Fire Flower


 下流階級に属する少年は言った。
「俺は将来花火師になる!」
 祭りの帰りだった。

 上流階級に属する少女は言った。
「あたしいつか世紀の大怪盗になってみせるわ」
 サルに似た泥棒の活躍するアニメ映画を見た後だった。

 二人は約束した。
 いつかきっと、その夢を叶えると。





 夜のしじまに、小さなカウントダウンの声が響く。
「4、3、2……」
 どっかーん!
 黒い上下に身を包んだ女が最後のカウントをくだす前に、その爆発音は周囲の静寂をなぎはらった。爆発音がしたのは目の前の美術館の正面入り口の方である。茂みの中にしゃがんだ彼女はちっと舌打ちをすると、傍らの男を殴りつけた。
 ごぃんといういい音がする。
「誤差一秒」
「……!」
 男は突然の暴行に頭を抑えて唸った。
「っ誤差が一秒に収まれば上出来だろが!」
「妥協は許さなくてよ」
 涙目で叫んだ男に女はそう言い捨てると、すっと立って茂みを抜け出した。
 なかなかに美しい女性である。すらりとした肢体は豊満ではないがスレンダーで、長い黒髪は結い上げられ、うなじが露わになっていた。その黒ずくめの格好の中彼女の肌の白さは目立ったが、そんな事は気にしていないようだ。颯爽と歩くその姿にはどことなく気品が感じられる。
 一方ぶつぶつといいながらも立ち上がり女の後について歩きだした男は、その顔でさえも周囲の夜闇に溶け込んでいる。何故なら目と口の部分だけ開いた黒の毛糸のマスクをかぶっているからだ。銀行強盗のように見えて明らかに怪しい。まぁ、現在の彼らは遠からずではあるのだが。
「……鼻で息がしにくい」
 ふがふがと男が言う。
「そんなマスクして来るからよ」
「顔見られたら困るだろが」
「顔を見られないようにあんたの爆弾で警備員を誘導してるのではなくて?」
 二人がそう言っている間にも、入り口の方では初めの爆発音をきっかけにして第二第三の小さな爆音がする。これらは全て昼間に下見に来た時に男が仕掛けたものであり、美術館の警備員をひきつけるためのものであった。警備を入り口に殺到させ、手薄になった裏口から侵入するという寸法だ。極めて古典的な陽動作戦である。
 二人が茂みの中からずっと見張っていたその裏口に着くと、女はV字ネックの胸元から一枚のカードキーを取り出した。
「美味しそうな所に何てもんいれてやがんだお前」
「ジロジロ見るな変態」
 女がそのカードキーをカードリーダーに通すと、いとも簡単にロックは解除された。女は満足気に笑って、そのカードキーにキスをした。
「さすが爺や特製の万能カードキーだわ。どこかの爆弾魔とは違って完璧ね」
「ですから前から思ってたんですけれどもあのセバスチャンは何者なんですか?」
 女の仕事道具とも言える『万能窓開け機』、『番犬撃退スプレー』、すべて彼女の爺やの作品である。
 しかしそんな男の素朴な疑問はさらっと女に流された。
「さて、さくっと行ってさくっと盗んで来ましょ」
 がちゃりとドアを開けると、女はすたすたと建物内に侵入する。
 男は祈った。
「神様仏様アラーの神様。僕は将来有望な一介の花火師であって決して爆弾魔なんかではありません。ただ今はこの横暴で独裁的な女に従わされているだけなのです。そこんとこよろしく。アーメン」
「早くいらっしゃい浩介!」
 言葉と共に、建物内から何かが飛んできた。
「おおぅ!」
 長年の勘で、男はそれを紙一重で避ける。ぶんと飛んできたその物体は、ごとりと重そうに地面に落ちた。
 灰皿である。
「……菖蒲、いい加減その手近にあるもんを何でも投げる癖直した方がいいと思うぞ」
 でなければ俺が死んでしまう。心からそう思った男であった。





