ドクター


 ドクター、と級友は僕をそう呼ぶ。
 別に医師免許を持っているわけじゃない。ただ両親が医者で、兄が獣医で、姉が歯科医なだけだ。僕は精神科医になるつもりだった。我が家に精神科医がいないからというのも理由の一つではあるが、メインの理由ではない。
 僕は優秀だった。
 中学まで、僕は周囲に天才だと言われていた。勉強も運動も優秀な成績を修めエリートコースを突っ走る、数年に一人の人材だと僕自身も自負していた。
 高校にあがり、自分が井の中の蛙だったのだと知った。
 本物の天才がそこにいたのだ。
 その男は新入生代表として壇上に立ち、入学して最初の試験で首席になった。球技大会ではバレーボールのエースを務め、バレンタインには山のようなチョコレートを受け取っていた。そのくせ何故か同性にも好かれるような人柄だった。
 僕はその男の存在が信じられなかった。
 こんなにも完璧な男が一体世の中に存在していいのだろうか?
 いや、僕も完璧な男に違いないが、僕以上に完璧な男の存在を信じきる事ができなかった。
 そこで、僕は彼を観察する事にした。もちろん目的は、彼の完璧でない点を発見する事にある。
 彼の名前は河野広中。二年になって僕と同じクラスになった、僕の級友である。




 まずは基本データ。
 河野広中 (以下河野氏) は幼い頃に両親を亡くして、現在は二人の兄弟と暮らしていた。姉は既婚者で、姪が一人いる。得意科目は数学。恋人はおらず、部活動にも参加していない。基本的に、放課後はアルバイトをしているらしい。本来うちの高校はアルバイト禁止だが、彼の境遇を加味して特例として許可されているようだ。家庭科の授業で見ている限り、河野氏は大抵の家事も難なくこなしている。
 まず僕は、彼の家の前で彼を待ち伏せてみる事にした。いかに校内で完璧な河野氏であろうとも、家を出た直後などは気が抜けていて、寝癖がぴょこんと立っていたり鼻水がたれていたりするかもしれない。僕はいつもより二時間早く家を出て電車に乗り、河野氏の家まで行った。それは極めて普通の家だった。表札には河野とある。間違いないだろう。その玄関の見える路地で張り込みを開始した。今はまだ一月なので早朝ともなると非常に寒いが、防寒は完璧だった。腰には貼るホッカイロまで貼っている。
 時刻は七時四十分を回った。初めに家から出てきたのは、ぴりりとしたスーツに身を包んだ男だった。僕の脳内にある河野氏の基礎データと照らし合わせてみると、そのスーツの男が河野氏の兄である武一氏である事がわかった。武一氏は家を出ると僕がいる方とは反対方向に歩いて行った。その背中が、何かを思いついたように立ち止まるとなにやら鞄の中をあさり始めた。武一氏は慌てたようにたった今歩いた道を引き返し、家に戻って玄関の扉を開けると、家の中にいる誰かに言った。
「鍵忘れた。鍵」
 中々にハンサムな外見なのに、少し抜けているようだ。
 家の鍵を鞄に入れ、今度こそ会社へ向かった武一氏の背中を見送りながら、僕は河野氏にも彼くらいの抜けた一面を期待した。
 次に家を出てきたのはくたびれた服を着た青年だった。誰だと考える必要はなかった。河野氏に兄は二人しかいない。次男の綱氏だろう。彼は爽やかという単語とは無縁の青年のように見えた。彼は 「行ってきまーす」 と言って家を出ると、先ほどしゃきしゃきと歩いて会社へ行った長男とは対照的に、面倒くさそうな様子で歩いて駅に向かって行った。
 河野氏は中々家から出てこなかった。
 僕は時計を見た。もう七時五十分を過ぎた。ここから学校までは三十分以上かかる。ホームルームが始まるのは八時二十分だ。そろそろ家を出ないと間に合わないはずなのに、河野氏は一向に家から現れなかった。少し僕の精神がいらだちを見せた頃、道の向こうから一台の車がやってきた。
 高級車だと一目で見てとれた。黒い車で、その車体はぴかぴかに磨き上げられている。車は河野氏の家の前で停まった。
