40.日向ぼっこ


 先に外務省の特別人員として働きたいと申し出たのはヴィシックの方だった。
 長年人の目を避けて生きてきた彼女が、公爵令嬢としての華やかな生活に遅かれ早かれ限界を感じることになるのは彼女を知るほとんどの人間が予想していたことで、五公の誰もがその申し出を歓迎した。
 ヴィシックが主に請け負っているのは魔術師協会関連の雑事である。
 協会長セディア=リリックは旧知の友であるため、仕事上の通信が他愛のない女同士の会話に移行して思わぬ時間をくってしまうことも珍しくはない。外務省を統括する立場にある弟フェリテシアは姉だからといって仕事を減らしてくれることもなく、帝国の魔術師としての立場にあった頃よりずっと忙しくなった。
 いささか忙しすぎるほどである。
「あー、ちょっと休憩!」
 フェリテシアの目を盗んで仕事を抜け出してきたヴィシックは、城の中庭にやってきていた。
 この季節、庭師の手入れが行き届いたここには緑が賑やかに生い茂っている。日の光も浴びられる上に奥の椅子なら茂みの陰になって見つかりにくく、隠れるには絶好の場所なのだ。以前メルクヘン公とも座ったことがあるその椅子に、ヴィシックはごろりと横になった。剥き出しの石がひんやりと冷たく心地いい。
「ファリスってば……私が五十過ぎの老体だってこと忘れてるのかしら」
 身体的年齢は十代後半でも、彼女はこれまで三人の王に仕えてきた古株なのだ。社交界から逃れるためとボケ防止にでも、という軽い気持ちで働きたいと言ったのに、こうも仕事を詰め込まれるとは思わなかった。まったく容赦のない弟である。
 目を瞑ると、さわさわと植物達の囁き声が聞こえてくる。かつてあんなにも身近に感じられた精霊達の気配は今はもうずいぶんと遠い。ただ僅かに、残り香のようなものを拾い上げられるだけだ。それが普通の魔術師の感覚なのだとセディアは笑った。
 けれど、精霊達は今も変わらずヴィシックの側にいるらしい。そう教えてくれたのは“精霊の眼”を持つフェリテシアだ。
『皇女様とは関係なく、彼らは姉さんが好きなんだ。魂が綺麗だから』
 恥ずかしげもなくそう言った弟に恋人ができるのかどうかが、今のヴィシックの小さな悩みの一つである。
 樹冠から降り注ぐ暖かな日差しは彼女の全身を包み込み眠気を誘う。
 昨晩も、報告書を作っていて寝るのが遅くなった。そういった書類仕事はどうしても後回しにしてしまうのだ。針の穴で魔術を勉強していた頃から彼女は自分の頭の中のことを紙面に書き出すのが苦手だった。
 もうずいぶんと、ヴィシックは魔術の研究から遠ざかっている。それは意識してのことだ。望んで魔術師になったわけではない自分には、魔術と離れている時間が必要だとヴィシックは判断した。
 ヘッセンなどは、お前は極端すぎると眉をひそめ、サヒスは好きなようにすればいいと笑った。
 そうして初めて気付くのは魔術の使えない不便さだ。
 火をつけるのでも、どこかへ行くのでも、自らの足で動き手を使わないといけない。自分の意志を読み取って動いてくれる精霊はいないのだ。数十年ぶりのその感覚は、彼女にとって難儀であり新鮮でもあった。
 そして同時にその意志一つで精霊達を動かす帝国の魔術師という存在が、他者にとっていかに畏怖の対象となりうるのかを理解した。
 やはりそれは、隠されるべき存在だったのだ。皇女ティレアリアが森で生き、先代の魔術師リィダルリア=カーヴィングが史書から名前を消したように。光の下に出てきてはいけない存在だった。人々の平穏のために。
 彼が、それを知らなかったはずがない。
 とヴィシックは思った。
 幼いくせにひどく聡明なあの王が、知らなかったはずがないのだ。けれどそれでもなお、ヴィシックを光のもとに連れ出そうとした。そしてついには、それを成したのだ。
