8.他人事


『思えば君は初めて会った時も転んで泣いていた。
 周囲に対する注意が散漫なのがその原因かと考えられるが、そもそも君は外界に対する警戒心というものが致命的に薄弱だと思われる。
 以上のようなことを鑑みた結果僕のような男が君の夫となった方が君の身体ひいては生命の安全のためには良好な結果を残すのではないだろうか。
 もしよければ、この事案についてご検討願いたい。良好な返事を期待している。』




 その手紙を持つ主人の手は震えていた。
「春委様……」
 侍女は気遣わしげに彼女の名を呼んだが、それは主人を冷静にする効果は持ち得なかったようだった。
「……っっぶぶ!!」
 そして春委はついに噴き出した。
 がたりと椅子から転がり落ちて、絨毯の上で腹を抱えて笑う。その様子は貴族の令嬢にはとても見えなかった。
「あーははははははは!」
「春委様、はしたないですよ」
 侍女は表情を変えずに嗜めた。
 先日十七になったばかりの公爵令嬢は、絨毯に転がったまま涙目で侍女を見上げた。髪は乱れ、頬は赤い。普段大人しいこの娘からは想像できない姿だ。両親が見たら驚くだろう。
「だって、だって……信じられないわ。あの方は、これが恋文だと思っていらっしゃるのよ。ねぇ、あなたちゃんと読んだの? どうしてそんなに澄まして立っていられるの?」
 侍女はため息をついてその場に膝をつくと、主人の手を引いて上体を起こさせた。
「私にはお嬢様の変化の方が驚きです……。何があったというのでしょうかね。以前はあんなにもあの方を怖がっておいででしたのに」
 すると春委はにこっ、と無邪気に笑った。
「三日に一回はこういうお手紙が来るのよ? もういい加減慣れてしまうわ」
 いきいきとしたその笑顔に、侍女は肩をすくめる。
 主人に対してそういった仕草は本来なら減俸ものだが、このご令嬢はそんなことで怒ったりはしなかった。自分より十も年下のこの主人を彼女は気に入っていたし、親戚の娘のような近しい感情を覚えてさえいた。
「殿下も意外としつこい……失礼いたしました。ええと、諦めの悪い方ですね」
「諦めが悪いというのもあまりいい表現ではないのではかしら」
 その傷一つない綺麗な手を引いて助け起こしながら言うと、春委はくすくすと笑った。
 侍女はわざとらしく目を丸くする。
「そうですか?」
「そうね……でも間違ってはいないわね」
「そうでしょう」
 主人の同意を得て、彼女はうんうんと頷いた。
 西の国の第二王子が、彼女の主人である春委にこういった手紙を送り始めたのは半年ほど前だ。
 仮にも王の直系の青年が、幼い頃からの知己とはいえ社交界以外で顔を合わせることのなかった相手に対して、突然こうも朴訥な恋文を送り始めた理由はわからない。
 そのため春委は最初、まるで肉食獣を前にした子鹿のように、定期的に送られてくるこの手紙に怯えていたのだ。
 だが回数を重ねることによって、呪いの手紙かと思われたそれがもしや恋文なのではないかという憶測が春委と侍女との間に持ち上がってきた。
 そして今朝届いたばかりの、前述の手紙である。
 どうやら王子は(この上なく好意的に解釈すれば)春委に求婚しているつもりらしい。
 求婚?
 笑える。
 侍女は何度か遠目に見たことのあるこの国の第二王子を思い浮かべた。
 特別目を引く外見をしているわけではなく、愛想は悪いし口数も少ない。侍女仲間の間では女性に興味のない方なのではないかという噂が流れているほどだ。少なくとも第二王子が社交界で女性と噂になったことは一度もなかった。
 その第二王子が、よりにもよって春委に……無垢で可愛らしく、六人目にしてやっと生まれた娘だから公爵が目に入れても痛くないほど可愛がっている箱入りの世間知らずのお嬢様に、求婚しているなんて。
 もし皆に話せば、堅物の第二王子とお人形のような公爵令嬢の恋は、侍女仲間の間でしばらく話題の的となるだろう。
「お嬢様、お返事はどういたしましょう? 半月くらい焦らしてみますか?」
「焦らしてどうするの?」
「業を煮やした第二王子がこのお屋敷に白馬で飛び込んできたら面白いなと思います」
「あのね。まったくあなたってどうしてそうなの? 恋人がいないからかしら」
 春委が呆れたように言うので、「大きなお世話です」と侍女は答えた。
 確かに彼女には恋人がいなかった。当然ながら結婚もしていない。独り身歴二十云年だ。
 親は嘆いている。これまで何人もの男性を紹介されたが、どの男も彼女にはどうにも物足りなかった。
「そういえば、あなたってどんな男性が好みなの?」
 お嬢様は突然好奇心に目を輝かせて聞いてきた。
 こういう素直なところが可愛らしいのだ。
 たまらない。泣かせたくなる。
 侍女はにっこりと笑った。
「お嬢様のような男性が好みです」
 春委は不思議そうに首を傾げた。
「たくさん食べる人が好きだということ?」
「お嬢様のは食い意地が張っているというのです」
 侍女はぴしゃりと言った。
 すると春委はぷくりと頬をふくらませて、「失礼ね!」とそっぽを向いてしまったので、侍女はその頬を指で思い切り突いてやりたい衝動をなんとか抑え込まねばならないのだった。




