48.リンク


 魔術師の故郷であるニスニアロフで過ごした時代というのは、ヴィシック=イースにとってよい思い出の方が少なかった。帝国の魔術師という肩書きのせいで一部の友人を除いて遠巻きにされていたし、最終的に実験動物のような扱いを受けて逃げ出すことになったからだ。
 けれど一つだけ、印象的だった出来事がある。
『お前、友達がいないのか』
 その男は、誰もいないと思っていた薬草園で、背後からヴィシックに声をかけてきた。
 いつもなら暇な魔術師がからんできているだけだと無視するところであったが、振り向いてその声の主を目にしたヴィシックには、彼を無視することができなかった。
 なぜだかはわからない。
 けれどヴィシックの中の何かが、彼を無視することを許さなかったのだった。


「お前、友達がいないのか」
 自分一人だとばかり思っていた薬草園で不躾な言葉がかけられた時、ヴィシックは小さく息を吐いた。
 魔術の研究に身を捧げる者達の集まりであるはずのこの場所には、驚くほど論理的に物事を考えられない人間が多い。ヴィシックが永世魔術陣という特別性を持っていることは確かではあったが、特異な人間に対して虚勢や敵意を向ける暇があるなら学術書の一つでも読んだ方がよっぽど生産的であるというのに、彼らはそれをまったくわかっていないのだ。
 そんな者達の相手をすることの非生産性もよく理解していたヴィシックは、変に巻き込まれる前にと目当ての薬草を摘んでさっさとその場を後にしようとした。
 しかし踵を返してその男を視界の端に入れた瞬間、彼女の足は地面に縫いとめられたかのように固まってしまったのだった。
 男は薬草園にある桶をひっくり返したものに座っていて、長い脚をもてあましているようにみえた。その造作は鑑賞を目的とした芸術品のように美しい。日の光を透かす金色の髪が輪郭を縁取り、長い指がその傲慢さを象徴するように腹の上でゆるく組まれている。
 けれどヴィシックが脚を止めたのは、決して男の外見に目を奪われたからではない。
 彼女の中の何かが、男に強く反応したのだ。
 魂の奥が声を上げたが、その言葉は聞き取れない。だからヴィシックにはただ黙って、男を凝視することしかできなかったのだった。
 胸をかき乱すような既視感。それなのにどこで見たのか思い出せない。一度目にすれば忘れられないような美形であるのに。
「……」
 先ほど投げかけられた不躾な言葉も忘れてヴィシックが男に見入っていると、男が再度問うた。
「お前、友達がいないのか?」
 ヴィシックは瞬きをした。それで呪縛が解けたと言っていいだろう。心臓の内側で叫んでいたように感じられたものはもうどこにもいない。彼女は白昼夢でも見たかのようにふるりと一度首を振って、黙ってその場を後にしようとした。
(見かけない顔だわ。なんにせよ。失礼なやつね)
 確かに友人と呼べる存在は少ないが、そんなのは見知らぬ男に言われるようなことではない。大きなお世話というものだ。
「図星か」
 くすくすと背後で静かな笑い声が聞こえる。普段ならそれくらいのからかいに反応するヴィシックではないのだが、この時はどういうわけか男を無視し続けるのが困難であった。
「私に友人が少ないということが、あなたに何かご迷惑でも?」
 男を振り返り、眉を上げて相手を睨みつける。すると男は何を考えているのかにこにことご機嫌な笑顔を見せた。
「迷惑はかけられていない」
「当然だわ」
「だが気になるな」
「誰が」
「お前が」
 ヴィシックは眉を寄せた。
 やはり前に会ったことがあるのだろうか。そう考えて記憶を探るが、ぴんとこない。探す場所を間違えているような違和感が、瓶にこびりついたワインの澱のようにヴィシックの中にあった。
「正確には、俺が気にかけているのははお前の内側にある魂だ」
 くっくと笑いながら男が立ち上がる。
