44.不機嫌


「どうしたの? 新祢」
「突然押しかけてすまぬのう、早苗」
 南の国の第六王子妃は、西の国の王子妃にお茶を茶菓子を準備してやりながら首を傾げた。新祢が前触れもなく友人のもとを訪れるのは、これが初めてのことだ。
 彼女は明らかに元気がなく、いつもの様子と違った。
「それは別にいいのだけれど……。王伊様は?」
「辺境視察の帰りにな、少し別行動を取ることにしたんじゃ」
「別行動?」
 これはただごとではない。
 公務より妻を優先させかねないあの王伊が、新祢と行動を別にするなんて。
 早苗は新祢の隣に腰掛け、真剣に友人の顔を覗き込んだ。
「王伊様と何かあったの?」
「……それより、瓏はどうしておる? 寝ておるのか?」
 新祢はあからさまに話題を変えた。きょろきょろと部屋の中を見回して、産まれて半年の赤子を探す。
 早苗と広兼の息子である瓏は、まだ子供がいないその友人達にとっても息子同然だった。出産直後の祝いに来た際、鳥代などは俺に似てると嬉しそうに言っていたくらいだ。
「今、隣の部屋で寝ているわ。見に行く?」
 早苗がにっこりと微笑んで答えた。
 本来であるなら王族の子供は乳母が育てるのが通例ではあるが、早苗は広兼に頼み、自らの手で息子の世話をしていた。授乳はもちろん、おむつ替えや寝かしつけまで、ほとんど侍女達の手助けなくできているのは、夫の支えがあるからだ。
「そうか。昼寝の時間か。いや、よいよ。寝ているのを邪魔してはかわいそうじゃ。大きくなったじゃろうな」
 新祢は目に見えてがっかりした様子を見せたが、隣室に行こうとはしなかった。
「広兼様なんて、子豚みたいだっておっしゃるわ」
「世界で一番かわいい子豚じゃ。ああ、そうじゃ。瓏に土産を買ってきたのだった。後で渡そう」
「まぁ、ありがとう新祢」
「ふふ、視察先の町に人形師がおってな、そこの人形が着ていた服がそれはもうかわいらしうてのう。王伊が瓏に似合うと言うて聞かなんだから、無理を言うて……」
 言いながら、みるみる新祢が声をすぼめていく。『王伊』という名が出たあたりからだ。その原因は明らかだった。
「……新祢」
「はぁ。早苗。すまぬのう」
 彼女は、早苗が用意した香草茶を一口こくりと飲んだ。
「何かあったなら話してみて? 力になれるかもしれないわ」
 そう促すと、新祢はカップをテーブルに置き、一度息を吸ってゆっくりと吐く。
「……実はのう、王伊をどうも、怒らせてしもうたようなんじゃ」
「王伊様を?」
 早苗は、新祢に対して怒っている王伊を想像しようとしたがうまくできなかった。
 彼が新祢を甘やかしているところならいくらでも想像できるのだが。
「今回の視察はのう、三週間ほどかけて領地の南東を回って戻る予定でおった。じゃが途中で妾の体調が少し悪くなってしもうてな、予定が延びたんじゃ」
 新祢の話によると、本来ならもうとっくに王城に戻って王に報告を上げているはずだったらしい。
「妾が体調を崩した街で、王伊は最初動こうとしなかった。妾がもう大丈夫じゃと言っても、しばらくここでゆっくりしようなどと言い出すしまつ。しまいには妾が怒って、ようやっと出発した。じゃが王伊は明らかに様子がおかしかった。そわそわとして、着いた村や街を視察して回るのにも妾には待っていろと冷たく言い放つ」
「まぁ、でもそれは、新祢を心配されているのではないの?」
「もう具合は悪くない。この通り、ぴんぴんしておるわ。おかしいのはあやつの方じゃ。いったい何を考えているのか……」
「新祢」
 早苗がそっと肩に手を回すと、二百年前の姫君はもう一度ため息をついた。
