どうしても欲しいものがある。
 どうしてもどうしても欲しい。
 どうしてもどうしてもどうしても欲しいのだ。
 ああ。
 この渇望はきっと。
 世界を変える。


Cry for the moon



 自分では平凡だと思ってる。
 成績は中の上。顔も並。友達はいるし、嫌いな子だっている。おしゃれにもそれなりに興味はあるし、漫画も好きだ。
 でも友達は皆おかしいと言う。
 どこが?
 聞くたびに、どうしてそう聞き返されるのかがわからないような顔を彼女達はする。
 だって信じぃだよ?
 と言う。
 そうだ。目下健全なる女子高生たる私が恋しているのは、信じぃこと日本史担当の塩野信次郎先生だ。
 女子高生と恋。こんな健全な組み合わせが他にこの世に存在しているだろうか。
 否。断じて否だ。
 そりゃあ相手は先生だし、多少の障害はあるのかもしれないが世の中生徒と教師の恋愛なんてあふれかえっている。そもそも同じ年の男なんか皆子供っぽくて点でお話にならない。全然駄目だ。あと三十年修行して出直して来いってかんじ。
 だから世の中の女子中学生や女子高生が真剣な恋のお相手として身近な大人である学校の教師にときめいてしまうのは極めて自然の摂理に近い現象と言えるのではないだろうか。
 そしてそういった自然の摂理に従順な私は現在塩野先生を見かけるたびに心臓がどきどきとしてきゅんきゅんなるという重大な病に侵されてしまっているのだ。
 当然一途な私は日本史の勉学に寝る間を惜しんで励み、お風呂の中でこれはという質問を考え出し、休み時間にはなるべく先生の所に質問に行くようにしている。授業中は誰よりも熱心に彼の声に耳を傾け、時にはその美声にうっとりとしてしまう事だってある。テストで百点取るのは当たり前で、時間に余裕を持って答案を埋めた後は、答案用紙の空いた部分にせっせと先生へのメッセージを書き込んだりする。
 思ったことを我慢できずに口にしてしまう私の恋心は幼児のよだれよりも激しく垂れ流し状態で、もちろん塩野先生ご本人もそれをご存知だ。
 彼は私が質問に来るたびに穏やかに微笑み、こう言う。
「いらっしゃい志鹿沙耶さん。お茶が入ってますよ」
 その笑顔に私のハートはメロメロだ。
 どきどきしてきゅんきゅんする。
「先生大好きです」
 私がこう言うと彼は決まってこう返す。
「五十年後に出直してらっしゃい」
 でも先生。
 五十年後にはきっと先生は生きてないでしょう?
 彼の名は塩野信次郎。
 日本史担当の六十歳。
 定年なんて嫌です先生。ずっとそばにいてください。