 菖蒲は辺りを見回した。裏口は白っぽい廊下に繋がっていて、そのすぐ横には警備員室がある。電気がつけっぱなしになっている室内には、どうやら人はいないようだ。皆例の爆発音の方に行っているのだろう。菖蒲はその警備員室から漏れる光をたよりに歩き出した。
「全員で動くなんて馬鹿な警備員ね」
 彼女は心から残念そうに言った。
「せっかく新型睡眠ガスを試してみたかったのに……」
「……セバスチャン作ですか?」
 菖蒲の後ろをそろそろと付いてくる浩介が、やはり気になるのか尋ねる。
「違うわ。これはコックの山田作」
「……」
 浩介は山田を思い浮かべた。小太りの、ツヤツヤとした気のいいおっさんである。犯罪なんかに手を出すとは到底思えない外見なのだが、どうやら菖蒲の家では屋敷ぐるみで彼女の犯罪に手を貸しているようだ。とんだ家庭である。
「で? どっち?」
「こっち」
 まるで自分の庭を歩くかのように、菖蒲の足どりには迷いがない。菖蒲の特技は地図を覚える事である。彼女はこの美術館の構造を完璧に頭に入れていた。
 警備員室の光も届かない場所にくると、彼女はベルトについた小型ライトのスイッチをオンにした。これは彼女の屋敷で働くメイドが作った、『ワンタッチライト』。ベルトに取り付けられたそのライトは手を使わずとも足元を明るく照らしてくれる優れ物だ。ちなみに首振り可能で、必要とあらば天井だって照らす事ができる。
 浩介はそのライトを何か言いたげに見つめたが、賢明にも何も言わなかった。
 花火師になるために修行をつんできた彼が、何故今こんな爆弾魔の真似事をしているか。
 答えは金である。
 そもそも生家が貧乏な彼には先立つものもなく、花火師の技術は無理やり弟子入りした所で学んだものの、現実問題独立して花火を作る資金がなかったのだ。そこで彼が頼ったのが、幼馴染にしてかつて共に夢を叶える事を約束した菖蒲であった。
 菖蒲の家は金持ちである。浩介の家が軽く百個は買えてしまうほど金持ちである。
 自分の家にやって来た幼馴染に、彼女は一つの条件を提示した。
 彼女の夢、『世紀の怪盗になる!』を叶えるために力を貸せと。
 背に腹は変えられない。彼は承知した。そういうわけで彼は花火製作の作業場と、花火師としてやっていくだけの十分な資金を手に入れたのだ。
 しかし、今や彼は『花火師』ではなく、『怪盗一味の爆弾魔』としてその花火技術を世に知らしめようとしていた。
「……何かがおかしい。間違ってる」
 ぶつぶつと自分の人生への疑問を口にする浩介の声に重なって、菖蒲が小さく声を上げた。
「あ、あそこだわ」
 そこは広い部屋であった。その中央には一体の彫刻が飾ってある。周囲を赤いロープで囲んだ、いかにも国宝そうな一品だ。昼間に下見に来たので、浩介はそれがどういう物か知っていた。なんでも国がン億円で買い取ったとかいう美術品らしい。この彫刻を一目見るためにこの美術館に足を運ぶ人も少なくないのだ。
 それは半裸の女性を模したものであった。身体を少しひねり足元に手を伸ばす女性は、腰まわりにだけ薄布をまとわりつかせている。なるほど芸術品であるのかもしれないが、健全な男子にはどうしてもその豊満なバストが気になるのだった。
「はぁーいい乳してんなぁ」
「それは何かしら? 嫌味? あてつけ? わたくしへの?」
「すいません違いますごめんなさい首絞めないでください」
 菖蒲はふんと鼻で息を吐いて手を離すと、部屋の隅の方へ向かった。明かりがなくなるので、浩介は焦って菖蒲の後に続く。
「あれ? あの真ん中の盗むんじゃねーの?」
 この部屋は行き止まりだ。入って来た所しか通路はない。
「あんなものに興味はなくてよ」
 そう言った菖蒲は、一枚の絵画の前で足を止めた。
 それは部屋の隅の、中央の彫刻を引き立てるだけの役目しかない、小さな絵だった。無名の画家によるものだろう。額の中に描かれたのは一輪の菖蒲の花だった。淡く優しい色使いだが、この美術館に来たほとんどの人間はその前を通り過ぎてその存在にも気付かないかもしれない。