 何事かと僕が見ていると、後部座席の扉が開き、人が降りてきた。女性だった。降りてきたのは彼女だけではなかった。彼女の後から一人の男が現れた。その男を見て僕は目を見開いた。その顔に、僕は見覚えがあったからだ。最近急速に日本で事業を展開し始めたイギリスの財閥の、若き会長である。見事な金髪碧眼の美男子で、その腕には子供が抱えられていた。車から降りた男は先に降りていた女性に子供を渡すと、そのまま彼女の頬にキスをした。彼がその耳元で何か言うと、女性は小さく笑った。
 まるで映画か何かのワンシーンのようだ。二人は連れ立って河野家の玄関に向かい、女性がその扉を開けた。
「ヒロー」
 女性が家の中に向かって呼びかけた。彼女はそのまま家の中に入り、男は家の外に立ったままだった。家の中で何かちいさなやりとりが聞こえ、やっと僕の待ち望んでいた人物が現れた。河野氏である。彼は既に僕と同じ制服に身を包み、その手に鞄を持っていた。玄関から出た彼は、家の中に向かって「じゃあ行ってきます」と言った。どうやらあの女性は河野氏の姉、静氏であったようだ。河野氏は玄関の扉を閉めると、若き財閥会長と連れ立って先ほどの車に乗り込んだ。
 その車はほどなく発車し、僕の目の前を通り過ぎて行った。
 なるほど、河野氏があんなにものんびりしていたのは、車で送ってもらうつもりだったからなのか。
 頭のよい僕はすぐにそう理解した。
 そして頭脳明晰な僕は既にわかっていた。
 自分の遅刻は確実である事を。




 五分遅れて教室に入った。幸いにも担任も遅れていて、僕は問題なく自分の席についた。当然ながら河野氏は既に教室にいて、梶原宵太郎というクラスメートとなにやら会話をしていた。
 鞄の中身を机の中に入れ、椅子に座った僕は先ほどの自分が見たシーンを思い返してみた。どう考えても車から出てきたあの子供は静氏とあの財閥会長の娘にしか思えなかった。となると、二人は夫婦で河野氏はあの男の義理の弟という事になる。
 僕と河野氏を比較した時、僕が自信を持って勝っていると思えるのは容姿と経済的裕福さだったが、後者はどうやらこの項目から抹消せざるをえないようだ。医者の家系と言っても所詮は庶民である。何十億という金を動かす財閥と比べてもらっては困る。
 河野氏の欠点を見つけようと思ったのに、彼の完璧さにますます磨きをかけてしまうという結果に終わってしまった。僕は放課後を待つことにした。


 放課後、僕は思わぬ足止めをくらって河野氏を尾行しそこねてしまった。僕に交際を申し込もうという女生徒につかまってしまったのだ。もちろん僕はその女生徒の申し出を断った。僕には既にお付き合いしている女性がいるからだ。彼女についてはまた後で触れる事にする。それよりも今は、河野氏の動向を探る方が重要だった。
 僕は慌てなかった。今日は月曜だ。僕の事前リサーチが正しいのなら、河野氏はアルバイトの日であるはずだった。僕は職員室へ行き、担任から河野氏のアルバイト先の電話番号を聞きだす事にした。冷蔵庫の冷気が充満したような廊下から、暖かいこたつの中のような職員室に入る。この時期の職員室は、センター試験が過ぎた直後だからか少し気が緩んでいる。しかしセンター試験は僕にはまだ一年後の事だし、今受けろと言われても僕には何にも問題はないだろうと思われるようなものであるので、特に今気にする必要はない。僕は担任の所まで行って手早く自分の用件を話した。急いで相談したい事がるんで、とか何とか言って。本来うちの学校は河野氏のように例外を認める場合、アルバイト先の住所と電話番号と職種なんかを学校に報告しなくれはいけないのだ。担任は、成績優秀で人望の厚い僕をいともあっさりと信用して情報を漏洩した。
「なんでもイタリア料理の店らしいぞ。俺イタリア料理嫌いだから、行った事はないけどな」
 番号と店名を書いたメモ用紙を僕に手渡しながら担任はそう笑った。つくづくセキュリティの甘い学校だ。僕はありがとうございますと言って職員室を出て、その隣にある事務室の前まで歩いた。そこには緑のごつごつした公衆電話がある。僕は十円を入れて、今得たばかりの番号をプッシュした。
『はい、グラントですがー』
 受話器の向こうで少し間延びした声が出た。
 河野氏ではない。僕は手早く最寄り駅と行き方を聞いた。手馴れた様子で説明する相手の言葉を頭に叩き込み、僕は礼を言って受話器を下ろした。
