2.目覚めれば


 イーニャはがばりと起き上がった。
 肩で息をする。まるで百メートルを一気に走った後のように全身が汗に濡れ、心臓が早鐘のように鳴っていた。無意識に両手を心臓にあてる。
 剣を振るった時の、肉を切る生々しい感触がまだ残っている。自分の頬が涙で濡れているのがわかった。
 あれは。
 現実?
 怒号と、叫びと、血と。
 ああ、夢であれば。
「あ、起きた?」
 のん気な声に、びっくりして顔を上げた。
 そこには眼鏡をかけたフォルシスがいた。フォルシスは近眼だ。本を読む時などは眼鏡をかける。彼は眼鏡を取り、手に持っていた本を閉じると傍らに置いた。
 その時になって、イーニャはやっと周囲に目をやった。
 そこは木陰だった。草原の中に立つ、一本の大樹。フォルシスはその幹によっかかっていた。太陽は中天より傾いている。目と鼻の先に野営地が見えた。大きな岩が多くある中に隠れるようにして天幕がはられている。
 フォルシスが笑った。
「覚えてる? イーは溺れたんだよ」
「……溺れた?」
 先ほどまで見ていた地獄のような情景とは似ても似つかない光景に、イーニャは呆然として繰り返した。すぐ間近にある恋人の顔を見上げる。どうやら彼女は、彼の膝枕で寝ていたようだ。
「そ。水場がね、いきなり深くなってる所があってさ。そういえばイーニャ海とか見たことないもんねぇ。泳げなくて当然か」
 今度僕が泳ぎを教えてあげるね。そう言ってフォルシスは頬に張り付いたイーニャの髪を取った。
 溺れた?
 では濡れてるのは汗じゃなくて、水なのだろうか。
 じゃあ、今のは、夢?
 心の中で言ったつもりだったけれど、口に出ていたらしい、フォルシスが不思議そうに首を傾げた。
「夢? どんな夢?」
 どんな夢?
 ああ、嘘のような夢だった。そう、嘘のような夢。
 だって、あんなに多くの仲間が、横たわってて。ぴくりとも動かなくて。
 血が。視界を占めて。
 混乱。
 おじいちゃまが。
「……おじいちゃま」
 ぽつりと言ってから、イーニャは、自分の目からぽたぽたと涙が出ているのに気が付いた。
「え、い、イーニャ? どうしたの?」
 フォルシスが慌てる。そりゃそうだろう。小さい頃はいざしらず、ここの所彼女が涙を見せる事は滅多になかった。イーニャは、フォルシスのおずおずとした腕に抱きしめられた。彼はこういう時に不器用な一面を見せる。
「大丈夫、もう怖くないよ。博士ならハンスに薬を調合してる。ほら、あの岩の上。見えるでしょ?」
 子供をあやすように、背中を撫でられた。
 言われて見てみると、確かに子供の身長くらいの大きさの岩の上に、あぐらをかいた老人が座っている。足の間にすり鉢を置いて、すりこぎで何かを潰しているようだ。丁度側を通りかかったハンスに何か言われ、悪態をつく。周りの男達が笑った。
 いつもの光景だ。
 ああ、そうか。
 あれは夢だったのだ。
 イーニャは安堵に笑った。その笑顔を見たフォルシスは、どきりとした。涙で濡れた目が細められるととんでもなく綺麗で、思わず彼女を抱く腕に力を込める。イーニャが顔を上げた。どういうわけか、今の彼女はひどく無防備だ。たまらなくなって、フォルシスは少し首を傾けるようにして顔をよせる。
 口付けを請う青年に、イーニャは素直に目を瞑った。
 うっそー! か、かわいすぎるぅううう!! ラッキー!!
 今までにない恋人の反応に、フォルシスは心の中で小躍りした。もう少しで唇が触れる、という時に。
 ばき!