 しかし菖蒲は、とても愛しいものを見るようにその絵を見つめた。
「あたくし、これが欲しかったのよ」
 そう言う彼女に、浩介は目を細めた。
『パパはあたしが大好きなのよ』
 そう言ったのは、幼い少女だった。
 少し悲しそうに彼女は言ったのだ。
『パパはね、世界で一番あたしが好きなの。だからあたしの願い事は全て叶えてくれるのよ』
 彼女の父の彼女への溺愛ぶりは相当で、それは奥方さえも呆れるほどだったという。彼女が人形が欲しいと言えばフランスから最高級のオーダーメイドを取り寄せたし、遊園地に行きたいと言えばアメリカの遊園地を貸し切った。彼の娘への愛情はそれこそ湯水にようにあふれ出て、留まるという事を知らなかったのだ。
 しかし娘は、その愛情を我儘に受けるには賢すぎた。
『パパはきっと、家にあるお金を全部使い切ったって、あたしがお願いをすれば身を切ってでもそれを叶えてくれるのよ。だからね、あたしは決めたの。もうあたし何も欲しいなんて言わないわ。何も願ったりなんかしないのよ。だってパパがいてママがいて、それであたしは幸せなんだもの』
 彼女は賢かった。その年齢にしては物分りがよすぎて、少年には彼女の言葉が不可解だった。けれど決して賢くないその少年は、少女の心を誰よりも理解している数少ない人間の一人だったのだ。
 欲しいものがない子供なんていない。願いのない人間なんていない。
『俺になら言ってもいいよ』
 少年は言った。
『俺になら、あやめの欲しいものも願い事も将来の夢だって、言っていいよ。俺はおじさんみたいじゃないからそれを菖蒲にあげる事ができない事だってあるかもしれないけど、だったらさ、一緒に手に入れられるようにがんばろうぜ』
 少年はそう言って笑った。
『本当? 一緒に頑張ってくれる?』
『うん。いいよ。その代わりあやめだって俺の願い事を叶えるために一緒にがんばるんだぜ?』
『いいよ。うん。それでいい』
『じゃあ約束だな』
『うん、約束ね。こーちゃん』
 こーちゃん。
 そう少年を呼んだ少女は成長し、高飛車な怪盗となって現在にいたる。
 浩介は仕方ないな、とでも言うような笑みをもらした。
 欲しいと彼女が言う。
 あれが欲しいと。
 彼女がそう言うのは彼にだけだ。
 ならば彼女のその願いを聞くのは彼だけなのだ。
 叶えないではおれないではないか。
 小さな花の絵が欲しいという願いだって。世紀の大怪盗になるという夢だって。
 その声を聞くのが自分だけなのだと知ってしまったら。
 叶えてあげずにはおれないではないか。
 浩介は手を伸ばした。
 菖蒲が見とれていた絵をいともかんたんに壁からはずすと、彼女の腕に押し付ける。
「やるよ」
 約束だし。
「お前が欲しいもんなら、俺にあげられるもんなら全部やるよ」
 彼はそう言って微笑んだ。
 何だか穏やかな気分の今なら、爆弾魔という決して望んでない境遇にいる自分の人生だって許容できそうなかんじだった。
 人はそれを陶酔と呼ぶ。
 自分の腕に絵画を持ち、菖蒲は目を見開いて浩介を見る。
 浩介は爽やかに微笑んだ。
 菖蒲がゆっくりと口をあける。その口から、かつての懐かしくも拙い呼び声が聞こえるかと彼が思ったその瞬間。
 ごぃん!
 花火が散った。
「馬っ鹿者っっ!」
 彼女のその叫びをきっかけにしてか、とつぜん部屋のライトが付き、ビービービーとうるさく警報機が鳴った。
「美術品に盗難防止用警報機がついてるのは当然でしょう! この間抜け!!」
 何のためにお母様作の『警報機解体説明書』を持ってきたと思っていて!?
 しかし後頭部の痛みに呻く男には警報機の音も彼女の叫びも聞こえない。
「ああ、もう、逃げるわよ!」
 菖蒲は絵をその手に持ったまま走り出した。
「……うぅぅ」
 痛ぇ。
 陶酔から立ち直ったショックと頭の鈍痛により、しばらくその場から動けそうにない浩介だった。