 その言葉通り。
 彼女は今、ヴィシック=ボリバルとして誰にも隠れることなく生きている。
 光の中を。
「ヴィシック」
 突然声をかけられ、彼女ははっと目を開けた。そしてすぐ眩しさに眉を寄せる。
 陽光を背後にした陰がこちらを覗き込んでいた。
「仕事を抜け出したのか。フェリテシアが探していたぞ」
 記憶にあるよりも落ち着いた声。
「……イアン?」
「寝ぼけているのか。こんなところで寝るな。仮にもお前は女なんだからな」
 手を引かれるままに身体を起こす。ヴィシックは自らの前に立つ男を呆然と見上げた。
「……イーニアス、なの?」
 すらりと長い脚。男らしく骨張った大きな手。ヴィシックが座ってなかったとしても、男の方が頭一つ分高いだろうことは見ればわかる。顔の稜線から幼さは抜け、切れ長の碧眼がその聡明さを物語っているようだ。ただその柔らかそうな髪の金色だけは、彼女の記憶の中にあるものと同じだった。
 男は眉を上げて怪訝そうな視線を向けてくる。
「他の誰に見える」
 まさか。とヴィシックは思った。
 帝国の王、イーニアス=イブ=ティウディメルはまだ十二歳のはずだ。変声期を経てもうすぐ十三になるものの、まだまだ見た目は子供である。
「何をぼーっとしている。僕も仕事を抜け出してきた。まったく、サヒスのやつ。僕を過労死させるつもりなんじゃないか?」
 どうみても二十代前半くらいの年齢に見える男は、さして本気でない様子でそう言うと、断りもなくヴィシックの隣に座った。
 その距離の近さに彼女は少し緊張した。頭の中が混乱している。
 え? 男の子ってそんな早さで大きくなるものだっけ? ヴィシックは弟フェリテシアがどうだったかを思い出そうとして瞬きをした。
 実のところ、彼女はもうひと月近くイーニアスに会っていなかった。フェリテシアが意図したことなのかはわからないが、ヴィシックにもたらされる仕事には、王の承認や意見を必要とするものが何一つとしてなかったからだ。
 そして帝国の王もまたなかなか自由な時間が取れないらしい。近々、彼の戴冠式が行われるのだ。先王アルヴェルトの喪がようやく明ける。もうあれから二年が経つのだと、サヒス達と酒を飲んだのはつい先日のことだ。
 ヴィシックの記憶を掘り起こす作業はすぐ中断された。海の底の青い双眸がこちらを覗き込んできたからだ。
「どうした、ヴィシック。具合が悪いのか?」
 その瞳にはこちらを気遣う色が浮かんでいる。
 彼女が何か言う前に、頬に大きく暖かい手が触れた。
「フェリテシアにこき使われているからな。まったく、あれは王の妻をなんだと思っているのだ。お前も王妃になったのだから、仕事などやめて城の奥に籠っていればいいのに」
 彼のその発言で、ヴィシックの頭の中はついに疑問符で一杯になった。
「妻?」
 彼女は思わず聞き返していた。
「誰が?」
 するとイーニアスが今度こそ眉間に深い皺を刻んだ。
「お前に決まっているだろう。本当に大丈夫か? ヴィシック。医師を呼ぶか?」
 大丈夫じゃないのはあなたの方よ! とヴィシックは叫びたかった。けれど彼が本当に医師を呼びに行きそうだったので慌てて止める。
「ちょっと待って! だ、大丈夫だから」
「お前の嘘は僕にはすぐわかる」
「イーニアス、それよりちょっと待って」
 彼女は立ち上がろうとする王の腕を引いた。
「ねぇ、あなたまだ十二歳よね?」
 ヴィシックは念のため聞いた。自分の身体の時間が止まっていた時のことを考えれば、成長期の男の子がひと月でここまで成長することもありうるのかもしれない。けれどイーニアスは心配そうな様子を崩さなかった。
「僕がそんな子供に見えるのか?」
「……見えないわ」
「当然だ。僕はもうすぐ二十三になるんだからな」
 彼女は目眩を感じた。
 なんですって?