 それは、学校と河野氏の家の間にある駅で、ここから行くと学校から駅、駅から店までの徒歩時間も含めて四十分くらいで着く場所だった。僕は素早く教室に戻り既に帰る準備を万端にして待っていた僕の鞄を掴むと、教室に残っていた数人の女子生徒のさよならを言って教室を出た。
 どうかこの間に河野氏が電車のドアにはさまれたり痴漢に間違えられたりっていう間抜けな事をしてませんように、と祈りながら僕は学校を出たのだった。
 さて、僕は学校の最寄り駅まで歩き、路線図で目的の駅を確認して切符を購入し、改札を通り、いつも自分が行くホームとは反対側のホームへ行った。僕の家は学校を挟んで河野氏の家とは反対側にあるのだ。これはこれで新鮮な気持ちがして僕は少し楽しかった。
 ほどなく電車がやってきて、僕はそれに乗って十三分ほど揺られ、M駅にたどり着いた。目の前に商店街がある、地元色の強い町だった。僕は先ほど電話で聞いた説明を思い出しながら道を行った。
 一月はまだ日が短い。そろそろ夕方と言える時間で、商店街は買い物をする主婦達で賑わっていた。その商店街の、これは道なのかと思いたくなるような路地に入る。その路地は少し下り坂になっていて、その下り坂の途中、危うく見過ごしてしまいそうな所にその店はあった。薄汚れた背の低いビルの、地下へ行く階段の手前に淡くライトで光る看板がある。
『バー グラント』
 バーだ。
 バーとは、Bar。居酒屋をオシャレにしたようなもので、つまり酒を呑む所であり、未成年は立ち入りを断られるような店だった。僕は困惑した。少なくともイタリア料理店には見えない。品行方正な僕はこのような店に入った事はないのでその階段を降りるのには少し勇気が必要だったが、僕はなにより河野氏の存在を確認しなくてはならなかったので、階段を降りた。入り口は黒のペンキで無造作に塗られていた。ただ下から一メーター七十くらいの所に白い筆のようなものでgrantと書いてあるだけの扉だ。僕は扉を開けた。瀟洒な音楽が聞えてきた。
 正面にバーカウンターがあった。その突き当たりから右方はTOILETと書かれた扉に繋がっていて、店自体は左側に奥行きがあった。全体的に黒を基調にシャープに設計された店で、大人という感じがすごくした。
 そんな店の、左側の椅子とかテーブルが並んでいる中央に、河野氏はいた。この店にふさわしい黒のチノパンに白いシャツを身に着け、髪の毛を少しセットした彼が手にモップを持っていたので、まだこの店が開店前なのだとわかった。彼は一人ではなく、もう一人、僕に背を向ける形で河野氏の肩に手を置いて立っている男がいた。
 二人は笑っていて、丁度僕に背を向けた男の煙草から、河野氏が自分の咥えている煙草に火を移しとろうとしている時だった。
 言うまでもなく、彼のその行為は明らかに校則違反である。校内で服装検査にもひっかかっか事のない彼が、こんな場所で堂々と校則を侵そうとしている。
 しかしその時僕がした事は、つかつかと彼に歩み寄って煙草を奪い取り説教をする事でなく、脱兎のようにその場から逃げ出す事だった。
 バタンと扉を閉め、僕は一段抜かしで階段を駆け上がり、商店街とは反対の方向へ走った。無意識に、明るい方を避けたのだ。僕は今自分がこれまでになく動揺している事を自覚していた。
 路地は唐突に石でできた階段になっていて、その階段の下はT字路だった。コンビニがあって、少し明るい。僕は階段の手すりにぶつかるようにして足を止めた。いくらも走っていないのに息が上がっていた。
 わけのわからない感情が自分の中にあった。
 僕は自分のこの感情にどう名前をつければいいか分析しかねていたが、ただ自分が深く後悔している事はわかった。
 見るんじゃなかった、と。
 見るんじゃなかった。見るべきではなかった。あの場所での河野氏は、僕の求めていたものでは決してなかった。彼は完璧などではなかった。
 いや違う。彼の完璧さは損なわれてなどいない。まだ彼は完璧だった。彼においては何一つとして損なわれたものはなかった。
 けれど僕は失望していた。
 そう、僕のこの感情の名前は失望と言った。
 違う。嫉妬か。
 嫉妬?