 頬骨に激しいに衝撃を受け、彼は地面に頭から突っ込んだ。
 イーニャは立ち上がると、青年を殴った手を撫でながらふんと鼻をならし、尊大な様子で彼を見下ろした。
「乙女の唇を奪おうとしておきながらラッキーですって? この変態」
「……しまった。声に出してたか……」
 変態は呻いた。




「お、イーニャ目ぇ覚めたか」
「なんじゃフォルシス。口が切れておるぞ」
「……いえちょっと」
 口元についた血を手の甲でふきながら、フォルシスが顔をそらす。イーニャは彼を一瞥した。
「身体拭いてくるけど、覗くんじゃないわよ変態」
「……ハイ」
 何か言おうと口を開き、しかし彼女の一睨みに項垂れ返事をしたフォルシスに、イーニャはふんと顎を上げるとすたすたとその場を去った。
 その颯爽とした後姿を見て、捨てられた子犬のような目で恋人を見送る青年に視線を移すと、ハンスとグラベスは何とも情けない顔をしてため息をついた。
「……お前……」
「情けないのぅ……」
「ううう。イーニャぁ」
 そう嘆く青年の後姿は、確かに情けなかった。


 男ってどうしてああなんだろう。
 イーニャは憤慨していた。
 ムードも何もあったもんじゃない。キスしようとしてる時に 「ラッキー」 ? ありえない。あってはならない。それとも、自分の婚約者が特別デリカシーがないのだろうか。いや、デリカシーの点で言えばこの傭兵団の仲間全員に言える事だろう。アルフォンスの時は言うまでもなくフォルシスの時でさえ、人のプロポーズの場面だというのに、彼らはそれを見世物のように見物していたのだから。
 イーニャは水甕のある場所に行き、桶に水を汲んだ。よっと声をかけてそれを持ち上げると、すぐ近くの自分の天幕に持ってはいる。女性にしては中々の力だと言えるだろう。桶を置くと、そこに身体を拭くための布を投げ入れ、天幕の入り口には赤い布もたらして二重にする。この赤は、《今入ると血を見る》という意味合いが込められている。
 イーニャは豪快に上着とズボンを脱ぎ捨てた。ノースリーブの下着も脱ぐと、桶の前にしゃがみこんで布を絞る。服の下の彼女の肌は、思いのほか白かった。元々彼女の母親も色白だったのだ。一糸纏わぬすがたでしゃがみこみ、目を伏せるその姿は妖艶と言うよりも清廉であると言えた。いっそ神々しいほどだ。イーニャはしぼった布で水で濡れた身体を拭いた。やはり汗もかいていたようだ。べとべとする。拭いた所はさっぱりして気持ちよかった。
 ……思えば、フォルシスはプロポーズの時からムードというものを考えていなかった。
 何せ場所は戦場。それも、時はこれから峡谷を通って敵陣を突破するという大きな戦いの直前である。彼は、馬上のイーニャを呼びやった。戦術上の話か何かと思って馬を近づけてみると、突然腕をひかれ、公衆の面前でキスをされた。反射的に殴ろうとした手を捕まれて、これに生き残ったら結婚しようと言われた。
 フォルシスとはすでに恋人同士だった。いつか結婚するならこいつだろうなと、漠然と思っていたので断る理由もなく、イーニャはその時了承してしまったが…。
 早まったかもしれない。
 思わず考え込んでしまう。
 イーニャだって女だ。色々憧れがある。綺麗な星を見ながら語らう男女。綺麗ね。そうだね。そして寄り添う二人。しかしこれが彼女とフォルシスとなると、そう簡単に事が運ばない。まず必ずイーニャが怒り出す。これは、彼女はフォルシスの無神経な発言のせいだと思っている。あの星の並びがパンツに見えるだのなんだの言うから、殴りたくなるのだ。もっと素敵な事を言えばいいのに。次に問題なのが野次馬の存在だ。彼らは、戦闘で鍛えた動物的勘で彼女らの位置を探し出し、出歯亀をする。せめて気付かないようにしてくれればいいのに、なにやらひそひそ声が聞こえてくるのだ。「ほらっそこだ!」だの。「押し倒せ!」だの。そしてイーニャが怒る。
 つまり、この傭兵達の中にいるかぎり、ムードというものは望めないという事なのだろうか。
「頭いた……」
 思わずこめかみをおさえたイーニャだった。
「どうした娘」
 天幕の外から声が投げかけられた。誰何するまでもない。ウィン=ダーである。
「入ってもいいか?」
「どうぞ」
 父であるなら別に裸を見られても構わない。外から見えないようにその体躯で隠しながら天幕の中に入って来たウィン=ダーも、娘の裸に動揺する事なくその横を通り過ぎ、イーニャの方に向き直ってどかりと腰を下ろした。