「最後の村が南の城に近いと思うたら、我慢できなんだ。王伊に早苗のところに遊びに行きたいと言うと、二つ返事で了承された。……のう早苗。王伊はもう、妾に興味がなくなってしもうたんじゃろうか」
「それはありえないわ」
 早苗はきっぱりと断言した。
「悪いけど、王伊様が新祢に興味をなくすなんて、絶対に考えられないことよ」
 それは新祢も冷静になってみればわかるはずだ。
 彼の新祢への愛情は果てがない。何せ夢で彼女に出会って以来、一途に想い続けてきたのだから。
「じゃが、のう……」
「落ち着いて、冷静になって原因を考えてみましょうよ。王伊様は何かおっしゃってなかった? その、様子が変わる前に」
「いろいろ言っておったぞ。『走らないで』『階段の上り下りは駄目だ』『気持ち悪くなったらすぐに言って』……妾がもう大丈夫と何度言うても、あやつはまるで妾を赤子のように扱いおったんじゃ。それで妾も腹が立ってのう。……妾の怒り方がまずかったのかのう。王伊の奴は、街を発ったら別人のように妾にそっけなくなった」
 早苗はぴんときた。
 もしかして。
 いや、可能性は十分あるはずだ。
「ねぇ、新祢。もしかしたら……」




「落ち着けよ」
 広兼はいささかうんざりして言った。
「僕は十分落ち着いてるよ。いいから、教えてよ。妊娠初期の注意点は? 僕はどうするべき?」
 つい数分前に突然、南の城の広兼のもとに押しかけてきてから、王伊はずっとこの調子だった。
「ああやっぱり、一瞬でも側を離れるべきじゃなかったかも。ねぇ、早苗さんはどこ? 新祢は早苗さんのところにいるよね? ああでも、彼女、僕が側にいると少しイライラするみたいだったから、やっぱりそういうのって赤ん坊の健康上よくないよね。ねぇ、こういう時君はどうしたの?」
「うるせぇ奴だな。医者に言われたんだろ。騒ぎ立てるのが一番よくないって」
 椅子に頬杖をついてそう言うと、熊のように部屋の中をうろうろ歩き回っていた王伊は「僕は騒ぎ立ててなんていないよ!」と広兼に噛み付いた。
「まだ初期で流産する可能性は比較的高いから新祢には伝えてないし、同行してた者達にだって、新祢には黙っているように言ってある」
「だから、それがおかしいんじゃねぇの?」
 言いながらも、広兼は、王伊がなぜ妊娠の事実を本人である妻に伝えないのかわかっていた。こいつが度を超した過保護なせいだ。
「どうして? 流産して悲しむのは新祢だ。それなら安定するまで、彼女は妊娠のことは知らない方がいいだろう?」
「自分が妊娠してるっていうのを知らないのに、あまり身体を動かすな、ゆっくりしていろと言われても納得できないだろ」
「だから、君の知恵を借りたいんじゃないか。なんのために僕が君に会いに来たと思ってるの? ああ、早苗さんには、できれば新祢をずっとここに引き止めておいてほしいな。早苗さんの側なら安心だ。何せ経験者だしね。でも僕がここにいることは言わないで。新祢の精神衛生上よくないかもしれないから……」
「どうして夫のお前が精神衛生上よくないんだよ」
「え? 妊娠した奥さんってそういうものじゃないの? 子供を護るために、男を遠ざけようとするって聞いたけど。実際僕もうるさいって怒られたし」
「どこの野生動物の話だよ……」
 どうやら西の国の王子は間違った知識を持っているらしい。広兼は西の国の教育事情に懸念を覚えた。
「新祢をこれ以上怒らせちゃいけないと思って、僕も彼女とは少し距離を取るようにしたんだけど、もう気になって気になって。ああ、新祢ってば、重い物持ったりしてないかな」
「いいから落ち着いて座れ。王伊」
 南の国の王子がぴしゃりと言うと、室内を歩き回っていた西の国の王子はやっと広兼の正面の椅子に腰を下ろした。けれどまだ落ち着かないのか、脚をそわそわと動かしている。
