0.誕生の夜

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 豪勢な顔ぶれである。
 傭兵団《夜の剣》。その幹部と言える面々が、天幕の中の淡い蝋燭の光に照らされていた。団長用のその天幕は五人分の広さがあるのだが、大の男どもが十人近くもひしめきあっていれば、それは暑苦しくもなるというものだ。男達は額や首筋に汗を浮かばせながらも、いつになく真剣な面持ちで顔をつき合わせている。
 夜なので外は静かだ。奇妙なほど。いつもなら、多少は傭兵達が談笑する声などが聞こえてくるものなのだが、今はしんと静まり返っている。
 その静寂を破ったのは、老人のしわがれた声だった。
「儂は、サランというのがよいと思うのだが」
 老人の名前はグラベス。傭兵達に博士の愛称で親しまれる彼は、団員への薬の調合や治療を専門とする非戦闘要員である。皺だらけの顔の中にも、まだ光を失わない少年のような双眸がきらりと光る。
「それは?」
 胡坐をかき上座に座った団長ウィン=ダーは、鋭くグラベスを見て、短く先を促した。
 ウィン=ダーは筋肉質だが普段表情が柔らかく、とても百人近い傭兵団をまとめる男には見えない。短く刈られたアカガネ色の髪に灰色の双眸。今年で三十二になる彼は、剣を振るうよりも畑を耕している方がお似合いに見える。しかし現在の、射るようなまなざしの彼は、百人の傭兵達をまとめるだけの威厳を漂わせていた。
「古代の戦神の名よ」
 自分の子供のような年齢の団長に、グラベスはひひっと笑った。このひきつるような笑いは彼の癖だ。
「我らを守護してくださる」
 戦神サラン。
 それは戦いの中に生きる者達の護りであり光であり喜びだ。彼女は古い、因習の中で息づいている。
 何人かの男たちが感慨深げに頷いたが、金髪の青年ハンス=バリは顔をしかめた。
「戦神というのはどうですかね?」
 天幕の中の視線が彼に集中する。
 ハンスは、このムサい男達の集団の中で、はっとさせられるような美貌の持ち主であった。さらさらの金髪に甘いマスクは、街へいけば女性達を虜にする。傭兵の中には彼の美しさに胸をときめかせる男もいるようだが、ハンス自身の戦闘能力の高さと、彼の同性愛者へのあからさまな嫌悪が男達にその思慕を胸に収めさせていた。
 ハンスは続けた。
「博士はあれの寝顔をごらんになりましたか?天使のような、とはあの子のことだ。誰が戦神を見て思わず顔をほころばせましょうか」
 彼のその言葉に、何人かの男は、なるほどそれも一理あると同意を示した。
 グラベスはむっとして顎をしゃくる。
「ではハンスの坊やの意見とやらを聞いてみようかね」
 男女見境なく魅力をふりまくハンスも、この老人にかかってはただの坊やだ。ハンスの眉がぴくりと動き、二人はばちりと視線を交錯させた。
「誰が坊やだって?」
「お前じゃよ。ついこないだオツムがとれたような青二才が」
 グラベスはふふんと笑った。しかしハンスも動じない。
「二十年以上前の事をついこのあいだと言うあたり、博士が老いた事を感じさせるね。おいたわしいかぎりだ」
 ぴりり。
 幕内の空気が緊張する。
 この二人の仲の悪さは、団員全員が承知する所である。会えば皮肉を言いあっている。ある意味、仲がよいとも言えるかもしれない。しかし今はそんな事を言っている場合ではなかった。
「ハンス、グラベス。喧嘩は後でやれ」
 短く、ウィン=ダーが言った。
 この場で二人を諌めることができるのはやはり団長たるウィン=ダーだけだ。
 二人はふんと鼻をならし、ぷいと顔をそらせた。子供のようである。幕内の他の団員達は、ほっと安堵のため息をついた。以前会議中にこの二人が口論になり、取っ組み合いの喧嘩になった事もあるのだ。その時はやはり会議にならず、二人は罰として団員全員の武器の刃研ぎを命令された。あれはきつかった。
「おれはセルマというのがいいと思う」
 気を取り直し、ハンスが言った。
「皆も知っているだろう?人々を魅了した伝説の美女の名だ。あれはきっと、伝説をも越える美人に成長するだろうさ。見ただろう?あの黒宝珠のような瞳。吸い込まれそうだった」
 傾国の美女と歌われたセルマ。人とは思えない美しさを持ったかの女性の名前は、大陸を越えて広がっている。美人に育ってほしいという願いを込めて、娘にセルマという名をつける親も後をたたないという。
 一部の男達はうんうん、と頷いた。
 しかし今度は団長ウィン=ダーが口を挟んだ。
「ハンス、その美女は確か王さえも骨抜きにして国が乱れ、魔女と呼ばれて処刑されたのではなかったか?」
 傾国の美女とはまさに、国さえも傾けてしまうほどの美女の事である。
 そういえばそうだったと、また別の男達が頷いた。魔女とは、天使にはあまりに似合わぬ名ではあるまいか。
 会議は一向に進む様子を見せなかった。
 なにせこの傭兵団が創設されて以来の大事件である。重要決定事項である。幹部達は次々と意見を出したが、どれもいま一つ。
 例えば《ソフィー》。これは夫である王と轡を並べた女傑の名であるが、やはり戦神と同じく天使には勇ましすぎるな名であると言えよう。
 あるいは《マーリ》。孤児院たちの母と呼ばれた慈愛の女性の名前だ。しかし《マーリ》という言葉は古代の言葉で〈穴、闇〉を表わす。それではあの太陽のような笑顔には似合わない。
 さて、男達の意見も出し尽くされ、彼らの口数も少なくなってきた時、巨体のマーリン=シャルナが口を開いた。
「……《イーニャ》、というのはどうだろう?」
 これには皆驚いた。
 そもそもその巨体に似合わぬ可愛らしい名前を持つこの先駆け隊長は、怪力だが寡黙、優しいのだが無口な男である。無骨なのだ。また、彼にはウィン=ダーの決めた事には盲目的に従うという一面もあった。だから色んな意見の錯綜する会議中一言も発さず、また他の男達もそれを少しも不思議と思わなかった。
 しかも、《イーニャ》とはあまり聞き慣れない響きである。
 ウィン=ダーが聞いた。
「その意味は?」
 マーリンは軽く頷き、いささか聴き取りにくいほどの低い声で答えた。
「フォルシスが言っていた。あの娘は、月のようだと。俺の村の言葉だ。俺達の、〈月〉」
 月。
 夜闇を照らす光。
 男達は何も言わなかった。
 そして会議は解散された。
 夜に生まれた、団長ウィン=ダーとその妻カデルの娘の名は、イーニャに決まった。
 眠る赤ん坊を起こさぬように静まり返った月光の下の野営地に、その名前は静かに伝えられたのだった。


