ドゥルガ


 ドゥルガは甘く頭を痺れさせるような匂いの満ちた室内で、まだ未発達な胸をさらし裸のまま気だるげに横たわっていた。
 彼女は折れそうに細い自分の腕を小さな頭の下にしいて、ただ絵描きの手の動きだけを目で追っていた。
 絵描きは三十半ばと思われる少々くたびれた感のある男だったが、金はあるらしく今日丸一日は、ドゥルガはこの男のものだった。
 自分を一日も独占したがる男がいる事にドゥルガは驚いた。彼女はまだ九歳の、世間では子供と呼ばれる年齢だし、身体もまるで骨と皮だけのようにがりがりで決して抱き心地がいいとは言えなかったからだ。幼い少女を好む男もいるが、そういう客は大抵肉付きのよい他の子供を買うものだった。
 しかし情事の後すぐに持っていた大きな袋からキャンバスを取り出して絵を書き始めた男を見て、ドゥルガはこの男はただの変わり者なのだと納得した。これまでドゥルガを買った数少ない客達の中で、情事の後に木炭を取り出す男など一人もいなかった。何をしているのかと問うた彼女に、自分は絵描きなのだと男は言った。
 そして絵描きはドゥルガに背を向けてキャンバスに向かった
 ためらいもなく流れるように動かされる絵描きの腕の線は、そのくたびれた容貌からは想像できないほどに魅力的だった。筋肉と血管のつくる線は他にはないようで、その腕が白いキャンバスの上でまるでそれ自体意思を持ったもののように線を書き足していく様子は、魔法のようにも見えた。
「いくつの時から絵を描いているの?」
「三歳」
 絵描きはしわがれた声で答えた。
 決していい声とは言えない声だ。まるで割れ鐘の音を耳にしているようだった。
「そんな小さい頃から?」
 ドゥルガは少し驚いたように言った。
「親が画商だった。あれだけ毎日絵に囲まれて生きていれば嫌でも描き方を覚えるさ」
「ふうん。そういうものかしら」
「……」
 ドゥルガの最後の呟きは独り言と判断したのか、絵描きは返事しなかった。
 ドゥルガはこの絵描きの客に好感を持っていた。
 彼は情事の際にはドゥルガに無茶な事を要求しなかったし、彼女をただの娼婦としでではなく一個の人間として扱っているように思えたからだ。絵描きは部屋に入りドゥルガと目を合わしてすぐ、彼女の名前を聞いた。ドゥルガと彼女は答えた。
「ねぇ、聞いてくれる?」
 ドゥルガの高い声は部屋の空気の中に溶けた。
「私ね、捨て子なの。ある朝赤ん坊の私は旦那様のお屋敷の前に捨てられていたんですって。あ。旦那様っていうのは私をここに売った人。つまり前のご主人様ね。ひどい所だった。捨てるならなんでもっと優しい人の家に捨ててくれなかったのかと、何度親を恨んだか知れないわ」
 絵描きはドゥルガの言葉が聞こえていないのか、腕を止める事はなかったが、彼女は気にせずに話し続けた。
 ドゥルガは今まで客に身の上話をした事は一度もなかった。しかし何故だかこの時それを話したい気分になっていた。それがこの雰囲気のせいか、相手がこの絵描きだからかは定かではなかったが、少なくともドゥルガは今いつもより饒舌な自分に気付いていた。
「寝起きするのは納屋の中だったの。馬と一緒に寝るのよ。冬にはいつも凍死寸前だった。日中は吐くまで働かされて、失敗すると旦那様の棒で殴られるの。赤黒くて硬い、人を殴るための棒よ。本当に世の中には誰かを殴る目的で作られたものがあるのよ。血がついていたわ。私のじゃなくて、誰か前の人のものよ。それで赤黒くなっていたのかしらね。いつもそれで殴られたわ。骨が折れても放って置かれてた。だから私の足、ちょっと曲がってるでしょう? 骨が変な風にくっついたのね。夜はほとんど一人だったけれど、たまに旦那様の夜のお相手をさせられたわ。初めての時が一番辛くなかった。あまりの痛さに気絶してしまったからね。目が覚めたら私は裸のまま納屋の隅に捨てられたみたいになってた。あれが冬だったらあのまま凍死してたかもね。馬が交尾してる横で犯された事もあったわ。狂ってた。ここはベッドがあるだけあの頃よりはずっとマシね。動物の匂いがしないもの。旦那様が私を売ったのは、仕事がうまくいかなくなって、お金が足りなくなったからなの。自業自得よね。ざまあみろって思ったわ」