 その日は先客がいた。
「あれ」
 珍しいことだ。歴史準備室なんて来る生徒はほとんどいない。ここの住人は日本史担当の塩野先生で、世界史が担当の若い男の教師はほとんど職員室にいることが多い。
 先生の前に座っていたその男子生徒がガラリと扉を開けて入ってきた私を振り向いたので、私は二重に驚いてまた声を上げた。
「あれ」
 私は彼を知っていた。
 いや私だけじゃなくて校内にいるほとんどの人間か彼を知っているのだろうが私は他の人よりも少しだけ特別な理由で彼を知っていたのだ。
「河野先輩」
 三年の河野先輩。
 成績優秀スポーツ万能顔立ちも悪くなく、入学時は首席として挨拶をし、今度の卒業式でも答辞を読む事が決まっている我が校の有名人。
「あ、沙耶ちゃん」
 彼は親しげに私を呼んだ。
 それが少しだけ、私には誇らしい。
 彼は私の姉の彼氏の弟さんなのだ。
「どうしたんですかー? 河野先輩日本史選択でしたっけ?」
「うん。でももう疑問は解けたから」
「河野先輩でも先生に質問に来たりするんですね」
 私が言うと、河野先輩は首を傾げて笑った。
「そりゃするよ。僕をなんだと思ってるのさ」
「お姉ちゃんが天才少年だって言ってました」
「本当の天才だったら普通に高校三年生なんかやってないと思うけど、矢那さんのその言葉は褒め言葉として受け取っておくよ」
 河野先輩はすっと立ち上がると、彼の正面ににこにこと微笑みながら座っている先生に「じゃあ失礼します」と礼儀正しく頭を下げた。河野先輩は本当に育ちがいいというかんじがする。ご両親は幼いころに亡くなったらしいけど、そういった境遇にあるようなすさんだ雰囲気が全くない。それは純粋にすごいと思う。
「じゃあね、沙耶ちゃん」
「あ、はい。失礼しますー」
 思わず私もあわてて頭を下げた。
 同年代の男子は子供だと思うけど、河野先輩は別だ。とても大人なかんじがする。もてるのもわかる。異性だけでなく同性にも、彼はとても評判がいいのだ。
 姉と今の彼氏が結婚すれば、河野先輩とは義理の兄妹ということになる。それはとても嬉しい想像で、私は今からそれが楽しみだった。
「志鹿さん」
「はいっ」
 私はくるっと振り向いて返事をした。
 先生はずっと椅子に座っている。狭い部屋の中には教員用の机が四つ固められていて、椅子も四つある。先生の机は右の手前で椅子はいつもきいきいと音をたてるのだ。机はどれも雑然と荷物が積み上げられていて、先生の机だけがきちんと整頓されているようだった。
「質問ですか?」
 わかりきったことだ。
「はい」
 私は答えてにっこりと笑った。
 日本史の質問には頭を使う。歴史なんてものは過去に実際あったことなのだから、よほどでない限り自分で調べれば答えはわかるのだ。数学や物理とは性質が違う。理解できない問題の方が少ないだろう。馬鹿みたいな質問をして馬鹿な子だと思われたくないし、私はいつも必死だ。
 私が質問をすると、先生は「そうですねぇ」と言って少し首を傾げる。
 私は先生のこの、考える時に少し首を傾げる癖が好きだ。
 無意識にだと思うけど右手の人差し指を眼鏡の下のこめかみに置いてさするようにする。そういう仕草にどうしようもなくどきどきする。髪は半分以上が白髪だし、手は皮がたるんでしわしわだ。体型も小柄でたぶんもともと姿勢の悪い彼は、同年代の男性よりも年配に見えるかもしれない。だから生徒にも、まだ四十代ばりばりの頃から「信じぃ」という愛称で親しまれているのだ。
 声も好き。
 彼は決して声を荒げることがない。
 どんな時も落ち着いていて、穏やかな海の波のような話し方をする。
 先生は私がどんな質問をしても少し考えて、丁寧に言葉を選ぶようにして答えてくれる。その仕草や表情が見たくて、私はいつも頑張って質問を考えている。
 今度も先生は丁寧に答えてくれた。
「これが、一応僕の考えです」
「なるほど。とても、よくわかりました。ありがとうございます」
 河野先輩に影響されてか、私は必要以上に丁寧に頭を下げる。質問が終わったのに椅子を立とうとしない私に、先生は笑って
「お茶でも飲みますか?」
 と言ってくれた。
 もちろん私ははいと答えた。
 ポットは入り口の近くの戸棚の上に置いてある。茶器はその戸棚の中。この部屋の中では、私は決して私が淹れますとか言ったりはしない。この部屋は先生の城なのだ。だから私は、先生が淹れてくれるお茶を待てばいい。
「河野君と親しいのですね」
