光のゆりかご


 イーニアス=イブ=ティウディメルが慣れた手つきでサインをして玉璽を押した時、室内には万感のこもったため息が漏れて「よっしゃあ!」とセディア=リリックが声をあげた。
 魔術師協会の長としてはいささか不適切な歓声と言えたが、彼女はそれにはとどまらず椅子に座る帝王イーニアスを抱きしめさえしたのだった。
「まったく、あんたは本当に大した男だよ! 玉座に座ってたった十年で、こんなことをしてのけるんだから!」
 自分の祖母ほどの年齢の女性にぎゅうぎゅうと抱きしめられても顔色ひとつ変えなかった帝国の王は、そっと彼女の腕から逃れて椅子から立ち上がった。
 すらりと伸びた背は、とうの昔にセディアの頭を越している。切れ長の青い双眸は深みを増し、男らしく骨ばった顎や首元に子供らしさは残っていない。美少年は、セディア好みの見事な美青年に成長したと言っていいだろう。
「これで晴れて、魔術師協会は帝国からほぼ完全に独立したことになる。おめでとう」
 イーニアスに差し出された手を、セディアがにかりと笑って握り返す。最近シワが増えて張りの無くなってきたセディアの手と違って、今年で二十二歳になる帝国の王のそれにはシミひとつない。
 かつてたった十一歳という年齢で即位した帝国の王に対して、その若さを理由に不審を抱く者はもうどこにもいなかった。イーニアスの祖父であり、威厳ある王と呼ばれたアーデルベルト=ヴェル=ティウディメルをもしのぐ王になるだろうと、誰もが彼を噂している。
 今回イーニアスが調印した新たな法令によって、魔術師協会は帝国の支配下にはなくなった。
 これまで、協会に所属する魔術師は例外なく帝国の人的財産とされ、ニスニアロフの外での活動に関しては帝国の許可が必要だったのだがその文言が撤廃されたのだ。つまり、魔術師協会単体で他国と契約を結んだり、魔術師が協会に所属しながら帝国以外の土地に移住することが可能になったのである。
「これから苦労するぞ」
 手を離すと、イーニアスは笑って言った。その表情がこれまでになく浮き足立ったものに見えて、セディアはこの新たな法令がイーニアスの目指していたものの一つなのだと思った。
「今までは帝国が他国との窓口になっていた。緩衝材がなくなれば、衝突は増えるだろう」
「覚悟の上よ。この十年で、準備は進めてきたもの。あとはそうね……外務省の特別顧問をうちに引き抜くことができれば安泰なんだけど」
 にやりと笑ったのはセディアであった。
「あの子、これから暇になるわよね?」
 セディアの言う『外務省の特別顧問』は、主に帝国と魔術師協会の連絡役を担っていた。協会が帝国からの干渉を受けなくなるとすれば、今後の彼女の仕事は激減するはずだ。
「暇? まさか」
 しかしイーニアスはあくまで冷静さを崩さずに首を振った。
「あれに暇なんてできるわけがないだろう」
 その言葉に、同じ室内にいた帝国の重鎮達がそれぞれ表情を変えたことにセディアは気づく。重鎮達とはつまり、帝国の議会を担う五人の公爵である。
 特にボリバル公爵が眉間の皺を深くして、サヒス公爵が小さくため息をついた。バルドゥイーン公はどこか諦めたような表情をしていて、最年長のメルクヘン公はにこにことご機嫌だ。恰幅の良いヴェルヘム公は面白がるような顔をしている。
 この十年間で既知の間柄となった彼らのこの表情から導き出される結論を、セディアはまさかと疑った。
「……嘘でしょ?」
 だって、セディアは彼女から何も聞いていない。
「これはまだ極秘事項だがな……」
 馬鹿な。ああでもそれなら、この非情で冷酷で腹が立つくらい生意気な王の浮かれた顔も納得できる。
「昨晩、あれは僕の求婚を受けた」
「まさか!」
 セディアは思わず悲鳴のような声を上げた。
「結婚式にはあれの友人としてリリック殿にも参列していただくつもりだ。招待状を送るから、楽しみにしていてくれ。では、僕はこれで失礼する」
「ちょちょちょちょちょっと待って!」
 今さら不敬罪など気にならないセディア=リリックは、式典室を去ろうとした帝国の王の腕を掴んで止めた。
「あ、あの子に会って帰りたいんだけど」
 もちろん、真実を確認するためだ。
 しかしイーニアス=イブ=ティウディメルはにっこりと微笑むと、その場に重たい沈黙をもたらす爆弾を落としたのだった。
「残念だが、遠慮してくれ。あれはまだ僕の寝室で寝ているだろうからな」


