43.揶揄


「ねぇディルク」
 まだ十三になったばかりの少女にはいささか大きすぎる本を膝に乗せて、エルケは自らの養い親の名を呼んだ。
「なんだ」
 頭上から、新聞をめくる音と共に男が答える。
 魔術師の独立領であるこのニスニアロフにおいて、二人に与えられた部屋はあまり大きなものではない。小さな調理台に一人掛け用の椅子が一脚、それに一竿の本棚。隣の寝室だって寝台が一つあるだけだ。
 このこぢんまりとした空間で、二人が生活を始めてもう六年という月日が経っていた。
 椅子に腰を下ろしているのはディルクで、エルケはそのディルクの足元に脚を伸ばして座っている。これが夕方の、いつもの二人の定位置だった。
「これって本当のこと? 最初の魔術師が、奥さんの病気を治そうとした学者だったっていう話」
 エルケが手にしているのは、魔術史の授業で使うテキストだった。
 今日彼女が受けたのは、ピリトッド先生の講義だ。ピリトッド女史は話が横道にそれることにかけては並ぶ者がおらず、テキストだって遅々として進まない。けれどエルケは、歴史上の人物達の気持ちや行動を情感込めて語る女史の授業が嫌いではなかった。
 エルケが今開いているページには、言語学者にして歴史学者であった、ザイラス=レイアについての記述がある。彼は、病を得た妻を救うために、精霊の言葉を身につけ彼らとの契約を可能にした。それが今の魔術と呼ばれるものだ。
 今日ピリトッド女史は、ザイラス=レイアとその妻リナレイアの恋物語を、さも見てきたかのように劇場的に語ってくれた。
「一説ではそういうことになっているな」
 ディルクは新聞から顔を覗かせることさえせずに答える。
 彼の興味がなさそうな様子は今に始まったことではないので、エルケは怒らなかった。その代わり、両手を頬に当てて、ほぅとため息をつく。
「本当なら素敵よね。愛する人を救うためにそれまでの常識もすべて覆したなんて、ロマンチック」
 友人のマリアだって同じ感想だった。
 二人は授業の後もしばらく、ザイラスとリナレイアの素敵な恋について話に花を咲かせたのだ。
「ロマンチック?」
 しかしこの時、思わぬ単語が養い親の琴線に触れたようだった。
「なるほど、エルケはそういう恋をお望みか」
 新聞を閉じたディルクは、眉を上げて少女を見下ろす。別に怒っているような顔ではない。エルケは「当然じゃない」と頷いた。
「女の子なら誰だって夢見るわ。世界中の何よりも自分を愛してくれる男の子との、甘い恋」
「ははぁ、なるほど」
「ちょっとディルク、その馬鹿にしたみたいな言い方やめてよね」
「馬鹿にはしていない」
「でもからかってるでしょ」
「面白いとは思っている。お前が、甘い恋、ねぇ」
 ディルクは言うと、新聞をぽいと床に投げ捨て、そのたくましく長い腕を伸ばしてエルケを抱き上げた。当然ながら、エルケが膝に置いていた本もばさりと落ちる。そして男は人形をそうするように、少女を膝の上に座らせた。
「ディルク、私はもう子供じゃないのよ」
 エルケは唇を尖らせた。
 目の前には人形のように整った養い親の顔がある。親友のマリアなどはかっこいいとはやし立てるが、エルケはもうこの顔に十分な耐性ができていた。
「おや、そうだったかな? それにしてはまだ俺の膝の上にぴったりだ」
 ディルクは甘く笑う。
「少なくとも、幼児じゃないわ」
「それは間違いない」
 彼は頷いた。そしてその指先をで、するりとエルケの銀色の髪を撫でる。彼はことさら、エルケのこの髪が気に入りだった。
「お前が甘い恋をほしがるようになったことに、驚いているんだよ。小さなエルケ」
 ディルクに拾われた時、エルケはまだ六つだった。いや、病と栄養失調で全身がやせ細っていた彼女は、それよりずっと幼く見えただろう。
 温もりを帯びた指先が耳の下を通って頬を撫でる。その熱い軌跡が、エルケの心臓を知らず早めた。
「大きくなったものだ」
 ディルクは、少なくともその目が覚めている間は、エルケを側から離したがらない。
 授業がある間だけは仕方がなく彼女を送り出すが、それ以外の時間は、たとえマリアと二人で甘いお菓子を買いに行く時だって、彼は必ずついてきた。変人ディルク。魔術師としては有能なはずの彼は、エルケの前でだけ、時折小さな子供のような顔をする。
「よし決めた。今夜はお祝いにしよう」
 彼は唐突に言った。
「お祝い?」
「そうだ。お前が大きくなったお祝い」
「誕生日ならもう終ったわ」
「知ってるよ」
「ディルクってば」
「ケーキは俺が作る」
 そうと決めると、彼は動き始めが早かった。ひょいと再びエルケを抱き上げて膝から降ろし、材料の確認に行く。エルケは呆れた顔で、男の後ろ姿を見て息を吐いた。
 彼の理解できない行動は今に始まったことではない。
 それに、ディルクが作るケーキは意外なほど美味しいのだ。
 だからまぁいいか、とエルケは思った。
 今夜も彼と二人のこの生活が続くのならば、それ以上に望むことはない。
 少女は床に投げ出されたままの本と新聞を拾い上げながら、お祝いの食事にふさわしいメニューを考え始めたのだった。