「イーニャ、素敵な名前ね」
 そう微笑んだのは、ふかふかの敷物の上に横になるウィン=ダーの妻、カデルである
 彼女は元々病弱で、無理な出産によりその頬は見ていて痛々しくなるほどに痩せこけていた。しかし彼女からは病人の陰気さは見られない。同じ幕の中で座る少年フォルシスがぎこちなく抱いている赤ん坊を見る彼女は、優しい母であり、この世で最高の喜びを手にした女性でしかなかった。
 生まれたばかりの赤ん坊を胸に抱き、フォルシスは感嘆のため息をついた。暖かい。生きているのだ。この子は、この世に生まれ出た命なのだ。自分もこんな風に生まれたのかと思うと、胸が熱くなった。
 顔を上げて、カデルを見る。
「カデル、僕達の月だよ」
 彼は、自分の一言が、この赤ん坊の名前に採用されたのが嬉しくてしかたがなかった。この赤ん坊の名前を自分が決めたのだということが、誇らしかった。
 嬉しさに目を輝かせ頬を紅潮させた少年の様子に、カデルはふわりと笑みを見せた。彼女の赤い髪が揺れて、さらりと薄い肩を流れる。
「僕達の月だ」
 少年は胸を張って言った。
 カデルは、嬉しさに涙が溢れるのを止められなかった。



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