Lunar Eclipse


 但馬精神病院は街の雑居ビルの中にあった。病院自体決して大きいものではないので、常時勤務しているのは事務員と院長である但馬晃一を合わせた二人だけで、後は忙しい時間に数名のアルバイトがいるくらいだ。そして実際に客を見るのは晃一だけである。
「それじゃあ、今夜ね」
 柔らかい女性の声がしたかと思うと、診察室の扉が開けられた。受付で書類の整理をしていた事務員、笹谷は顔をあげ、診察室から出てきた女性を見た。
 女性の名前は桂木柚恵。たまに病院の方に顔を出す、院長の恋人である。診察室の扉を閉めて振り向いた柚恵に、笹谷は笑いかけた。
「今日はデート?」
 すると柚恵は照れたように微笑む。
「はい」
 柚恵は、同性である笹谷の目から見ても可愛らしい女性であった。パーマがかかってふわふわと揺れる髪の毛は柔らかな雰囲気を醸し出しているし、何より幸せそうな笑顔が見るものをほっとさせる。決して飛びぬけて美人というわけではないが、愛嬌があるのだ。柚恵は笹谷と同じ二十九歳のはずなのに、もっとずっと幼く見える。
「いいわねー桂木さんは。院長みたいなかっこいい男が彼氏でさ」
 笹谷はそう言って口を尖らせると、受付に頬杖をついた。柚恵は肩をすくめた。
「ええ。私もラッキーだと思ってます」
「やだ。のろけられちゃったわ。ごちそうさま」
 二人は目を合わせ、笑い合った。
「あれ? この記事……」
 柚恵が目を止めたのは、受付にあるコルクボートに貼り付けてあった新聞記事だった。一ヶ月前の日付である。
「怪盗? なんですか? これ」
 柚恵は記事の内容を見て笑った。美術館に花火を使った怪盗が現れたという記事だった。怪盗。なんて時代錯誤な響きだろう。ここは中世でなければ、ロンドンでもないというのに。
 しかし笑う柚恵の様子を見て、笹谷は一瞬不安気な表情を浮かべた。そしてすぐにその表情を笑顔で塗りつぶす。ただの事務員であろうとも、彼女はプロなのだ。
「一ヶ月前から貼ってるの。面白いでしょ? 患者さんの心もほぐれるかと思って」
「いいですね。ふうん。こんな記事知らなかったなぁ」
 柚恵は前かがみになってその記事をまじまじと読み、言った。その時、診察室の扉がかちゃりと開いた。
「柚恵」
 院長である晃一である。
 彼は子供を叱るように眉をひそめ、恋人を嗜めた。
「笹谷さんの邪魔をするな。用が終わったのなら早く帰りなさい」
 晃一は、笹谷が評したように一般的な 『かっこいい男』 だった。年は今年で三十四である。この若さで自分の病院を開院しただけでもすごいのに、この容姿ではもてないわけがないだろう。切れ長の目に宿った少し冷たそうな光は、精神を病んだ患者を前にした時別人のように柔らかくなるのだ。
「はーい」
 柚恵はぺろりと舌を出して肩をすくめた。
「それじゃあね、笹谷さん。鬼が怖いからもう行くわ」
「柚恵」
 自分を皮肉った柚恵に、晃一は眉をよせる。
「ええ。それじゃあね」
 笹谷は笑って手を振った。
 柚恵が病院から出て、透明のそのガラスの向こうでエレベーターに乗ったのを見届けてから、笹谷は眉宇をよせ、晃一を見上げた。
「先生。桂木さん、まだ……」
 笹谷の言葉に答えたのは、難しそうな顔をした晃一の沈黙だった。
 柚恵は、もともとこの病院の患者であった。拒食症で通院していたのだが二年前に婚約者でもあった恋人を失い、それが原因で一時期は錯乱状態に陥っていた。そして彼女の担当精神科医であった晃一と付き合い始めたのは一年ほど前である。最近はパニックになる事もないようだが、たまに記憶障害が起こる。一ヶ月前にやった事を、忘れているのだ。まるでそんな出来事はなかったかのようにすっぽりと。
 一ヶ月前、コルクボードにあの新聞記事を貼ったのは柚恵なのだ。
 なんでもこの花火を偶然晃一と一緒に見たとかで、わざわざ切り抜きを持ってきた彼女がコルクボードに貼って行った。患者の心がほぐれるだろうと言ったのは、そもそも柚恵の方だった。