「殿下! お返事が来ましたよ」
 執務で手が離せない主人の代わりに封書を預かった従者は、その差出人にぱあっと顔を輝かせて主人の元へ駆け寄った。
「あっ!」
 ズダーン!
「大丈夫か」
「大丈夫です! 殿下! お返事が来ましたよ!」
 二十九という年齢に反して小動物のような外見を持つこの第二王子の従者が、何もないところで転ぶのなんていつものことである。
 顔面をしたたかに床に打った彼は、涙目ではあったが曇りない笑顔を浮かべたまま素早く立ち上がると、主人への手紙に傷みがないかを確認してからそれを恭しく王子に手渡した。
「今回は早いですね」
「そうだな」
 あまり表情豊かではない第二王子は、けれど執務の手を止めて渡された手紙の封を開けた。やはり主人もこの手紙を楽しみにしていたのだと、彼は嬉しくなった。
 王子がこの手紙の主である公爵令嬢に恋文を書き始めたのは半年ほど前である。
 きっかけはある社交場だった。
 そもそもこの国の第二王子はそういった華やかな場があまり得意ではない。その時も招待を受けてしかたなく参加し、しかし女性をダンスに誘うわけでもなく壁際で剣術の型の脳内稽古を行っていた王子は、見るともなしに見ていた会場内で、ある一人の女性に注意を引かれた。
 その後彼は片時も視線を外すことなく彼女を注視し、そして感嘆した。
 彼女は、この人混みの中を魚のような優雅さで移動し、膨大な種類の料理をすべて平らげていた。途中でどんな障害に遭おうとも(下心の隠しきれていない紳士に話しかけられたり、話の長いご夫人に捕まったりしようとも)彼女はその都度臨機応変に対応し、そして目的の料理を腹の中におさめていったのだ。
 さながら自分という一人の兵を動かす軍師のようである。
 その後王子は社交場で出向くたびに彼女を捜し、そしてその行動を注視した。
 それが恋だと自覚したのが半年前で、それ以来、王子の恋文は続いている。
「前回はどういうことを書かれたんですか?」
「求婚した」
「そうですか……ってええっっ!」
 従者は驚いた。
「求婚って! けけけけ結婚を申し込まれたということですか!?」
「そうだ」
「それで……いったい返事はなんて……」
「提案は受諾されたようだ」
「……」
 従者は眉尻を下げた。
「……それって……了承を頂いたということ……ですよね?」
 おそるおそる聞くと、王子は相変わらず少しも嬉しくなさそうに従者を見た。
「そうだ」
「ああ!」
 従者は飛び上がった。
「やった! やりましたね殿下! 春委様がご結婚を承諾されたんだ! 春委様が殿下の奥方様になられるんですね! やったやった!!」
 こんな嬉しいことはなかった。
 この第二王子は、彼にとってこの世でもっとも敬愛する人だった。従者仲間の間ではこの方が主人というだけで同情を買いがちだが、彼はいつもそれを奮然と否定していた。その度に、はいはいまったくお前は素直な奴だからなーと子供にするように宥められるのが納得いかないが、まぎれも無い事実なのだ。
 従者は感動のあまり溢れてくる涙を止められなかった。
「うううう……でんが……おべでとうございまぶ……」
 思わず主人の前で両膝をついてむせび泣いていると、王子はそっと手拭を差し出してくれた。
「そんなことですぐに泣いていると嫁の来手がなくなるぞ」
「いいんでず……ぼぐのごどなんが……だっで、うれじぐで……」
「顔を拭いてこい」
「ばい……」
 確かに彼には恋人はいなかった。どうもこの性格が災いしているようで、適齢期の女性には子供っぽいと言われてあまり相手にされないのだ。年上には人気があるのだが、愛玩動物のように思われている気がしてならない。
 親は心配している。けれど彼はあまり焦ってはいなかった。
 この世のどこかには彼の運命の女性がいるはずである。
 そう、彼の敬愛する王子殿下にとっての春委様のように、出会うべくして出会う運命の相手が。




「ねぇ、あなたの理想の恋の語らいってどんなものなの?」
 春委が聞くと、侍女は笑った。
「運命とか信じちゃってる僕ちゃんの理想を踏みにじったりすることですよ」
「……恋、って私、聞いたのだけど……」
「あら、春委様。こういう恋の形もあるんですよ」
「そうなの……」
 春委は首を傾げた。
「よくわからないけど、それがあなたの幸せなら、早く見つかるといいわね」
「結婚の決まったお嬢様に言われるとそこはかとなくむかっときますけど、そうですね。三十になるまでには見つかると思いますよ。そういう甘ちゃん坊やって意外とそのへんにいますからね。お嬢様が片付いてしまえば、そういうのを適当に捕まえて食べるつもりですから、どうかご安心くださいませ」
 と侍女は答えたのだった。