「乙女の幸せのためには家出をするしかないのだと思い至った所よ」
 イーニャはさきほどの質問に答えた。
「なるほど?」
「ねぇパパ、どうしてもう一人女の子を産んでおいてくれなかったの? せめて共感してくれる妹がいてくれればまだ話は違ったのに」
 娘の言葉に、ウィン=ダーは真剣な様子で答える。
「すまんなイー。だが残念ながらパパは子供を産む事ができなかったんだよ。産む事ができたのはママだ」
「仕込むのはパパじゃない」
「こら女の子がそんな事を言うもんじゃないぞ」
 ウィン=ダーはめっと言って娘を嗜めた。散々戦闘技術を教え込んどいて女の子もクソもないと思うわ、とイーニャは言った。ウィン=ダーはため息をつき、左手に嵌めた指輪を撫でた。カデルとの結婚指輪である。
「ごめんなぁカデル。俺達の天使はこんな口の悪い子に育ってしまったよ。やっぱりこの環境がいけないんだろうか。だがイーニャが生まれてからは奴らの口の使い方にも十分注意したんだけどなぁ。クソって……女の子がクソって……」
 ウィン=ダーは目頭をおさえた。
 埒が明かないとイーニャは肩をすくめる。
「女の子だからこうじゃなきゃいけないなんて、おじさんの考えよパパ」
 言ってから、ふとイーニャは気になった。
「ねぇパパ?」
 イーニャは近くに落ちてた裾の長い上着を羽織ると、四つん這いになってウィン=ダーににじり寄った。フォルシスが見ようもんなら悩殺ものの格好であろうが、ウィン=ダーも娘相手では何も感じない。
「ママって、女らしい人だったの?」
「いや?」
 即答だった。
 ウィン=ダーは、その手を顎鬚にあてると、考えるように首をひねった。
「女らしいというよりは、男らしかったな。俺についてくると言った時も、お前を産むと言った時も、パパは困惑してどっちか決められなかったのに、ママはきっぱりと自分がやりたい事を言って、それを実行した」
 カデル。元々はどこかの商人の娘であった彼女は、平凡で幸せな家庭の将来を約束された娘だった。彼女には婚約者がいたのだ。けれどある日であった傭兵と恋に落ちて、その男についていくと決めた。子供を宿した時も、病弱であるがゆえに母子共に助かる確率は低いと言われたにも関わらず、迷いはなかった。そして確率に勝った。娘を無事生み落とし、彼女自身も生き延びた。カデルが死んだのはお産のせいではなく、風邪をこじらせたためだった。
「ママは、後悔しなかったのかしら?」
「後悔?」
 さすがに上着を羽織っただけでは寒そうな娘の裸体に、自分の上着を巻きつけながらウィン=ダーは聞き返した。
「そうよ。私なんて、早くも後悔し始めてるのに」
 ウィン=ダーは笑った。
「まだ婚約しかしてないじゃないか」
「その婚約を早まったかしらって言ってるのよ」
 イーニャは言って立ち上がった。衝立の裏に行き、衣装箱を探る。この衝立も衣装箱も、元はカデルのためにウィン=ダーが揃えたものであった。
「フォルシスが泣くぞ」
「男の涙より、女の幸せよ」
「確かに」
「でしょ?」
 衝立の向こうから顔だけを覗かせて、イーニャは笑った。そしてすぐに引っ込める。その仕草はまだまだ子供のようだ。いや、ウィン=ダーにとって、娘はいつまでも子供なのだろう。彼はいとおしげに目を細めた。
「でも、やめないんだろ? 結婚」
 彼は言った。
「……」
 返って来た沈黙がおかしくて、彼はクク、と笑いをもらした。
「知ってるよ。お前がずっとフォルシスを好きだった事。小さい頃からお前らべったりだったからな。俺がちょっと妬けるくらいに。実はな、一昨日の夜明け前、数時間の仮眠だけとって歩き出した時、フォルシスが言ったんだよ。今日お前に結婚を申し込もうと思うってな。ほら、強行軍の時ってもうただひたすら進むだけだから、色んな事考えるだろ? でさ、決めたんだそうだ。この戦争に参加してから、騎士団長っつーライバルは現れるは、三日連続の強行軍ですぐに戦闘に入る予定だわで、どうなるかわからないから、誓わせて欲しいって言ってたな」
 ウィン=ダーは左手の指輪を撫でる。それはもう、癖のようなものだった。
 愛する妻との愛の結晶。可愛い娘。忘れ形見。予定では愛娘の結婚の際はもっと反対して難しい条件を出したりして困らせてやろうと思っていたのに。誓わせて欲しいのだ、とフォルシスは言った。
 剣の誓い。