「……自分がふがいない。俺は医者なのに、恋人の心の病一つ治してやれない」
 晃一の珍しい弱音に、笹谷は慌てて言った。
「そんな。先生はよくやってらっしゃいます。桂木さんが錯乱状態だった時に、誰よりも側で彼女を宥めていたのは先生じゃないですか。だから桂木さんも、今みたいに落ち着かれたんですよ」
 晃一と柚恵が付き合い始めたと聞いた時、笹谷はあまり驚かなかった。献身的に治療を続ける晃一と、彼に頼る柚恵はもうすでに恋人同士のように見えたからだ。むしろまだ付き合っていなかったのかと驚いたくらいだった。
 晃一はどこか自嘲気味に笑った。
「ああ……そうだな。君にまで心配をかけていたのでは、精神科医失格だ」
「そんな事ないです。先生は立派ですよ」
 笹谷はそう言って微笑んだのだった。





「ああ、美味しかった!」
 レストランから出て住宅街近くの道を歩き夜風を浴びながら、柚恵は満足気に言った。
 その後ろを、黒コートに身を包んだ晃一が歩く。空は曇っていて、星も月もよく見えなかった。
「私フランス料理ってあんまり好きじゃなかったけど、今日の所は美味しかったわ」
「そりゃよかった」
 晃一はふいに柚恵の横に行き、その肩を強く抱いた。柚恵は少し驚いたように恋人を見上げたが、すぐに嬉しそうに顔をほころばせる。晃一はあまり人前でべたべたするのを好まない。けれどその代わりに、あまり人のいない所ではたまにこんな風に強引になる。柚恵はそれが嬉しかった。
「柚恵、最近はどうだ?」
 晃一は週に一度くらい、こんな風に柚恵に質問をする。それは彼女を担当している精神科医としてであり、彼女を心配する恋人としてのようにも見えた。
「……」
 晃一の質問に、柚恵は突然顔をこわばらせてふいと視線をそらした。
「柚恵?」
「夢を見るの」
 柚恵は言った。ぱっと顔を上げ、不安気な光を目にたたえて真摯な様子で晃一を見上げる。
「夢を見るの。誰かが死ぬの。私の目の前で。大切な人よ。誰よりも大切だと思っていた人。そしてその向こうにも誰かがいるの。あの人を殺した人よ。私の大切な人を。あの人を……」
「柚恵」
 錯乱しかけた彼女を、晃一は抱きしめた。
 両腕で包み込むように強く抱く。そうすると柚恵は少し安心したように力を抜いた。何度こんな風に彼に支えられてきただろう。彼に名前を呼ばれて抱きしめられると、安心する。心から。幸せな夢の中に浸ることができる。柚恵は目を瞑って晃一の胸に頭をあずけた。
「怖かった。あなたが、死んでしまうんじゃないかと思った。だから今日、病院に行かずにはおれなかったの。……ごめんなさい。仕事の邪魔になるから、なるべく病院には来るなと言われてたのに」
「いいよ」
 晃一は言った。
 彼は柚恵をそっと身体から離すと、彼女の肩を強く握ったままその顔を覗き込んだ。
「柚恵。俺は君を呪縛から解き放ちたい。忘れていいんだ、何もかも。俺が君を支えるから」
 柚恵は目頭が熱くなるのを感じた。
 どうしてだろう。
 どうして彼は、こんなにも私を愛してくれるのだろう。
 こんな、不確かな記憶しか持たないような女を。一ヶ月以上前の事が、よく思い出せない。どこに行っただとか、どういう風にデートをしただとか。後遺症だと晃一は言った。昔……大きなショックを受ける出来事があったから、その後遺症だと。だからいいのだと。
 記憶がないのは恐ろしく不安定だ。ここに立っているのは、本当に桂木柚恵という人間なのかどうかわからなくなる。ただ晃一の呼んでくれる名前だけが、自分の存在を規定している。柚恵はたまにそんな錯覚に陥った。自分は晃一に依存している。それは甘い響きを持つ言葉のようであり、柚恵は同時にその事実がひどく恐ろしく感じた。もし晃一を失ったら、自分は一体こんな風に立っていられるのだろうか?