 菖蒲は走った。
 そして走りながら懐に隠していたサングラスをかける。今更ここでただのサングラスをかけるはずがない。これぞ『超小型音声コンピューターサングラス型』である。ちなみに彼女専属の家庭教師による作品だ。
「逃走経路」
 彼女の声を拾って、右目部分の小型液晶に美術館内の地図が表示され、ふさわしいとされる逃走経路を赤線で示してくれる。このコンピューターにはありとあらゆる事態を想定したデータが入力されていて、警報が鳴った場合警備員がどういう経路でやってくるかも入力済みだ。
 右に曲がる。入って来た裏口とは違う、もう一つの裏口に赤線は伸びていた。左。左。右。
 あとは、真っ直ぐ。
 目の前にドアが現れる。カードキーが必要なのは外から入る場合だけで、内からはロックを外す必要がない。なんとも便利な仕掛けだと思う。
 ドアまでたどり着いた菖蒲は、そのドアノブを回してドアを開けた所で、気が付いた。
 目の前にはいきなりドアが開いた事に驚く数人の警備員。
 コンピューターに入力されたデータは警備員が警備員室にいる場合を想定しているのであって、彼らが正面入り口の方で爆弾の処理にかまけている場合は想定していないのであった。正面の方で警報を聞けば、入り組んだ美術館内を行くよりも外から回ってこの裏口から入った方が速い。
 菖蒲は舌打ちをすると、すばやくドアを閉めようとしたが遅かった。一番若い警備員が逸早く動きドアを閉めようとした菖蒲の腕を掴むと、外に引きずり出した。
 勢いあまって菖蒲は地面に膝をつく。そのまま警備員に背中にのしかかられ、両手を後ろに回された。放り出された形となった絵を、他の警備員が拾う。
「なんだ、こんなものを盗んだのか」
 少々拍子抜けしたような声だった。馬鹿にしたような響きも混じっている。
「『ティーレの少女』を盗もうとして、怖気づいたな?」
 『ティーレの少女』とは中央に展示されていた彫刻の名前だ。ちょうど肺の部分を地面に押し付けられ圧迫されながら、菖蒲はがりと奥歯を噛んだ。口の中で何かが割れる。菖蒲は警備員を鼻で笑った。
「……レディの扱いもなってないの? 下品な警備員ね」
 絵を持った警備員は、一瞬菖蒲を冷たく見下ろすと、すぐににっこりと優しそうな笑顔に変えた。三十後半だろうか。いい人そうな笑顔だが、どこか怖い。
「警備員が下品でなくて警備員が務まるかこのコソドロ」
 警備員のその言葉に、菖蒲は口の端をあげてにやりと笑った。
「あら、いい言葉ね。口の悪い男は嫌いでなくてよ」
「悪いが俺はガキには興味ねぇんだ」
「それは残念だわ。お、じ、さ、ま」
 強調されるように言われた最後の言葉に、警備員はぴくりと片眉を上げた。挑発だ。それは明らか。問題は、この警備員がそれに乗って来るかどうかだった。殴られても、拘束が解ければそれでよし、身体さえ自由になれば逃げ方などいくらでもあるのだから。
「山形」
 今にも取っ組み合いを始めそうだった二人の雰囲気に割って入ったのは、この警備員達のリーダーらしき男だった。
「相手は女だぞ」
「わぁってますよ」
 山形は肩をすくめて、菖蒲から視線を外した。菖蒲は舌打ちをした。かわされた。
「おいコソドロ」
 山形は、今度は菖蒲の目の前にしゃがみこみ、彼女に視線を合わせるようにした。持っていた絵もその場に置く。身近で菖蒲の顔を覗き込み、山形は少し驚いた。この暗さだ。明かりは外につけられた常夜灯のみで、立って見下ろしているぶんには顔はよく見えなかった。けれどこうして近くで見てみるとなるほど、中々の美人なのだ。
「正面の方の爆弾騒ぎはおまえの仕業か?」
「そうだと言ったら?」
「窃盗の他にそっちの罪も加算されるな。えーと、火気なんたら罪?」
「あたくしではないわ」
「は?」
「爆弾はあたくしではないのと言っているのよ」
 じゃあ誰だ、とでも言うように山形が顔をしかめる。菖蒲は酷薄に笑った。
「あたくし達をご存知でないの? 世紀の大怪盗よ。覚えておいた方がよろしいわ」
「おいおいおい、夢を見るのも大概に……」
 山形が呆れたような顔をした時だった。
 どぉーん!
 その大音量に、びりびりと辺りが揺れた。
「ンだぁ!?」
 山形以下警備員達が一斉に振り向く。
 どぉーん!
 二発目。
「……な」
 警備員達は言葉を失った。
 どぉーん!
 花火である。
 それも特大級の、とびっきりの花火である。季節は十月。花火をあげるには季節外れだし、上げられている場所はあきらかに美術館の向こう側だ。ありえない。まさかだ。
 警備員達は、呆然として夜空に散る美しい花火を見つめた。
 我に返ったのは、「ぅお」という若い警備員の声を背後で聞いた時だった。
 山形が振り向いた時には若い警備員は昏倒しており、彼に抑えられていた女泥棒は常夜灯の明かりの届かない所に逃げていた。とんだ逃げ足である。近くに置いていた絵もなくなっている。山形は、昏倒した警備員の上に一枚の紙を見つけた。

