45.寄り道


 墓には新しい花が添えられていた。
 主人がいない屋敷には、通いの管理人を置いている。その者がきちんと墓の面倒も見てくれているのだ。
 ヴィシックはその花の横に、母が好きだったカルミアの花を置いた。
 石には二つの名が刻まれている。
 ギリアド=ボリバルとそして、シスアナ=ボリバル。
「連れてきてくれてありがとう、イアン」
 ヴィシックが礼を言うと、距離を置いて背後に立っていたイーニアスは答えた。
「そう遠回りではないからな」
 本来なら、今回の行程にノルト領は組み込まれていなかった。直前に、それを少し変更したのはイーニアスだ。この旅の目的は、来年から試験的に魔術師との共生を開始する、北西の街の視察だった。
 今帝国と魔術師協会との間では、魔術師は針の穴以外の地域に居住してはならない、という法律の見直しを進めている。それに伴って、一般の人間と魔術師が共生するとどういうことが起こりうるのか、というのを現実で検証しようというのが今回の試みである。
 そういった目的のこの旅に、魔術師協会との仲介役を担っているヴィシックが同行するのは至極自然な流れであったが、まさか目的の街に着く前に故郷へ寄り道をしてくれるとは思わなかった。
 二年前にイーニアスの帝国の魔術師となるためノルト領を離れてから、彼女は一度も故郷に戻ってきていない。しかし久しぶりに訪れる故郷は記憶とさほど変わらず、帰ってきた領主の娘を歓迎しているようだった。
 かつて、帝国の魔術師として針の穴での留学を終え、戻ってきた時とは違う。あの時はすべてがよそよそしく思えたものだった。あの時と今では離れていた年月が違うのは確かだが、居心地の悪さを感じたのはそれだけが原因ではなかった。
「ティーアも来たかったでしょうね」
 風になぶられる髪を抑えながら、ヴィシックは言った。
「あいつがいると、せっかくの二人旅行の邪魔だ」
「あなたにはここまでずっと一緒に旅をしてきた従者や護衛の騎士達のことが見えていないようね」
 ヴィシックが肩越しに振り向いて睨みつけると、イーニアスは穏やかに微笑んでいた。
 十三になったイーニアスは、ずいぶんと背が伸びた。
 まだ少年という雰囲気は抜けないが、少なくとも、幼い子供ではない。先日ようやく先王の喪が明け、彼は正式に戴冠式を終えた。アーデルベルトやアルヴェルトと同じ王冠を彼がその頭の上にのせた時、ヴィシックは知らず泣いている自分に気付いて驚いた。
 いくら外見が若いといっても本来ならもう五十一歳なのだ。最近は、ひどく涙もろくなってしまって仕方がない。嫌になる。
「お前が目の前にいるのに、他人など目に入るわけがない」
 イーニアスは、数歩歩いてヴィシックのすぐ斜め後ろで脚を止めた。その青い双眸は、墓石に刻まれた名前を見ている。
「ボリバル夫人にも、何度かお会いしたことがある。お前とは似ていない、いかにも優しげな女性だった」
 その言い方に含みを感じたが、ヴィシックはあえて指摘しなかった。
「母は、優しかったわ。怒られた記憶なんてほとんどない。その代わり父が厳しかったの」
 こうして穏やかに過去の記憶を引き出せるようになったのは、両親の愛情を確かめることができたからだ。
 ヴィシックはずっと父と母に後ろめたく思っていた。自分が帝国の魔術師として生きることを決めたせいで、彼らは娘を失ったのだ。
 けれどそんな罪悪感は必要ないのだと、アーデルベルトが教えてくれた。ずっと側で、ヴィシックを見守ってくれていたかつての王が。
「でも父は、母には敵わなかった。一度だけ、母が父に対して怒っているところを見たことがあるわ。怒鳴ったりするわけじゃないの。ただ、雰囲気が怒っているというか……。父はすぐ根負けして母に謝ってた。原因がなんだったのか知らないけれど……。父が誰かに謝っているのを見たのは、後にも先にもあの時だけね」
「はは。公爵が誰かに謝罪しているところなど僕も見たことがない。それは貴重だな」
「……イアンから見て、父はどんな人だった?」
 そういえば、彼から父の話しはあまり聞いたことがなかった。王子と五公の一人として、何度か言葉を交わしたことはあるはずだ。
「公明正大な男だった。あのバルドでさえ、ボリバル公爵にははっきりと一目置いていた」
 当然だ。ヴィシックの幼なじみであるバルドゥイーン=ヘッセンは、幼い頃、自分との悪戯を父に叱られたことさえある。いくら陰険で底意地の悪いヘッセン公爵であったとしても、過去のどんな恥を暴露されるかもわからない相手に無闇に噛み付いたりはしなかっただろう。
「一度だけ」
 イアンは一歩脚を前に出して続けた。
「僕は彼に言ったよ。僕はヴィシックを妻にするつもりだと」
 ヴィシックは驚いた。帝国の王は、彼女のすぐ隣に並んで立っている。
「嘘でしょう?」
 しかしイーニアスは、墓に語りかけるような口調で、彼女に答えはしなかった。
「すると公爵は答えた。『娘を幸せにできなかった場合、私に殴られる覚悟がおありなのでしたらどうぞ、殿下』」
 まさか、本当に、父がそんなことを?
 確かに父には以前、王の目の前で帝国の魔術師を殴りつけるという暴挙を行った前科があった。ヴィシックは、自らの目でそれを見ている。
「あの時僕は気付いた。本当に公爵が殴りたかった相手は自分自身なのだと。彼は娘を護りたかった。幸せにしたかった」
 ギリアド=ボリバルは娘を愛していた。
 強く愛していたのだ。けれどその不器用さが災いして、娘が針の穴から戻ってきても、自ら声をかけることができなかった。あるいはシスアナが生きていれば、状況は違ったかもしれない。
 その時やっと、イーニアスは顔を上げてヴィシックを見た。
 海の底の青い瞳。その一対は、いつも吸い込まれそうなほど深い。
「僕には、お前を幸せにする義務がある。お前を愛した男達が皆成し遂げられなかった偉業だ。それが僕に託されているし、そのことが僕は誇らしい」
 ヴィシックは咄嗟になんと答えたらいいかわからなかった。
 少し考えて、言葉を口にする。
「……今まで十分、私は幸せだったわ」
 父と過ごした時間も、アーデルベルトと笑った日々も、間違いなく幸せだった。
 するとイーニアスは笑った。
「だからお前は欲がないというんだ。そんなものとは比べ物にならないような幸福が、世の中にあるんだぞ」
 知っている。
 とヴィシックは心の中で答えた。
 それは今だ。
 ヴィシックには自覚があった。
 自分は今、これまでのどんな時よりも満たされている。
 この若い王の言葉で、安らぎを得ている。
 生きてきた中で一番。
 世界が美しい。
「ヴィシック。先は長い。だから僕がゆっくり教えてやる」
 イーニアスが手を差し伸べる。
 ヴィシックは自然にその手を取った。
 父と母が笑っている気がする。風が緑をさぁと撫でる。
 今自分は光と共にある。
 だからこんなにも、なにもかもが美しいのだ。
 と彼女は思った。