 今の柚恵は、自分を晃一という存在なしでは考えられないようになってしまった。どうしてこんな自分になってしまったのだろう。晃一に出会ってなかったら、こんなに弱い女にはならなかったのだろうか。それとも記憶障害がなかったら? こんな後遺症を残す、 『大きなショックを受ける出来事』 がなかったら……?
 その時、柚恵は、ふと気が付いた。
 『大きなショックを受ける出来事』とは、一体なんだっただろうか? 柚恵は愕然とした。その恐らく重要な記憶でさえ、今の彼女には霧がかかったかのように思い出せなかった。
「晃一」
 柚恵はすがるように晃一に抱きついた。
「怖い。怖いの」
 いつか自分は全て忘れてしまうのではないだろうか。家族の事も。晃一の事も。自分の事でさえ……。
 怖い。恐ろしい。
 私は、一体どうしたというのだろう。
「柚恵。大丈夫だ。大丈夫だから」
 晃一は繰り返すようにそう言って、優しく柚恵の身体に腕を回して、包み込むように彼女を抱きしめた。
 一つだけ。一つだけ、柚恵が鮮明に覚えている事があった。晃一の腕の中で、柚恵はそれを思い出して少し心を落ち着けた
 今の今まで不安気に身体を強張らせていた恋人の身体が少し力を抜いたのを感じて、晃一は怪訝そうに呼びかけた。
「柚恵?」
「覚えてる?」
 柚恵は顔を離すと、晃一を見上げて笑った。
「初めて会った時の事よ。その頃私、もう食べ物なんか本当に見るのもいやで、夜の夕飯の時間になると、いつも家を抜け出してたの。そして一人でね、こんな風に夜道を歩いてたわ」
 病院で拒食症って病名が付けられてから、食べなきゃって思う反面、もっと食べられなくなっていっていた時期だった。匂いを嗅ぐだけで吐く時さえあったのだ。
「そしたらね、道の途中の自動販売機の前で、途方にくれてる人がいたの。アタリが出たのね。陽気な音楽を鳴らす自動販売機の前で、あなた、コーヒーの缶を二つもって途方にくれてたわ。どうしたんだろうって思いながら通り過ぎようとしたら、あなたが話しかけてきたの」
『あの、コーヒー飲みませんか?』
 新手のナンパかと思った。そう言って柚恵はまた笑った。
「あなた、コーヒー嫌いなのに会社の飲み会の帰りで、少し酔っ払っちゃってて、お茶と間違えてコーヒーを押しちゃって、しかもアタリで二本! すごく困った顔してたわ。私、おかしくて笑っちゃったもの」
 そこまで話して、そういえば、と柚恵は首を傾げた。
「あれ? そういえばあなた、さっきのレストランでコーヒー飲んでたわね。いつのまに平気になったの? あんなに嫌いだったの……」
 柚恵は突然、心臓が警鐘を鳴らすのを聞いた。
 おかしい。
 これが、晃一との出会いのはずがない。
 だって、 『彼』 は、会社帰りだったのだ。スーツを着ていた。晃一は一度もサラリーマンだった事はない。違う。 『彼』 は晃一じゃない。だって晃一は、病院の先生だったのだ。私を拒食症だと診断した先生。
 おかしい。
 だって、 『彼』 が晃一じゃないのなら、一体誰なのだ。
 覚えてる。あの夜、一緒にコーヒーを飲んでから、私は毎夜 『彼』 とあの自動販売機の前で会うようになった。半年くらいそれが続いてから告白されて、付き合うようになった。覚えてる。 『彼』 は、お世辞にもかっこいいとは言えなくて、けれど見るからに人の良さそうなひとだった。笑顔が優しくて、包み込むように優しく抱きしめてくれるひとだった。
 『彼』 は……。
 私の大切なひとだった。そうだ。誰よりも、愛していた。
 どうして忘れていたんだろう。
 どうして。
 ふと、晃一の肩越しに空が見えた。
 さっきまで空を覆っていた雲はいつのまにか晴れていて、目の覚めるような満月がぽっかりと浮かんでいた。