 広兼は身を乗り出して、びしりと友人に指先を据えた。
「いいか? まずは妊娠していることを新祢姫に教えろ。そして側にいてやれ。心配なら別に安定期までうちにいてもいいから」
「本当?」
 王伊は目を輝かせた。
「そうさせてもらえると嬉しい。本当は、こんな状態の新祢を城に帰らせたくなかったんだ。やっぱりうちだといろいろ気を遣うしね」
「だったら二人でここまで来ればよかっただろ。何も別行動してるふりなんかしなくても……」
 王伊の話によれば、新祢は夫もまたこの南の国を訪れていることを知らないらしい。彼は新祢と距離を置き、その侍女に妻の様子を逐一報告させながらも、後を追うようにして南の国に入国したのだ。
「言っただろう。新祢は、僕が側にいると少しイライラするみたいなんだ」
「お前がおかしいから、新祢姫も気になるんだろ」
「僕は別におかしくない」
「十分おかしい。いいから、ほら。今から新祢姫のところへ行こうぜ。妊娠期間の中で、初期の流産の可能性が一番高いのは事実だが、よっぽどのことがなければ大丈夫だよ。万が一のことがあったとしても、何も知らないで子供を失う方がかわいそうだ。そうだろう? 少なくとも、新祢姫はそんなことを望まないはずだ」
 広兼の説得に、王伊は渋面を作った。
「……でも僕は、彼女が悲しむ顔を見たくない」
 王伊にとっては万事がすべて、それなのだ。
 妻の悲嘆の原因となるものは一つ残らず排除する。彼女が常に笑顔でいられるように、綺麗なものだけで周りを囲む。
 広兼は息を吐いた。
「……いいか、王伊。俺はお前のその歪んだ愛情表現に関して議論するつもりはない。だが妊婦の精神状況が赤ん坊に影響するってのは確かだ。そして、お前が新祢姫に妊娠を黙っていることによって、今現在、確実に新祢姫の精神に影響が出ている。それはわかるな?」
「……うん」
「それなら今すぐ話せ。それか新祢姫を妊婦として扱うな。彼女が走っても重い物を持っても階段から転げ落ちても平然としていつも通りにしていろ」
「無理だ」
 それはそうだろう。
 広兼にだってそんなことは不可能だ。
 早苗が妊娠している時だって、それがわかっていれば一人西の国にやったりなんてしなかった。珀蓮を助けるため東の城に乗り込む際に、連れて行ったりなんてしなかっただろう。
「……わかった」
 少しの間俯いて考え込んでいた王伊は、ようやくそう言って頷いた。
「うん。新祢に話すよ」
 王伊はいい加減、新祢姫を神聖な何かように扱うのをやめるべきだ、と広兼は常々思っていた。
 友人の片恋が長いことは知っていたが、彼は妻を、一人の人格を持った女性としてもっと尊重するべきだった。それができていないから、今回のような問題になるのだ。
「そうか。よかった。ほら、それなら今すぐいくぞ」
「ああ、でも待って、広兼。まだ心の準備が……」
「今すぐ動かねぇとお前のケツ蹴っ飛ばすぞ」
 彼は声を低くして凄むと立ち上がった。
 新祢がすでに入城していて、早苗とお茶を飲んでいるという報告は聞いている。
 友人の妊娠を聞けば、早苗も飛び上がるように喜ぶだろう。頬を染めて喜ぶ妻の顔は、実際のところそんなに見れるものではないのだ。その上、仕事を抜けて息子の顔を見に行くよい口実ができた。
「広兼、新祢は僕が黙っていたことを知ったら怒るかな? そうしたらすぐに彼女を宥めてね。お腹の子供によくないから……」
「怒るだろうけど、お腹の赤ん坊だってお前に怒ってるはずだから問題ねぇんじゃないか? 王伊。心を据えろよ。これから新祢姫は腹の中で生命を育むんだ。それは世界で一番特別なことで、素晴らしいことなんだからな」