『メリスの「菖蒲」をいただきました。
 以後お見知りおきを。
           怪盗Fire Flower』

「ふぁいやーふらわー?」
 火の、花。
 つまり、花火である。
 どぉーん!
 四回目のその音に、山形は振り向いた。
 放射線状に広がる色とりどりの火。そして一瞬で散る。
 綺麗だ。
 山形は口の端を上げた。
「おもしれぇじゃねぇか」
 これが、怪盗Fire Flowerと警備員山形利三の追いかけっこの始まりであった。とかないとか。





「お帰りなさいませ」
 都内の高級住宅地の広大な敷地を使って建てられたその屋敷に菖蒲がたどり着いたのは、朝方に近い時刻だった。もちろん美術館から少し離れた所から電話で迎えを呼んだので、帰りは優雅にベンツである。その中で服も着替えたので、ブルーのシャツを黒いパンツを穿いた今の彼女は普通のお嬢様だった。
「ただいま爺や。今回もあのカード役に立ってよ」
「役立てていただいて嬉しく思います。旦那様がお待ちですよ」
 執事はにっこりと笑った。
「部屋?」
「はい」
「じゃあお風呂の準備お願い」
「承知いたしました」
 きっちり三十度頭を下げる執事の前をすたすたと通り過ぎ、菖蒲は勝手知ったる屋敷の中を歩く。部屋は二階の東側向きの角部屋である。扉を開けると、壁に面したソファに座って優雅に紅茶を楽しんでいた男が振り向いた。
「よぉお帰り」
「先に帰っていたのね」
「最後のやつどうだった?自信作なんだけど」
「ああ、逃げるのに夢中で見なかったわ」
 男……毛糸のマスクを取って中々整った容姿をあらわにした浩介は肩をすくめる。
 美術館であがった花火はもちろんこの男の仕業であった。菖蒲の奥歯には爺や作『緊急用連絡スイッチ』が仕込んであり、奥歯を思いっきりかみ合わせて砕く事で、菖蒲が危険にある事を浩介に知らせる事ができるのだ。ちなみに浩介は、常に『緊急用連絡スイッチ』に対応する『菖蒲様救出ハンドコンピューター』の携帯を、お屋敷の面々によって義務付けられている。そして彼は、菖蒲が逃げるチャンスを少しでも作るためと、自分の自信作を世間様にお披露目するために例の花火をあげたのだ。前者後者とどちらの理由の割合が大きいかは彼自身しか知らないが。
「じゃあ今度もっといいの出来た時にでも見せてやるよ」
「ありがと」
 菖蒲はにこりと笑うと、浩介の隣に座った。紅茶を奪い取って自分の口に含み、満足気なため息をつく。
「ああ、やっぱりこの部屋に似合ってると思わない?」
 彼らの正面の壁には、先ほど盗んできたばかりの菖蒲の絵があった。迎えの車をよこすよう電話をした時、ついでに絵だけ先に屋敷に着くようヘリを呼んだのだ。ハンドバックより大きいものを持ち歩くのは、菖蒲の趣味ではなかった。
 浩介は両手をソファの背に回し、足を組んだ。