 赤い。
 赤い月だ。
 月蝕の夜。
 そうだ。あの日もこんな赤い月の夜だった。
 彼とのデートの帰りだった。公園で、キスをして、抱きしめあっていた。突然現れた男が、ナイフで彼を刺した。私の白いコートに彼の血がべっとりとつき、彼は血まみれの身体で私に逃げろと言った。私は嫌だと言った。あなたを置いてなんて逃げられない。死んではいや。死んではいや。死んではいや。
 男は……彼を刺した男は、私の腕を掴んだ。
 知っている男だった。
 あの赤い月のように、狂気をその目に宿した男。
『……柚恵。忘れていいんだ』
 次の瞬間、柚恵は晃一の腕を振り解き、後ろに下がろうとした。しかしそれよりも晃一の方がはやかった。男の大きな手に視界を覆われ、柚恵はその耳元で誘うよな甘い声を聞いた。
「柚恵。柚恵。目を瞑って。そう。落ち着いて。眠ってはだめだ。ただ目を瞑るんだ。そう。いい子だ。落ち着いて。何も怖い事はない。俺は君の味方だ」
 それは呪文のように柚恵の脳に浸透し、やがて柚恵は意識がぼんやりとしていくのを感じた。
 薄れていく。何か、大切なものが。
「柚恵。いいか? 忘れるんだ。全て。思い出したくないものは思い出さなくてもいい。閉まっておくんだ。もう二度と取り出せないように」
 精神治療の一つとして催眠療法というものがある。柚恵も拒食症の治療として晃一に催眠療法を受けるかどうか聞かれたが、なんだか気持ち悪いので断った。
 今晃一が行っているのは、まさにそれだった。ただし本当の治療の場合は過去のトラウマに立ち向かわせるものだが、晃一は柚恵の記憶を奥に仕舞い込んでしまった。やがて柚恵はまるで人形のように全身の力を抜きぐったりとなった。晃一はそんな彼女を軽々と抱き上げ、目を瞑り眠る彼女を愛しげに見つめた。
 ふと、空を見上げる。
 赤い月。
 満月。
 あの月蝕の夜。
 婚約者でもあった恋人の死に直面し、錯乱した柚恵に、晃一は催眠をかけた。死んだ男は通り魔に襲われ、晃一は偶然そこに通りかかり、かろうじて柚恵だけを助ける事ができた。それがシナリオだ。作られた記憶のもと不安定な精神状態にあった柚恵は晃一の治療を受け、いつしか恋人同士になった。けれど晃一の催眠術は完全ではなかったのだ。いや、柚恵の憎悪が強かったというべきか。彼女は思い出した。満月になるたびに、その記憶を甦らせ、その度に晃一への憎悪を募らせた。自分の恋人殺した男への憎しみを。そしてその度、晃一は彼女に催眠術をかけた。忘れるように。憎悪を。婚約者を。全てを。
 晃一はもう一度柚恵を見た。彼女の目を覆う一瞬、その怒りと憎しみに燃えた双眸が見えた。
 一ヶ月前も、この視線を向けられた。彼女は記憶を取り戻し、晃一の腕を振り払った。だから記憶を消した。完全に消去するのではない。丁寧に、柚恵の記憶をその引き出しの奥に閉まっておくのだ。そうするだけで、彼女の過去は霧がかかったかのようになる。
「柚恵」
 晃一は彼女の名を呼んだ。
「柚恵」
 まるで神聖な女神の名を呼ぶように。
「柚恵」
 一体、いつから愛していたのか。今ではもうわからない。
 ずっと手に入れたかった。
 ずっと抱きしめたかった。
 婚約者を殺された憎悪に囚われた彼女。精神科医の自分が救ってやらなければいけないと、晃一は思っていた。そうしていつか、憎悪も何もないただ愛だけがある生活がやってくればいい。
 彼女が自分を愛し、自分も彼女を愛している生活が。
「柚恵」
 狂気だとわかっている。
 自分はもう狂っているのだと。
 いつからだろう。
 あの男を殺した時から? 柚恵に催眠をかけた時から?
 いや、きっと初めて彼女に会った時から彼は狂っていたのだ。
「柚恵」

 それは彼が求める、月の名前。