中に染み込んでいくかのような声だった。
「怖かったね。大丈夫だ。静は、強いよ。僕達よりもずっと強い。だから大丈夫だ。信じてあげて。静は、君達を置いていくような女性じゃない」
 正平はなおも小さな声で大丈夫だと言った。
 やがて広中の嗚咽が聞こえてきた。
 広中が泣くなんていったいつぶりのことだろう。静と華子が病院に運ばれたという電話を最初に受けたのは広中だったのだ。大人びてるとはいえ、まだ高校生の弟はずっと不安だった。気付いていても、気遣う余裕が自分にはなかった。
 武一は右手を握り締める。ぎりりと歯をかみ締めた。
 変わっていない。
 自分はあの時と何も変わっていない。
 兄弟達を重荷にさえ思ってただ蹲っていただけのあの頃と。
 何も変わってなどいないのだ。
 その時武一ははっとした。
 綱は。
 綱はどうしているのだろう。
 武一はすぐに駆け出した。
 自分は馬鹿だ。
 どうして一度も、綱の様子を見に行かなかったのだろう。
 すぐ下のあの弟は、実は一番傷つきやすい。両親が死んだ時だって、声が枯れるほど泣き叫んだのだ。
 華子の病室の場所は広中から聞いていた。
 母親が治療中なのに配慮して、同じ階の一室で華子はまだ眠っているらしい。武一は教えられていた通り奥から二番目の部屋をノックもせずに開けた。
「綱」
 武一はぞっとした。
 大人用の大きなベッドに横たわる華子を、窓際の椅子に座って見ている綱は昔を思い起こさせた。
 両親が死んですぐ。葬式までの三日間、綱はずっとこんな目をしていた。
「綱」
 武一は病室に入った。ベッドの上の華子を確認する。幼い少女は頬にガーゼを貼られていたが、顔色も悪くないし何かコードを付けられているわけでもない。本当に、ただ眠っているだけなのだろうとすぐわかった。
「さっき正平さんが来た」
 綱が言った。
 正平は、静の治療室に来る前に華子を見に来ていたのだ。
当然だった。華子は正平の娘だ。たとえ無事だと聞いていても、ひと目顔を見たいはずだ。その言葉に武一を責める意図はなかったはずだが、武一は少し眉宇を寄せた。
「華子は」
 綱の言葉はどこかたどたどしかった。
「ほとんど、外傷はないって」
 武一はベッドを挟んで、綱の正面に立った。綱は顔を上げないで、ただずっと華子を見ている。
「ちょっとすりむいたくらい。静が、護ったんだ」
 綱はいつも着ている黒のトレーナーにジーパンという格好だった。高校の時から着ているそれはもうぼろぼろで、いい加減新しいのを買えと静に怒られていた。
「一緒だ、と思った」
 綱は搾り出すように言った。その声は、あの時のような小さな子供ではない。
「父さんと、母さんと」
 綱の目から零れ落ちてくる涙はただその頬を濡らしている。
「一緒だ。静は、父さんと母さんがしたように、華子を護ったんだ。武兄」
 わかっていた。
 だから、武一は華子の様子を見に来たくなかった。
 眠る華子は、否応なくあの時の静を思い出させる。目を開けて、自分を見て「ごめんね」と言った妹を。謝るなと言いながら、本心からお前だけでも無事でよかったのだと言えなかった自分を。
「静は」
 武一は搾り出すようにして言った。
「父さんや母さんとは違う」
 言わなければいけない、と思った。気休めでも今言わなくてはいけない。心の底から、偽りなく。
「あの時とは違うんだ、綱。静は死なない」
 そう信じなくては、どうして今立っていられるだろう。
 正平だって、震えていたのだ。
 全身を、震わせて、立っていた。込み上げるものを抑え付けながら立って、大丈夫だと言った。正平が震えていたから、武一も自分の手の震えに気付いたのだ。
「静は死なない」
 これは、願いのように聞こえるだろうか。
 どうか。
 生きてくれ。
 無事でいて。
 願うあてなどない。
 ただお前の名前を呼ぶしかない。
「静は死なない」
 そう、言葉にするしかないのだ。

 死なないで、と。
 小さな子供のように。