4.身体を包むぬくもり

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 いくら厳かさを装うとも、結局最後には宴会になるのである。彼らは花嫁を囲みひとしきり祝いの言葉を述べ、花婿を袋叩きにするとすぐに酒を並べ飲みあった。そして宴会も中盤にさしかかり、月が頭上に昇ってきた頃、野営地は不思議なほど静まり返っていた。
 その静寂の中を、細く伸びるアルトが流れている。それは昔、ウィン=ダーの妻、彼らの太陽とも呼ぶべき女性が歌っていた歌。カデルが、その娘に歌って聞かせた歌だった。
 子守歌だ。


 月のお舟で
 星のうみをいこう
 月の光でつくった櫂をもって
 ミルクを腰にさげて

 遠く広がる
 世界を見に行こう
 真白なノートをもって
 えんぴつを胸にさして

 さみしくなったら
 下をみて
 星のような町の明かり
 月の寝息のような木々のささやき

 わかるでしょう
 きこえるでしょう

 そうしたらまた
 前をみて
 お舟を漕ごう
 先をすすもう


 傭兵達はあるいは目を瞑り、あるいは目頭をおさえながらその歌を聴いた。心地よい高さのフォルシスの声は、野営地によく響いた。
 イーニャはその歌を覚えていた。
 寝る前に母が歌ってくれるのは、いつもこの歌だったのだ。そして彼女が死んでからは、この歌を歌うのはウィン=ダーやフォルシスの役目となった。彼らは母を恋しがり泣くイーニャに歌った。
 さみしくても気が付いて、と。
 皆すぐ側にいるから、と。
 歌っていたのだ。
 思えば、カデルが死んで、幼い娘一人残されて、男たちは困惑していたのかもしれない。
 岩の上で膝を抱いて座りながらそう思って、イーニャは忍び笑いをもらした。
 彼女を泣き止ませるために、男たちは交互に彼女を抱き上げ、変な顔をし、色々な歌を歌ったに違いない。あの屈強な男たちがだ。その光景を想像すると、イーニャはおかしくてたまらなかった。同時にとても幸せだと感じた。
「何笑ってんの?」
 いつの間に歌い終わったのか、隣にフォルシスが立って彼女を覗き込んでいた。
「フォル、私ってばものすごい幸せものだと思わない?」
「ん? そうだね。こんな素敵な旦那様がいるんだもんね」
 そう言いながら、フォルシスはイーニャの左隣に座る。そして彼女の左手を取った。飾り気のないただのリングはイーニャに似合っている。
「鎖の代わりだ」
 フォルシスの言葉に、イーニャはびくりとした。
「……え?」
 聞き返す。
 まさか、鎖を失くしていた事を気付かれていたとは思わなかった。だってもし気付いていたら、フォルシスはその時点で何か言うと思ったからだ。気付かれていないのなら、それでいいと思っていた。探しに行くのならいつでもいけるのだから。
 どこか怯えたような彼女に、フォルシスは申し訳なさそうに笑って見せた。
「ほら、水場で溺れた時に失くしたでしょ?気付かなかった?ごめんね、深い所に落ちちゃったみたいで、見つからなかったんだ」
 水場で失くした。
 そこ言葉に、イーニャはどこかほっとした。
 そうか。やっぱり水場で失くしたのだ。
「ううん。いいの。ごめんねわざわざ。探しに行ってくれたのね」
 言うと、フォルシスは笑っていいのだと答えた。
「イーニャ、フォルシス!」
 突然後ろから抱きつかれ、二人は岩から落ちかけた。抱きついてきたのはハンス=バリだった。酒臭い。
 彼は快活に笑ってみせた。
「トールの野郎、つぶれんの早いんだもんな。あいつの薀蓄を防ぐのは酒にかぎるぜ」
 頬を紅潮させてハンスに、イーニャは呆れたような視線を向ける。
「一体どれだけ飲ませたの?」
「三杯。でもお前の親父はほんとに酒強いなありゃ。いくら一気させてもつぶれやしねぇ」
「ちょっと、いい加減にしておきなさいよ。明日の朝援軍が来ても、二日酔いで出発できませんなんて事になったら目もあてられないわ」
「わーってるって。はは、お前も一人前の口きくようになったじゃねぇかイーニャ」
「坊! こらハンス! 新婚の邪魔をするでないぞ!」
 向こうからグラベスが走ってきた。
 下戸であるグラベスはこういう時男たちの酒をセーブする役目にあるのだが、どうやらハンスの酒はセーブしきれなかったらしい。ハンスは無類の酒好きだ。
「おー、博士! ご老体がそんなに走ったら転んで頭打っちまうぜ?」
「やかましいわ!」
 にやにや笑いながら嫌味を言う美男に、博士が容赦なく蹴りつける。その蹴りは見事に男の弁慶にヒットして、男は声にならない悲鳴をあげてその場に蹲った。
「博士、ウィン=ダー達は?」
 フォルシスが聞く。
「ん? おお、奴ならあちらでマーリンとちびちび一緒に飲んでおるぞ」
 その様子が容易に想像できて、フォルシスとイーニャは笑った。無口なマーリンと口下手だと自称するウィン=ダーの二人が向かい合って飲む席は、ほとんどが沈黙に占領される。それが二人にとって一番居心地のいい酒の席である事は、傭兵団の皆が承知する所である。
「どこにいるの?」
 イーニャは父達を探そうと振り向いた。
 目に飛び込んで来たのは、淡い光で夜闇を照らす空の圧倒的なもの。月だ。
 知らなかった。今日は、満月だったのだ。
 きれいなきれいな月。欠ける所のないまあるい月。
 大きい。月とは、一体こんなに大きなものだったろうか。
 心の中で警鐘が鳴る。
 だめだ。見てはいけない。
 けれどだめだ。目は逸らせない。まるで魅入られたように。
 《おかしい》
 だめ。考えてはだめ。
 《おかしい。今日は、満月ではないはず》
 やめて。お願い、考えないで。
 《今日が満月のはずない。だって》
 お願い。お願い。お願い。忘れて……。
 《【あの時】、月はまだ欠けていたのだ》
 フラッシュバック。
 怒号。
 叫び。
 血。
 横たわる身体。
 ひとを殺す前の残酷な笑み。
 走った灼熱。
 声。
 血で光る銀の鎖。
 最後に見たのは、欠けた月。
 ああ、明日は満月になるだろうと、思った。
『夢?どんな夢?』
 夢じゃないわ。夢じゃないの、あれは。
 だって、あの痛みは、夢ではありえないもの。
『助けにいけなくてすまない』
 謝らないで。あなたが謝ることじゃないわ。そうでしょう?
『幸せになれよ』
 やめて。そんな言葉、聞きたくない。抱きしめて、そんなこと言うなんて、だって、もう会えないみたいじゃない。
 ああ、やめて。
 聞きたくない。
 聞きたくないの。
 そんなの嘘よ。
 あんなの嘘よ。
 全部嘘よ。そう言って。
 そうしたら信じるから、だから……。