 それは決して破られないから。
 何を誓うかなどは、愚問でしかない。
「あれはいい男だ、イーニャ。まぁ、俺らとカデルが育てたも同然だから、あたりまえなんだけどな」
 フォルシスは拾われっ子だ。戦場となった街で迷子になっていたのをウィン=ダーが拾った。彼の母は死体で見つかった。父も、兄弟も。
「違うわ」
 気が付いたら、イーニャは既に着替えを終え、ウィン=ダーの真後ろに立っていた。彼女は今度は長ズボンに半そでのシャツを着た格好で、腰に両手をあてて父を見下ろしていた。
 彼女は確信を込めて言った。
「私が選んだ男だからこそ、いい男なのはあたりまえなのよ」
 ウィン=ダーは笑った。
「それ、本人に言ってやれ。空飛ぶくらい喜ぶ」
 そんな事を言う父に、娘は呆れた視線を向けた。すたすたと歩き、入り口に行くと赤い布を巻き取る。天幕にこの布がかかっている時に天幕内に入れるのはウィン=ダーだけだ。それは規律でもなんでもなく、暗黙の了解のようなものだった。
「馬鹿ねパパ。だから言いたくないのよ」
 あの男はあまりに素直に喜ぶから、そう簡単に喜ばせてたまるかという気になる。
 ふと、イーニャは自分の左腕に目をやった。
「……」
 そっと撫でる。傷はない。戦場では、そこはいつも篭手に護られているから、他にくらべると傷が少ないのだ。篭手は、団員からの十五の時の誕生日プレゼントだった。十五の娘に送るものとして防具はどうかと思うが、一人前として認められた気がして、とても嬉しかったのを覚えていた。
 自分の身体を見下ろして、左胸から右わき腹にかけて撫でる。
 痛みはない。着替えたときも、新しい傷は見なかった。
「イーニャ?」
 突然黙り込んだ彼女を、いつの間にかそこに立っていたウィン=ダーが覗き込んだ。
 大切な父。母を心から愛していた純情な人。赤ん坊だった娘を不器用に抱き上げて子守唄を歌った人。
「パパ、何か話があったんじゃないの?」
「ん? べつに」
 ウィン=ダーは肩をすくめる。イーニャは笑った。
「パパって音痴だったわよね」
「よく覚えてるなぁ」
 怒るよりも、驚いたように目を見開いた男に、イーニャは声を上げて笑ったのだった。




「イーニャ」
 天幕から出てきた彼女を呼んだのは、手に盆を持ったマーリンだった。表情筋のあまり発達していない彼は、しかしイーニャを見るとわずかにほっとしたような顔を見せた。
「フォルシスに目が覚めたって聞いたから」
「お昼を持ってきてくれたの?」
 盆の上に乗った乾燥肉や日持ちする野菜を見てイーニャが聞くと、マーリンは頷く。
 水場へ出かけたのは昼前だった。おそらく彼女が気絶している間にお昼は皆で済ませてしまったのだろう。食べ物を見て初めて、イーニャは自分が空腹を覚えている事に気が付いた。
 イーニャはマーリンに飛びついた。巨体の彼に抱きつくにはジャンプをする必要がある。イーニャの軽く膝を曲げた動作でその行動がわかったのか、彼は盆を片手に持ち替えて、左手で彼女を受け止めた。
「もうマーリンってば気がきく! 大好きよ!」
「いや、助けにいけなくてすまない」
 水場で溺れた事を言っているのだろう。水場へは結局、イーニャとマーリンの他にハンスとフォルシスも同行したのだ。そんなのマーリンのせいじゃないでしょう、と身体を離してイーニャは言った。マーリンはちょっと困ったように笑った。
「フォルシスはどこへ行ったんだ?」
 ウィン=ダーは、辺りを見回して聞いた。てっきり天幕の外には、恋人の機嫌を取りに来た青年がいるかと思っていたのだが見当違いだったようだ。
「あれを取りに行った」
 イーニャを地面に下ろしてやりながら、マーリンが答えた。その一言で、ウィン=ダーには何の事かわかったらしい。彼は片眉を上げてにやりと笑った。
「……なるほど?」
「今夜だそうだ。協力してくれと言っていた」
 イーニャには何のことやらわからず、首を傾げた。
「何の話?」
 父に聞く。
 ウィン=ダーはにやにやと笑うばかりで何も答えず、やる事ができたと言ってさっさと自分の天幕に引っ込んでしまった。イーニャは顔をしかめた。マーリンを見上げる。
「何?」
 彼はごまかすように手にもった盆を彼女に押し付けた。
「よく食べておけ」
 そう言い残すと、マーリンもすたすたとその場を去る。
 取り残された形となったイーニャは、まったく釈然としない様子で言った。
「なんなのよう」