 何に対する?
 繰り返すが、僕は動揺していた。
 だから僕は、彼が僕を追いかけて来ていた事に、声をかけられるまで全く気付かなかった。
「小田桐君?」
 その彼の声は僕が普段教室で聞いている声と少しも変わる事はなかった。けれど今僕は彼と話をしたくなかった。
「悪いけど今は君と話したくない」
 僕は正直に言った。けれど僕はこの時実は自分というものを必死で押さえ込んでいて、だから河野氏の小さな揺さぶりにもそれは簡単に崩されてしまった。
「どうして?」
 その声が、まるで小さな子供をあやすように聞えて僕はかっとした。
「僕は!」
 僕は振り向いて、叫ぶよう言った。
「僕は、君が嫌いだ!!」
 吐露した。
 悔しい。
 わかってる。
 嫉妬だ。
 これは。
 彼は完璧だ。
 僕にないものを全て持ってる。無欲さ、無邪気さ、本当の友人、そして適度に遊ぶ事も知っている。きっと僕よりもはるかに、世間というものを知っている。担任がイタリア料理を嫌いな事を知っていて、あの教育熱心な教師がバイト先を覗きに来ないようバイト先をイタリア料理店なのだと偽るような、そんな小賢しさも持っている。大人だ。僕なんかよりもはるかに。悔しい。悔しい。
 それは醜い感情だった。
 負けたと痛感した者が持つ感情だった。
 それがまた僕には許せなかった。
 髪の毛を整髪料で整えた彼は意外なくらいに高校生には見えなかったのに、きょとんとして幼い様子で僕を見る彼は年相応だ。同じ年の少年。
 僕は河野氏を睨みつけた。
 こんな風に誰かを睨みつけたのは初めてだった。
 河野氏は困ったように目を彷徨わせ、そしてもう一度僕を見ると、やはり困ったように笑った。
「えーと、ごめん。ちょっとショックかも」
「君の! そういう所が、僕は、嫌いだ」
 最後の方で僕は俯き、声を押し殺した。激昂する事は非生産的だ。話すためには冷静にならなくてはならない。
「そういう、所が。君は完璧すぎる。せめて、それを鼻にかけるような奴であってくれれば、よかったのに」
 言いながら自分の感情を整理した。そうだ。わかってる。
「君がもっと嫌な奴なら、僕は君を、軽蔑できたのに」
 悔しい。
 この、感情の発露。
 もし彼が、僕と同じ年ではなく、僕よりもせめて一学年上であったのなら、僕はこんなにも反発しなかったかもしれない。僕は黙り込んだ。これ以上は何も言えなかった。言う事を、僕のプライドが許さなかった。
「……僕はね」
 河野氏が口を開いた。
「唐突なんだけど、僕さ、小田桐君が羨ましいと思ってたよ」
 僕は顔を上げた。
 彼は笑っていた。
「僕にとってこそ君は完璧に見えた。だって君は間違いなく文武両道で人望もあるしもてるし優等生なのに、驚くくらい素直なんだもん」
 彼の言葉に慰めるような雰囲気はなかった。
「すごいって思ってた。あの梶原でさえ、正直に君をすごい奴だと認めてた。君は僕や梶原のように上辺だけの嘘をつかない。人の機嫌を伺わない。強いんだなぁと思った。だって、僕なら言えないよ。面と向かって嫌いだなんて、怖くて言えない。僕ならきっと、笑顔を顔に張り付かせて、けれど心の中では違う事を言う。そんな風にしかできないんだ。だから、君はすごいなぁって、思ってたよ」
 僕は呆気に取られていた。
 彼は言った。
「どう? 僕、相当嫌な奴だと思うんだけど」
 軽蔑する?