 今はお昼休みで、私はお弁当をかき込んでからこの歴史準備室にやってくる。先生はお昼ご飯を食べている様子はなくって、一度私が来るせいでお昼を食べ損ねているのではないかと思いそう聞いたら、きちんと食べていますよと優しく答えてくれた。いつ食べているのか。
「あ、はい。河野先輩のお兄さんと、うちの姉が、えーと、お付き合いさせていただいているんです」
「それはそれは」
 とぽぽぽぽと、急須にお湯を淹れる音がする。とても穏やかな音だ。
「素晴らしい」
「素晴らしいですか?」
「素晴らしいでしょう」
 ぺたぺたとスリッパの音をさせて先生がこちらに戻ってくる。先生を振り返ることなくずっと机の方を見ていた私の視界に、突然先生のグレーのスーツが現れる。先生は穏やかに微笑んでいて、右手に持ったお湯のみを私の前に置いてお茶を注いでくれた。先生のお湯のみは既に机の上に置いてある。
「ありがとうございます」
 私はお礼を言った。先生の前ではなるべく礼儀正しくあろうと努力している。たぶん先生は、そういうきちんとした女性が好みであろうという予想があるからだけれど。
 自分のお湯のみにもお茶を注いでから急須を置いて、先生はきいきいなる椅子に再び腰を下ろした。
「お姉さんと河野君のお兄さんがご結婚されたらあなたと河野君はご兄妹ということになる」
「それで私と先生が結婚したら河野先輩と先生もご兄弟ということになりますね」
「そうなると私が弟になりますか」
 突拍子な私の発言にも先生は笑って答えてくれる。
「河野君をお兄さんと呼ぶのは少し遠慮したいですね」
「河野先輩もきっと先生にそう呼ばれたら居心地が悪いと思います」
「そうですか」
 先生はお茶を飲む。
「河野先輩のことは河野君という呼び名のままでもいいので、私と結婚してくれますか? 先生」
 私は聞いた。まだお湯のみに口をつけていない。猫舌なのだ。先生もそれは知っている。
 今は十一月で、ほとんど冬だ。河野先輩は来年の春卒業する。私は三年生になる。
「五十年なんて待てません」
 先生が何か言う前に私は言った。
「私は未来の先生も欲しいけど、今の先生も欲しいんです」
 先生はもう六十だ。
 来年の春。
 河野先輩が卒業するのと一緒に、先生は退職する。学校からいなくなる。私は一年間、いやこれからずっと、先生がいない学校へ通い、先生がいない会社にいかなければいけなくなるのだ。
「先生を好きです」
 吐き出すように言った。
 心臓の奥の方にあるものすべて。
「好きです」
 私は先生から目を逸らさない。
 何度この言葉を言っただろう。
「先生はもう六十年も生きたんだから、あと四十年とちょっとくらいは私のために使ってくれてもいいと思います」
「無茶を言いますね」
 先生はくすりと笑った。
「無茶でしょうか」
「確かに、僕の余生をあなたのために使うのはやぶさかではありませんよ」
「なら」
「でもあなたの貴重な時間を、あなたを愛していない男のために使うことは感心できませんね」
 先生はお茶を飲んだ。喉元がこくりと動く。それがひどく色っぽいと思う私は病気だろうか。
「ひどいことをさらっと言うんですね」
「事実です」
「知ってます」
 そうだ。
 知っている。
 先生が私を愛していない事を。生徒としてしか見ていない事を。私がどんなに好きだと血を吐くようにして叫んでも、彼は決してそれに答えてはくれない事を。私は知っているのだ。
「でも好きです」
「そうですか」
「どんな手でも使いますよ」
「そうですか」
「退職して逃げられるだなんて思わないでくださいね」
「思っていませんよ」
 私は笑った。
「ならいいんです」
 私はお湯のみに手を伸ばした。お湯のみを口に持っていって、先生の淹れてくれたお茶を飲む。
「美味しい」
「もう一杯いかがですか?」
 もちろん私はすぐに答えた。
「いただきます」




 そして私は再確認する。
 うん。
 本当に好きだ。
 もう、たまんないくらい。
 好きです先生。
 四十三歳の年の差なんて関係ないです。
 好きなんだもの。
 先生が欲しいんです。
 どうしても欲しいんです。
 どうしてもどうしても欲しいんです。
 どうしてもどうしてもどうしても欲しいのです。
 先生。
 先生が、三十二の時に亡くした奥さんを今でも愛しているのは知っています。
 それでもあなたが欲しいのです。
 どうかわがままだなんて言わないでください。
 これは私を突き動かす渇望。
 生への欲望と同じくらいに。
 純粋なる衝動。
 たとえあなたの言葉に傷つき血を流しても。
 枯渇することのない情動。



 あなたが好きです。