 ドゥルガは話しながら、絵描きの腕からその腕が生み出すキャンバスの上の絵の方に視線を移した。
 そこには一人の女がいた。
 ドゥルガではない。もっと大人で、色気があり、高慢で、まるで女帝のような女だ。女は豪奢な服装をしていた。身体には宝石を多く身につけ、口元は傲慢に歪んでいた。目だけはまだ白いままだが、壮絶なまでに美しく醜い女だった。
 今にもその口を動かして命令の言葉を吐きそうなその女に、ドゥルガは目をみはった。
「それは誰?」
「昔私が住んでいた村の領主だ」
 絵描きは女の髪を艶のある黒髪に染めながら続けた。
「これはひどい女だった。そう、お前の旦那様よりもひどい女だった。この女は自らの美しさに執着していた。処女の生き血で身体を洗っていたという噂もある。あながち嘘でもないようだがな。実際、この女の屋敷の侍女は、毎年何人かが行方不明になった。女は自分より美しい女を忌み嫌っていた。しかし女は実際なかなかの美貌を持っていたし、彼女よりも美しい女は領内にはほとんどいなかった。けれどただ一人、誰もが領主よりも美しいと認める女性がいた。彼女は私のいた村の歌姫だった。毎夜酒場で歌っては、小金を稼いで貧しくくらしている女性だった。女領主は男達に命令して彼女を襲わせた。五人、いや六人はいたかもしれない。とにかく彼女は輪姦されて、それを苦に自殺した。村のそばには川があって、そこに身を投げたんだ。死体も見つからなかった。誰もその歌姫の事を口にしなくなった。女領主の機嫌を損ねるのが怖かったんだ。女性には墓さえ作られなかった。村は彼女の存在を消したんだ。自分達を護るために」
 絵描きは最後に女の目に取り掛かった。
「その歌姫を愛していたの?」
 ドゥルガは聞いた。
「結婚の約束をしていた」
 絵描きは答えた。
 そしてついに絵が完成した。
 壮絶な絵だった。
 双眸に瞳の描かれた女は、さらに、残忍で狡猾に見えた。
 ドゥルガはぞくりとした。
 何て目で人を見るのだろうこの女性は。
 まるで生き物を見ている目ではない。道具、いやそれ以下だ塵やくずに等しい。自らは踏みつぶして当然と思うものを前にして、女は歪んだ笑みを刻んでいた。美しかった。醜い心に裏づけされた、常軌を逸した美しさだった。
「私はこの女に復讐するために、今まで生きてきたんだ」
 絵描きは木炭を置き、そのキャンバスの上の女を鑑賞するように見てドゥルガを振り向いた。
 そこには先ほどまでのくたびれた絵描きはいなかった。
 触れたら切れてしまいそうな光を双眸に宿した、復讐者がそこにいた。
 絵描きは口に笑みをはいた。
 残酷で、余裕の笑みだ。
 ドゥルガはぞくりとした。
 そしてまるで、空腹に喉を鳴らす獅子の前にいるかのような居心地の悪さを感じた。
「ドゥルガ、君は人間が一体何年生きられるものだと思う?」
 それはあまりに唐突な質問だった。
「六十年……いえ、七十年?」
 戸惑いながらもドゥルガは答えた。
 人間の平均寿命は近年どんどん上がっていっている。それは進歩した医療技術と国の福祉施設の充実によるものであると言えるだろう。
「三百年」
「え?」
「人は、人間の魂は少なくとも三百年間一つの人格として存在する事ができる」
 ドゥルガは困惑した。
 これは誰だ?
 彼女は自分が突然全く違う世界へ迷い込んだかのような錯覚に陥った。
 これは誰だ?
 自答する。
