5.透明

 王城の裏手に広がるディグアの森は、母の故郷なのだという。
 母は森で精霊に育てられた。
父がもともと精霊で、母と父は精霊に取り替えられてしまったのだと言われても、ターラにはぴんとこなかった。彼の目から見て父親はどう見ても人間だったし、母も些か奔放なところはあるが、気品あるきちんとした女性に見えた。
 けれど姉であるティーレの成長の遅さを目の前で見て、それが二つの精霊の祝福を受けた結果なのだと聞かされると、不思議な気持ちになるものだった。
 二つの精霊というのはつまり、父と、母の育て親である風の精霊だ。
 その祝福の影響がどうしてティーレだけに与えられて自分に与えられなかったのかはわからない。たぶん一生わからないままだろう。
 成長が遅くなる代わりにティーレは精霊とある程度の意思疎通ができた。遠くにある蝋燭の火を消すのが面倒だと思って精霊に頼むと消してくれる程度だが、ターラには到底不可能なことだ。
 もっとずっと幼い頃。
 ティーレがまだ自分と同じ速度で成長していた頃は、どうしてティーレばかりが精霊と話せるのかと嫉妬した。
 ティーレの顔を見たくなくて逃げ込む先に選んだのがディグアの森にある湖なのは、そこが父と母が出会った場所なのだと聞いていたからかもしれない。
 そこにじっとしていると、不思議と心が落ち着いてくるのだ。清浄な森の空気とどこまでも澄んでいる湖の水が自分のもやもやとした心の中を洗い流してくれるかのようだった。
 ティーレの持つ精霊の祝福を羨ましいと思わなくなってからも、ターラはこの湖を訪れた。
 湿り気を帯びた草の上に腹ばいになり、湖の水を覗き込む。
 水のあるところには水の精霊がいるのだと母は言っていた。水を弾くと精霊が喜ぶと聞いていたので、手を伸ばして水面を指で払う。水滴が飛び、波紋が広がった。
「楽しい?」
 誰ともなく聞いた。
 何かあったわけではないし、気持ちが落ち込んでいるわけでもない。
 ターラは、いつからかふらりとこの湖を訪れるようになっていた。
 そこで目に見えない精霊と戯れるのだ。
 たとえ自分の目に見えなくてもそこに精霊は存在しているのだと、ティーレを見たり母の話を聞いたりして、彼は知っていた。
 ターラは目を瞑り、草に頬をつけた。
 葉の匂いがする。草が擦れ、首筋がくすぐったかった。
「お母様は元気だよ、テティアト」
 風が頬を撫でる。
 母を育てた精霊の話は、幼いターラにとってはただのお伽話だった。
 けれど何度もこの湖に来るうちに、彼は母を愛した風の精霊を瞼の裏に想像するようになった。
 青い色を持つ風の精霊。
 母と父を取り替えて、母を愛して慈しんだ。
 彼はどんな気持ちで自分達の宿った母の腹に祝福を与えたのだろう。
 ターラにはわからなかった。
「ティーレも僕も元気だ。身体が成長しないことは、ティーレにとってそんなに弊害ではないみたい。むしろいつまでも子供に見えることを利用しているよ。僕の姉はすごく強かだ」
 精霊の祝福がティーレの身体が成長を遅らせていることで、母が顔を覆って父が険しい顔をしているのを見たことがあった。それを見て、母を育てた風の精霊も悲しんでいるのではないかと思った。
 それからターラはこうして湖に来るたびに、目には見えない風の精霊に家族の話をするようになった。
「お父様はあいかわらず。僕にもお父様にとってのお母様くらい愛せる人が現れるのかなぁ。……無理な気がする。お父様は異常だって、お母様もいつか言ってたし」
 葉が擦れる音がする。
 ターラは目を開けない。
「そうだ。シェンロがお嫁さんをもらったんだ。とても綺麗な人だよ。『おさなづま』ってお父様がおっしゃってた。妻はわかるけど『おさな』ってなんだろう。そういえば、辞書で調べようと思ってたんだ。忘れてた」
 帰ったら調べよう、とターラは思った。
 その時ぱしゃんと水を弾く音がした。
 はっ、として、ターラはがばりと起き上がって湖面を見た。
 波紋ができている。まるで立った今、誰かがそこを指で弾いたように。
 ターラはきょろきょろと辺りを見渡したが、自分以外の誰も気配もしない。
 風が吹いて髪を揺らした。
 水面も揺れて、小さな波を作る。
 ターラは笑った。
「また来るね、テティアト」
 そう言って、少年は風が乱した自分の髪を撫でた。