「んー確かに。あの美術館にあるよりは生き生きして見えるな」
「でしょう?」
 菖蒲は満足気に微笑む。
 その時部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
 執事が扉を開けた。
「湯浴みの準備ができてございます。旦那様、奥様」
「なぁセバスチャン。あんたって若い頃実はスパイとかだったろ?」
 『旦那様』はにっこりと笑って言った。執事は慇懃に答える。
「私の名前は本田でございます、旦那様」
「ほらもう答えない所が怪しいし。てゆうかマジで、ここの従業員って全員前科持ちとかじゃないの? もしかして」
 菖蒲は浩介の言葉を無視するように手を振った。
「ありがとう、爺や。下がってよろしくてよ」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
 本田はまたきっちり三十度頭を下げると、ゆっくりと扉を閉めた。
「浩介、爺やをからかうのはよして頂戴」
「いや、からかってないし。もう僕、本当にとんだ所に婿に来たみたいだなぁと最近とみに思うわけですよ。屋敷ぐるみで犯罪者なんだもん。本当に。ところで奥さん」
 ソファの背に回した腕をそのまま菖蒲の肩に回し、浩介は軽く彼女を引き寄せてついばむような口付けをした。
「水道代節約のためにも一緒に風呂に入らない?」
 口付けを受けた奥方はにっこり笑う。
「ごめんだわ」





『菖蒲、俺を婿養子に迎えてくれ』
 かつて浩介は菖蒲の屋敷に来ると、そう言った。
 前にも言ったが、菖蒲の家は金持ちである。そりゃもう金持ちである。その菖蒲の家の養子になれば、なにもせずとも何千万という大金が転がり込んでくるのだ。これしかない、と浩介は思った。
 そして菖蒲が結婚の条件として提示したのが、浩介のその火薬を扱う能力を、怪盗の一味として役立てろというものだった。
 つまりギブアンドテイク。二人は利害関係の一致を見て、六月に結婚した。
 その二人の間に愛があるのかと聞かれれば、二人はこう答えるだろう。

「あるに決まってるじゃない。まぁ、愛は二の次だけど」
「なきゃプロポーズなんてしねぇよ。愛より金だけど」

 とりあえず、仲はいいようである。





 翌日の新聞にはこういう見出しが踊った。
『怪盗Fire Flower現る! 花火と怪盗の関係は!?』
 それを見て顔をしかめた浩介は、しかし同じ新聞の経済欄を見て片方の眉を上げ手に持っていたコーヒーを飲んだ。
「俺って写真写りが悪いな」

『綾小路グループの次期総帥は、現総帥綾小路玄の一人娘、綾小路菖蒲に正式に決まった。彼女は夫である綾小路浩介と共に、今後綾小路グループを背負って立つものとして、一層の努力を惜しまないと語った』