「誰があんたの寝室で昼まで寝てるって!?」
 帝国広しといえども、帝王の執務室に殴り込みをかけられる人物はかつての帝国の魔術師、ヴィシック=ボリバルを除いて存在しないに違いなかった。
 彼女が護衛の騎士もドン引く形相で現れイーニアスの執務室をバンと乱暴に押し開いた時、その部屋の主人である王イーニアスは肘掛に頬杖をついて書類を読んでいるところであった。
「ちょっと待ってろ」
 眼鏡をかけたイーニアスは、書類から視線をちらりと外すこともせずに言ったが、ヴィシックは問答無用で彼に歩み寄るとその書類を取り上げた。
「なんであんな公的な場でそんなデマ流すのよ!」
 イーニアスは少し眉を寄せてヴィシックを見上げた。
「なんの話だ」
「あのね! あれは新しい法令の正式な調印式の場だったわけ! 書記官があの場で語られたことは全部記録してるのよ!」
「僕とお前の甘い閨での生活が後世にまで残るのもやぶさかではない」
「私は昨日自分の部屋で寝ましたから! 甘い閨での生活なんてありませんから! 全部あんたの妄想ですから!」
「そうだったかな?」
 イーニアスはそう言いながら眼鏡を外すと、がたりと椅子から立ち上がって机を回り込んでヴィシックの側に立った。そして極めて自然な動作で腕を伸ばし、ヴィシック=ボリバルを腕の中におさめる。
 深い青の瞳が間近にあった。
 いつの間にか、ヴィシックはイーニアスの腕の中にすっぽりとおさまるようになってしまった。それだけ彼が大人になったということだ。声は低くなり、服の上からでもその下に硬い筋肉があるのがわかる。
 末恐ろしいとばかり思っていた子供は、見事ヴィシックの予想以上に恐ろしい男に成長してしまった。
「それなら昨日僕がこの耳に手を這わせたのも幻か? 唇を味わったのは? お前が息継ぎの間に僕の妻になると懇願するように……」
「やーめーてー!!」
 ヴィシックは半泣きでイーニアスの口を塞がなくてはならなかった。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。
(ああああもう! 昨日の私はどう考えてもおかしかったのよ!)
 雰囲気に飲まれてしまった。だからあんな醜態を……。
「っ!」
 彼女は目を白黒させた。突然両腕を掴まれ、唇を塞がれたからだ。
 今さら、キスなどで騒ぎ立てたりするような彼女ではない。ヴィシックは、外見こそまだ二十代後半であるが実際はもう半世紀以上の年月を生きている。イーニアスの側にいたこの十年間で、彼に唇を奪われたことだって一度や二度では……いや片手、両手でも足りないかも。ええいつまり、『今さら』なのだ。今さらこんなキスに思考を乱されることなど断じて……ない! はず……。
「……っ! ……!」
 がっちりと頭を固められ、息ができずに思わず振りかぶった平手をもぱしりと掴まれ阻まれたヴィシックは、ようやく解放された唇をわなわなと震わせてイーニアスを睨みつけた。顔が熱いのは怒っているせいだ。心臓がドキドキとうるさいのは掴まれた手が痛いから。
「僕が語った妄想を今すぐ現実にするとしようか」
 イーニアスは意地悪く笑う。
(ああ、信じられない)
 どうしてこんなことになってしまったのか。
 初めて彼と出会った時、こんな未来は想像していなかった。あの、シスの花咲く庭で。

『お前はだれだ』
『私はあなたのお友達になりにきたの』

「……やっと、僕のものだ」
 一瞬不穏な雰囲気を宿したイーニアスが一転してヴィシックを抱きしめため息をつくようにそう言った時、それを否定する言葉を彼女は持ち合わせていなかった。
「……」
 だから変わりに両手をゆっくりと男の背に回し、諦めるように息を吐いて、口元に笑みを浮かべたのだ。この胸の内に確かに存在する幸福感をもう無視できなかった。
 先ほどの口づけからは想像できないような優しい温もりに、ヴィシックは光のゆりかごの中にいるような心地がして目を瞑った。