 今彼女の目の前にいるのは、ただの絵描きでも復讐者でもない。人間以外の生き物だ。
 人外。
 人ではない。
 いや、違う。すでに人ではなくなった、ひと。
 絵描きは笑っていた。
 それはまるで死体の笑顔のような違和感を感じさせる。
「不老不死の研究が長年行われてきたのは知っているか? 富も名声も手に入れた豚どもが最期に求めるのは永遠の命だ。私はその研究の被験者だった。……もう、三百年前の話だが」
 三百年。
 それは、なんて途方もない数字だろう。
「その時の研究者は皆私が殺してしまったが、不老不死を求める人間は後を絶たない。愚かだとは思わないか?」
 気が付けばドゥルガは震えていた。
 青ざめ、冷や汗を流し、がたがたと震えていた。
 恐怖だ。
 彼女を包むのは、この、絶対的な狂気と殺気による恐怖。
「ドゥルガ、赤ん坊の頃の記憶はあるか?」
 絵描きの声はひどく優しく響いた。
 しかしそれは、彼女には地獄の悪魔の声に聞こえた。
 ドゥルガは痙攣するように小さく首を振った。今口を開けば悲鳴になると、彼女はわかっていた。そしてその悲鳴がこの絵描きの不興を買うだろう事も。
 絵描きは彼女を見下すように笑った。
「いまも赤ん坊のようなものでは、覚えていないかな」
 ひどい侮辱だと、いつものドゥルガなら怒りと羞恥を覚えていた所だが、今の彼女にそんな余裕などなかったのだ。
「お前は両親に捨てられたのだと思っているかもしれないが、それは大きな間違いだ。私がお前を親のもとから攫い、お前のいう旦那様の屋敷に捨てた」
 絵描きは告白した。
「きちんと下調べは済んでいたよ。その旦那様は、私が調べた中でも最低で最悪な人間以下の屑だった。その男ならきっと、お前に最悪の地獄を見せてくれると思ったんだ。まぁ、途中で奴の金繰りがうまくいかなかったのは誤算だったな。しかし選択は悪くない。あっさりとお前を殺されても困るし。娼婦として売るなんて、まったく素晴しい選択だよ。ただ娼館選びは間違った。ここは待遇が良すぎる。安心しろ。すぐに私が新しい娼館に移動できるよう取り計らってやる。今度の所は元締めが変態だからな。何をさせられるかわからんぞ。娼婦のほとんどは逃げられないように足の腱を切られてるらしいが、お前の場合は特別に両足を切り落としてくれるように頼んでみようか?」
 ドゥルガは、絵描きから刺すような感情を感じていた。
 怒り、憎悪、悲しみ、殺意、そして歓喜……。
「ああ、ドゥルガ」
 絵描きは歌うように言った。
「覚えていないか? 私を。三百年前、お前に婚約者を殺されて、復讐を誓った画商の息子を」
 絵描きはがたりと立ち上がった。
 ドゥルガは小さく悲鳴を上げてベッドの上を後図去った。
「彼女が死んで、三百年待った。お前の魂が再びこの世に現れるのを。復讐するためだ。お前に復讐する日だけを夢見て三百年を堪えた。ただで殺しはしない。狂うまで絶望を味あわせてやる。ドゥルガ……ドゥルガ女伯爵。クリネード領の魔女」
 クリネード領の魔女。
 処女の生き血で美しさを得た女伯爵は、結局風邪をこじらせて呆気なく逝った。
 実に三百年以上前の話だ。一部の地域では昔話としても語り継がれている。
「……」
 ドゥルガはもう一度キャンバスの上の女に目をやった。
 豪奢な格好をした、残忍で冷酷で美しい笑みを浮かべる女性。
 今にも動き出してくるのではないのかと、ドゥルガは錯覚した。
 これが、クリネードの魔女。
 この絵描きを復讐に駆り立てた女。
「お前に復讐する。そして私の人生は終わる」
 絵描きが言った。絵の女にではない。ドゥルガにだ。
 ドゥルガは悲鳴をあげようとして、喉がはりついているのに気が付いた。ただ喉がひゅうひゅうと音をたてるだけだった。
 あの女は私。
 かつて領民を殺し、自分の美しさにだけ執着した……。