「ヴィシック。お前は疲れているようだ。休んだ方がいい」
 先ほど頬に触れた大きな手が、今度は額に触れてそのまま優しく髪を撫でた。
「熱はないな」
「イアン」
「いい子だから部屋に戻っていろ。念のため医師を呼ぶから」
 男はそう言って優しく微笑むと、まるでそれがこの上なく自然な流れであるように身を屈めて唇を寄せてきた。その時彼女は、視界の端に自らの薬指にはまった指輪を捕らえていた。
 そうか、自分は妻となったのだ。
 イーニアスの妻に。ずっと逃げていた彼の求婚をついに受け入れた。
 ……そして王妃となった。
「愛している、ヴィシック」
 彼が甘く囁く。
 私も、と答えるためにヴィシックは口を動かした。

 そこで彼女ははっと目を覚ました。
 むくりと身体を起こし、口元に手をあてる。心臓が爆発しそうに動いていた。
 今のは夢?
 当然だ。夢に決まっている。十年後の世界なんてありえない。自分が王妃になっているなんて……。
「何が『私も』なんだ?」
 突然背後から声をかけられて彼女は飛び上がりそうになった。
 振り向けば、彼女の知っている十二歳のイーニアス=イブ=ティウディメルがそこに座っていた。そのことに更に動揺する。
「イアン」
「今寝言で『私も』と言っていたぞ」
 帝国の若き王が甘やかに笑う。
 ヴィシックは混乱した。夢の中の男と目の前の少年が重なった。
「寝言?」
「そうだ」
「いつからここにいたの?」
「さぁ、少し前だ。僕も息抜きに来たんだが、そうしたらお前がすやすやと眠っていた」
 それでは彼は、眠るヴィシックの隣に座り、その寝顔を眺めていたというわけだ。
「他にも何か言ってた?」
 彼女はどうあっても、夢の内容をイーニアスに悟られたくなかった。そんなことになれば、王は調子に乗るに決まっている。戴冠式と同時に結婚式を、などと言いかねない。
「いや、別に。かわいらしく眠っていたぞ」
「そう……」
 余計な事は口にしなかったようだ。ヴィシックはわずかに安堵した。それにしても、ひどく現実感のある夢だった。特に最後の唇の感触は生々しかった。夢は願望の現れだというが、そんなはずがない。あれが自分の願望であるはずがないだろう。
 自分にとってイーニアスは仕えるべき王なのだ。
 恋の相手ではありえない。
 そしてその時彼女は、はっとして目の前の王をまじまじと見た。
「……イーニアス、まさか寝ている私に何かしなかったわよね?」
 この子供には前科がある。
 しかしさすがにそこまで非常識ではないだろう、とヴィシックは心のどこかで祈りながら問うた。
 すると帝国の王は一度目を丸くすると、心外そうに肩をすくめて答えた。
「仕事で疲れて癒しを求めてきて恋しい女が眠っているのを見つけた時、何もせずにおれる男がこの世に存在すると思うか?」
 ヴィシックは立ち上がった。
 もう一度口元に手を当てる。
 唇に触れた柔らかな感触。彼の香り。愛しているという言葉。
「イアン!」
「寝てる間のことだ。気にするな」
 まさか夢で見たのだとは言えないヴィシックは、顔を真っ赤にして口を開いたが、それ以上の言葉が見つからない。
「信じられない」
 ようやく絞り出した台詞はひどく陳腐なものだった。
「これくらいのことで動揺するな。お前はいずれ僕の妻になるのだからな」
 悪びれない様子でそう言う王が、彼女の夢を覗き見ることができなくて本当によかったとヴィシックは心から思った。
「犯罪よ、イーニアス」
「子供の他愛ない悪戯だ」
「そんなことする子供はいないわ」
「ほう。ならお前は僕の求婚を真面目に受けとるんだな。僕を子供でないと認めるのなら」
「話をすり替えないで!」
 そう怒鳴りつけながら、ヴィシックは心の隅で自分に言い聞かせた。
 そう、あれは夢なのだ。
 ただの夢。
 だから自分は答えた。

『私も愛してる、イアン』

 と。