 思うに、やはり河野氏は僕よりもずっと大人なのだ。
 彼は早くに両親を亡くしていて、兄や姉がずっと頑張って働いてくれてるのがありがたくて、だから友人の梶原宵太郎 (店の中で河野氏と一緒に居たのがまさに梶原だったらしい。全然気付かなかった。思い返してみれば学校からかけた電話の声もあいつだったような気がする)に割りのいいバイトを紹介してもらって、大学の入学費用なんかを少しでも自分で稼ぐつもりらしくて、煙草なんかも嗜み程度ですすめられたら吸うくらいで、酒は飲んでないし、小賢しい。
 彼は知っているのだ。
 結局、人は他人に自分にないものを見るのだという。
 他人を羨ましく思うのは、相手が自分にないものを持っているから。けれど同じような理屈で実は自分自身だって誰かに羨ましいと思われてたりするんだ。それを知っているから、彼は卑屈にならない。
「それで、仲直りしたの?」
 蚊帳子が僕に聞いた。蚊帳子は僕の血の繋がらない妹で、恋人だ。彼女はまるで僕の部屋を自分の部屋だと勘違いしているかのようにくつろいでいて、僕は背中をベッドに預ける格好で床に座り、テーブルのコーヒーを取って一口飲んだ。
「一週間したら何事もなかったかのように接すると約束した」
 それが僕の最大の譲歩だった。
 明日からすぐに平生に戻れるほど僕は無神経ではなかった。
 蚊帳子はくすくすと笑った。彼女はベッドの上でうつ伏せになって女性誌を広げている。白い足がゆらゆらと揺れていて、白い蝶々を思い出させた。
「ねぇ」
 蚊帳子が言った。僕は顔を動かして蚊帳子を見た。
 彼女は一応僕の妹だという事になっているけれども、実際の所いくつなのかわからない。ただ蚊帳子を養子にする時に、末っ子とした方が何かと都合がいいだろうという事になったのだ。けれどこういう風に微笑む彼女を見ていると、実は僕よりも年上なのではないかとたまに思う。
「皇はさ、河野君が大好きなんでしょ?」
 彼女はからかうように言った。蚊帳子は頭の回転が速くて、人の心をよく読む。
「だから、彼に、皇の予想もしなかった部分があったのが悔しかったんでしょ?」
 僕は前に向き直って肩をすくめた。
「黙秘」
「意地っぱりね」
 蚊帳子は笑った。
 ともかく、結論としては、河野氏には確かに学校では見せない彼の一面があって、たぶんそれは、学校のほとんどの教師と何人かの生徒を失望させる一面であるって事だ。ただしその何人かの生徒にもちろん僕は含まれない。でも、人間なんて皆そんなもんなのかもしれない。一面だけ見てもその本質は判断できない。実際僕が精神科医を目指しているのは、我が家が医者の家系で、今の我が家に精神科医となる人間が一人もいないからだと大半の人間は思っているようだが、そんなわけがない。そんな理由で一生の仕事を決めるほど僕は愚かではない。
「……皇。眠くなってきた」
 唐突に蚊帳子が言う。
 振り向いて、僕は優しく言ってやる。
「寝ていいよ」
 蚊帳子は微笑む。
「起こしてね」
「ああ」
 すると蚊帳子は、空気抵抗のない場所でビルから飛び降りた時のようにすぅ、と眠りに落ちる。
 蚊帳子は学校に行っていない。何故なら一日のほとんどを寝てすごしているからだ。蚊帳子が起きているのは一日大体三時間。両親は身体には異常がないから、精神的なものだという。
 僕は精神科医にならなくてはならない。そして早く蚊帳子を治してやらなくてはならない。だって将来僕らの子供が生まれた時に、一日三時間しか母親が遊んでくれないんじゃあ、子供が泣き叫んで収拾がつかなくなる恐れがあるからだ。
 僕は立ち上がり、枕の上に女性誌を置いたままうつぶせのまま眠る蚊帳子の額に手をあてて少し持ち上げると、女性誌を抜き取った。そして蚊帳子を抱き上げて、今度は枕の上に仰向けに寝かせてあげる。慎重になる必要はない。蚊帳子の眠りは深く、ちょっとやそっとじゃ中々起きないからだ。そうして肩まで布団をかけてあげて、僕は息をついた。
 さて、勉強でもするか。
 何せ僕は精神科医への最短距離を駆け上がらなくてはいけない。
 一刻も早く、僕らの子供を見るために。