夜の蝶に降るようなキスを 1


「ただいま」
 ドアの鍵を開けて玄関に立つのはいつも七時前後。
 そうすると、奥から水を止める音とか踏み台から降りる音とかパタパタと走ってくる音とかが聞こえる。
「おかえりなさい、はるきさん」
 台所の方から顔を出したのは十一歳の少女だ。名前は真野夜蝶という。やちょう。珍しい名前だと思う。
 ちなみに僕の名前は八坂春樹。自分でも平凡な名前だと思うけど、二十七年間慣れ親しんだ名前なので少しも不満はない。
「ただいま、まのさん」
 僕は玄関にしゃがんで、彼女のおかえりなさいのキスを頬に受けた。
「今日のご飯はハンバーグよ。もう少しだから先にお風呂入ってきてね」
 靴を脱いで台所に行くと、踏み台の置かれた流し場のところには下ごしらえ途中の食材が並んでいる。
 部屋の中も整然としていて、彼女が家事をきちんとこなしているのがわかった。
「沸いてるの?」
 彼女が渡してくれたハンガーに背広を掛けながら聞くと、彼女は台所に戻りながら答えた。
「うん。ゆずの湯入れておいたよ」
「え、やった」
「出てきたらすぐ食べられるようにしておくからね」
「オッケ」
 下着とかパジャマとかを取りに行ってると、台所からトントントンと包丁を使う音がしてきた。
 僕はこの音が好きだ。
 家に帰ってきたってかんじがするし、なんだか暖かいし。
 彼女とこの家に住み始めてから、この家には確実に光が灯った。
 真野夜蝶。
 彼女と出会ったのは、半年前の夜の公園だった。





 風呂から上がると、彼女の宣言通り暖かいご飯が出来上がっていた。
「美味しそー」
 髪を拭きながら言うと、彼女は嬉しそうにはにかんで笑った。
 何度言っても嬉しそうに笑う彼女を見ると、何度言ってもいいと思う。本当の事だし。
 彼女は本当に嬉しそうに笑うから。
「わ、なにこれ、チーズ?」
「うん。今日のお昼にテレビでやってたの見てたら食べたくなったの。美味しいでしょ?」
「……うん! うまい!」
 彼女は昼も家にいる。
 普通の主婦みたいに、掃除して、洗濯して、買い物して、テレビ見て、本を読んで過ごしてる。
 どっからどう見ても小学生の彼女が学校にも行かずにそんな生活をしている事を不審に思っているご近所さんもいるみたいだが、そこはマンションの利点。何人もいるマンションの住人の一人になんかかまってられないだろう。それにここには噂好きのおばさんもあんま住んでないみたいだし。
 彼女は本当に料理がうまい。
 料理だけでなくその他の家事もよくやる。
 公園で会った時は、なんだかボーっとしていて浮世離れしていたので、ここまで上手だとは思わなかった。
「今日ね、商店街でツバメの巣を見つけたのよ」
 夕飯の時の話題は色々だ。
 昨日は僕の会社の隣の席の人の話だったし、その前は先週の日曜のおでかけの話だった。
「へぇ、どこ?」
「パン屋の所。ほら、布屋さんの隣の」
「あのアンパンマンのパン売ってた店? でもあそこのおじさん動物嫌いだよね」
「うん。それでね、ツバメを追い払いたいんだけど、かわいそうじゃない? もう子供もたくさんいるし。あ、子供ってツバメの子供よ? でね、おじさんたら困った顔しながらほっておいてあげてるんだって。おばさんが笑いながら話してくれたのよ」
「あー。あのおじさんっぽいな、それ」
「でしょ? あたしも思わず笑っちゃった」
 彼女はいつも、小学校が終わった頃に買い物に行く。余計な詮索をされないためだ。
 おかげでいつも家の手伝いをしている小学生と思われている彼女は、商店街でかなり可愛がられている。
「あ、そうだ。今日ね、小学生に話しかけられたよ」
 僕が言うと、彼女は首を傾げた。
「なんて?」
「何かね、どっかで僕とあなたが歩いてるのを見たみたいなんだけど、あなたと友達になりたいんだって」
「へぇ、男の子?」
 悪戯っぽい笑顔で聞いてくる。それは見た目の年相応のものでなく、すでに女性のものだ。
 からかうような。
 僕は肩をすくめた。
「さぁ」
「あ、そういう言い方するんなら男の子なのね。おかしい。はるきさんは、小学生にヤキモチ焼いてるの?」
「そういうあなたも小学生でしょ」
「外見だけよ」
「……」
 彼女の言葉には答えないで黙々と食事を続けてると、彼女の方が観念したように笑った。
「そんな拗ねないで。うそよ。おかしくなんてないわ。嬉しいくらい」
「……別に拗ねてなんかないよ。ちょっと考え事」
「なに?」
 身を乗り出して、ちょっと興味津々で彼女が聞いてくる。
 こうして見ると、まるで噂話に花を咲かせる小学生のように見えなくもない。
「それよりさ、もうすぐ九時だよ」
 僕は目線で壁の時計を指して言った。
 彼女も僕の目線の先にある時計に目をやって、あ、と言う。
「やだやだ、こんな事してる場合じゃないわ」
 彼女の食卓にはまだ半分ほどご飯が残っていた。
「後で食べなよ。待っててあげるからさ」
「うん。ありがとう、はるきさん」
 そう言うと、彼女は椅子からぴょんと飛び降り、ちょっと小走りでリビングの向こうの和室に姿を消した。
 彼女は、魔法をかけられた王女さまのようだ。
 九時を境い目にした魔法。
 一体誰が、そんな魔法を彼女にかけたんだろう。
 かちり。
 時計の針が九時をさす。
 これからが魔法の時間なのか、これまでが魔法の時間だったのか。
 和室の方で衣擦れの音がして、一分もしないうちに、彼女が襖の向こうから顔を出した。
「お待たせ」
 照れたように笑う彼女は、もう十一歳の小学生ではなく、二十七歳の一人の女性だった。