「イーニャ!」
 は、と息をした。
 長いこと呼吸を止めていたように肩が上下して、汗が気持ち悪かった。
 彼女を膝に抱いたフォルシスが、濡らしたハンカチで顔を拭いてくれた。気持ちよさに目を瞑り、身じろぎすると自分が岩の上でなく、地面の上に寝ている事に気が付いた。転がり落ちたのかもしれない。どこも痛くないのは、おそらくフォルシスか誰かがかばってくれたのだ。
 傭兵達が、心配そうに彼女を覗きこんでいた。それがおかしくて笑う。まるで致命傷を負ったけが人を見るような目ではないか。自分はどこにも怪我をしていないと言うのに……。
 そう、【あの夜】、斬りつけられたはずの右腰から右胸にかけてと左腕には痛みも傷もない。
 けれど感覚は残っていた。
 横たわる仲間を見た時の不安、焦燥。
 刃が自らの身体を切り裂いた時の、灼熱、異物感。
 グラベスに向けられた笑みへの怒り、憎悪。
 嘘じゃないとそれが言う。
 嘘ではないのだと。
 あれは。あの嘘のような夜は。
「現実……」
 ではこれはなんだろう。
 身体に傷はなく、誰一人欠ける事なく自分を囲む仲間達。
 結婚式だったのだ。
 自分の身体を見下ろしてみても、彼女は確かに白いドレスを身に着けていた。
 これは夢なのだろうか。
 自分に都合のいい、幻なのだろうか。
 これは。
「夢じゃない」
 言った声はハンスだった。
「夢じゃないよイーニャ」
 彼はとても優しい顔をしていた。娘を見る、優しい顔。慈しむような。
「儂らはいる。ここにいるのじゃ」
 グラベスも微笑んでいる。皺が深い。ああ、彼は今年でいくつだったろうか。
「お前は危なっかしいからな、一人にはできん」
 渋面でマーリンが言った。ひどいわ、と笑おうとした。けれどできなくて、口から漏れたのはかすれた吐息だけだった。
「イー」
 ウィン=ダーが、その指の背で優しくイーニャの頬を撫でた。感触がした。たしかに、彼の指の感触がしたのだ。拭われた涙。イーニャは、いつの間にか泣いていた。
 彼は困ったように微笑んでいた。
「泣く事はないよ。お前を置いていったとあっては、カデルに怒られるからな」
 パパ。
 喘ぐように口を開いた時、イーニャは後ろからふわりと抱きしめられていた。
 フォルシス。
「誓ったよね、さっき。君を愛して、この世界が壊れるまで、ずっと、君の側にいると」
 結婚の誓いだ。
 ああ、ついさっきの事だ。
「傭兵は誓いを破らない。側にいるよ。僕だけじゃない。ウィン=ダーもハンスも博士もマーリンも皆、君の側にずっといる。だから、怖がる事はないんだ。泣く事はないんだよ。その目に僕らが見えなくても、僕らは君の側にいる。こんな風に君は感じる事ができるんだ」
 暖かい。
 今、自分は抱きしめられている。そう感じた。
 目を瞑る。
 誰かが頬に触れて優しく撫でてくれる。
 つ、と涙が流れた。
「……う……」
 イーニャはあふれ出す涙を止められなかった。
 悲しくて。
 とても、悲しくて。
 蹲って泣く彼女を包むのは、優して暖かく大きい大切な家族達の腕だった。




 さみしくなったら
 下をみて
 星のような町の明かり
 月の寝息のような木々のささやき

 わかるでしょう
 きこえるでしょう



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