 男はすらりと背が高かった。数少ない友人の一人であるセディア=リリックがいたら、すぐに男の名を聞いていただろう。セディアは面食いなのだ。
 しかしヴィシックは警戒して身体を固くした。男の様子に普通ではないものを感じとる。
 たまにいるのだ。研究に身を捧げ過ぎて正気を失ってしまった魔術師が。そういった者達の中でも特に、他者に危害を加えかねない人物には協会の監視がついているはずなのだが。
「それはお前が望んだことではないのだろう?」
 男が歩みを進めながら、ヴィシックに優しく語りかける。
(違うわ)
 男が見ているのも語りかけているのも、ヴィシック=イースという人間ではないということに、彼女は気づいていた。男の発言の意味がわからないのも当然だ。男は、ヴィシックという透明な膜を通してその内側のものに話しかけている。
「お前が望むのなら、その肉を引き裂いて助け出してやろう」
 男の言う『肉』とは自分のこの身体のことだ。とそう気づいた瞬間、すぅと全身から血の気が引いていくようであった。恐怖から起こりそうになる指先の震えを気力で止める。この場から確実に逃げる方法を数秒で見つけようとした。
 皮膚がぴりぴりと痺れる。男は本気だ。そしておそらく正気ではない。殺気さえ感じられないのに、ヴィシックには自らの四肢が引き裂かれる未来を容易に想像することができた。
 ――しかしそれは起こらなかった。
 おもちゃを壊すかのようにたやすく彼女をただの肉塊にできたであろう目前の男は、切なげに目を細めて小さく息を吐いた。
「ああ、やはりお前はジーリスに似ている」
 男の腕がすっと伸びる。
 ヴィシックには逃げることもできなかった。
 その大きな手が彼女の頭に優しく置かれた時でさえ、何が起きているのかすぐには理解できない。
(頭を、撫でられている?)
「……すまなかった。何もできなくて」
 なんのことかわからない。わからないのに、なぜかヴィシックは「違う」と口にしたかった。彼のせいではないと、ヴィシックには、彼女の内側の誰かには、わかっていたからだ。そしてそれを男に伝えたかった。
 しかしそのために言葉は紡がれず、男は一度目を瞑るとヴィシックから手を離し人形のような顔になった。
 目の前の男に恐怖を抱いている自分と、憐憫を抱いている自分が混在している。
 ヴィシックが何も言えないでいると、男はやがて興味を失ったように踵を返して薬草園を出ていった。
「……」
 男が視界から見えなくなると、ヴィシックはへなへなとその場に座り込んだ。
 こんな情けないところは誰にも見せられない。けれど今は毅然と立っている気力もなかった。手に汗がにじんでいて、握りしめた薬草の匂いが手のひらに染み付いてしまったようだった。
「……嘘でしょう」
 人形のようになった男の顔を見た時、ヴィシックは男をどこで見たか思い出していた。
 王城に飾られていた肖像画だ。
 帝国の創始者。偉大なる始帝ザーティス=イブ=ジーティス。
 まさか、と彼女は口元をひきつらせた。
 彼が生きたのはもう何百年も前の時代だ。
 いやけれど。
 ヴィシックの師であった男もまた、二百年前に生まれた人間なのであった。
 それに、始帝ザーティスは人間ではなかったという噂もある。
「嘘でしょう」
 ヴィシックにはそう繰り返すことしかできなかったし、この出来事を誰かに話すこともできなかった。帝国の創始者に会ったなどと、誰が聞いても信じないに違いない。だからその後の彼女は、この出来事を記憶に奥にしまってあまり考えないようにした。
 自分の中に皇女ティレアリアがいると知らされ、やがて皇女が威王アーデルベルトの導きによってヴィシックの中から去った後、やっとヴィシックはあの時の男の言葉の意味を知ったのだった。

『……すまなかった。何もできなくて』

 あれは、父から娘への言葉であった。
 自ら望んで恋人の刃で命を散らした娘への、慈しみであったのだ、と。