 ああ……。違うわ。
 アージャー。
 あたしはあなたを愛していたのに。

 次の瞬間、ドゥルガは絵描きの足元から筆を一本奪い、その柄を自分の胸に突き刺していた。
 絵描きは冷静にその様子を見つめていた。
 ドゥルガは涙を流していた。
「今更許しを請うつもりか? 魔女よ」
 ドゥルガの胸から鮮血がしたたり落ちる。
 彼女は先ほどまでの彼女とは明らかに違う様子で、目の前の絵描きをみつめていた。
 ドゥルガの赤い唇が喘ぐように動く。
「アージャー……ごめんなさい。あなたをこんなにまで、苦しめて……ごめんなさい」
 その囁きのようなドゥルガの言葉に、絵描きは顔色を変えて叫んだ。
「お前ごときが私の名を呼ぶな! そう呼んでいいのは彼女だけだ! リーナだけだ!!」
 しかしその絵描きの怒鳴り声はもう既にドゥルガには届いていなかった。
 彼女は鮮血に染まったベッドの上で、事切れていた。
 絵描きはいらただしげにくしゃくしゃの髪に手をいれた。
 ドゥルガ。
 あの魔女の魂はかつてと同じ名を持って転生した。
 絵描きにはすぐにわかったのだ。その憎っくき魂が、三百年間憎んできた魂が、この娘の身体に宿っていると。彼女がこの世に生を受けたその瞬間に。
 復讐は遂げたはずだ。
 彼女と同じ目にあわせて、自殺まで追い込んだ。
 けれど絵描きは何故か心が晴れない自分に気付いていた。
 絵描きは何かを探すようにドゥルガの死体に目を走らせた。
 黒い双眸は瞼によって覆われ、いまだ赤さを失わない唇から鮮血が流れている。むき出しの胸から流れた血はベッドの白いシーツを汚し、滴っていた。それはまるで一つの絵画のような、いっそ美しいと言える光景だった。
 絵描きは気が付いた。
 何故、あの女は私の名前を知っていた?

 アージャー。

 三百年間、誰からも呼ばれる事がなく自分でさえ忘れかけていた名を、なぜドゥルガが知っている。あの、クリネードの魔女が。魔女は絵描きが復讐する前に死んだ。だからドゥルガは絵描きの存在自体を知るはずがないのだ。
 リーナから聞いた? いやありえない。ドゥルガはリーナと話したことさえないはずだ。あの女は村からは馬で一日と半分ほど離れた領地で男達に命令を下し、リーナを襲わせたのだから。
 では、なぜ?
 ぞくりと、した。
 心臓がはやがねのように打つ。
 自分がとんでもない間違いを犯してしまったような気がした。
 絵描きは振り向いた。
 そこにはクリネードの魔女がいた。
 白いキャンバスの上で、残酷に笑う魔女。
 それは生きているように見えた。
 黒い艶やかな髪。雪のような肌。アーモンド形の美しい双眸。整った鼻梁。
 女神のようなという、ありきたりの賛辞が似合う女。女神は女神でも、魔的な女神ではあるが……。
 絵描きには、魔女のその目がベッドの上の死体を見ているように感じられた。
 この世のものとは思えないほど美しく残酷なその光景を。
 魔女はその唇を動かして言った。

『かわいそうなリーナ。せっかく生まれ変わったのに』

 そして魔女は、その美しい双眸で絵描きを見てにやりと笑った。




 次の日の朝、いつまでも出てこない二人を不審に思って見に来た元締めが見たのは、鮮血に染まったベッドと一枚の絵だけだった。ドゥルガも絵描きもどこかへ消えていた。
 その絵は 「ドゥルガ」 という題名で、娼館に飾られる事になった。
 それ以後の二人の消息は、誰も知らない。