4.長谷雄草子


 この男は、朱雀門の鬼なりけり。女といふは、もろもろの死人のよかりし所どもを取り集めて人の作りなして、百日過ぎなばまことの人になりて魂定まりぬべかりけるを、口惜しく契りを忘れて犯したるゆゑに、みな解け失せにけり。
 いかばかりか悔しかりけむ。





 僕が彼女を死体の中から作り出した。
 至上で最高の女。
 二人といない女。
 僕に名をつけるために生まれた女。
 僕の名を呼ぶために生まれた女。
 けれど女は僕を裏切り、人間の男に恋をした。
 そして僕のものになるよりも生まれて八十日目に消える事を選んだ。
 恋した男のものとして、水になる事を選んだ。
 僕は失敗した。
 至上で最高の女だと思っていた女は、世界で一番愚かな女だった。
 僕は朱雀門の鬼。
 名ももらえなかった矮小な鬼。
 誰か名をくれ。
 それだけが、僕がこの月に支配された世界を生きた証。





 名とは、一体なんであろうか?
 僕は月の眷属たちにそれを授けるために生まれてきたのだが、いまだそれが何なのかはっきりとはわからない。
 存在を証明するもの?
 自分が自分である証拠?
 では名を持たない僕はなんなのか。
 僕という存在は、なんなのか。
 その答えをくれる人を捜して僕はここへ来た。
 ......字は読めない。
 けれどここから感じる。
 僕が唯一名を授けなかった人。
 自らこの地に生まれる事を望み、自らに名をつけ、自ら女王であることを選んだ人。
 かぐや姫。
 あなたの名だけは、僕の手を離れ限りなく月に近い。
 カランカランと、何かが鳴った。
「......あなた」
「お久しぶりでございます。月の陛下」
 建物の中から出てきた、十八の時の姿とどめたままの女王陛下は、僕を見て驚いた顔をした。
 当然の事だとは思う。
 僕は僕の生まれた所を離れてはいけないのだから。
 あの、最も近く月を感じる場所を離れてはいけないのだから。
 かつて朱雀門と、人が呼んだあの場所を。
 しかし哀れみ深い女王陛下は、仕方がないという風にお笑いになった。
「満月が過ぎたばかりだもの。新しく生まれる者もいないでしょう。さぁおいで、一緒にお茶を飲みましょう」





 建物の中にはいくつかの机と椅子がいくつかあり、そして苦味のある香りがした。
 その香りに僕は顔をしかめた。
 奥から一人の男が現れ、僕を見て首を傾げた。
「お客様ですか?」
「ええ、月の方よ」
 女王陛下にそう紹介され、僕はその男に軽く頭を下げた。男も同じようにお辞儀をする。
 僕は首を傾げた。
 この男からは微かに月の気配がする。しかし僕はこの男に名前を授けた覚えはなかった。
 僕の困惑を読み取ってか、女王陛下はおっしゃった。
「私の薬を飲んだのよ。千年以上前にね」
 なるほど。
 女王の薬は人間には不死の妙薬。
 僕は感嘆を込めてその男をみやった。
 月の眷属らは、女王の守護のもとその形を保っている。本来月の強すぎる力は生物の身体には毒となるが、女王の守護によってそれは浄化されているのだ。
 しかし女王を崇めず女王の守護を受けない月の者たちは、その強すぎる力に耐えられず邪な意識に流されてしまう。その、女王の守護を受けぬ月の眷属を鬼と言う。
 女王陛下の薬は人間にとって不死の妙薬なれど、それは同時に月の洗礼を受ける事を意味している。
 月の強い力をその身に受ける事を意味してる。
 その妙薬を飲み、女王の守護も受けず、いまだ邪な意識にその身をやつしていないとは。
 女王の守護とはつまり、僕が与える名前だ。
 僕が授けた名がそのまま女王の守護となる。
 月の名を持たず、その身に月の力を受けながら、その力に抗う者。
 そんな者を僕は他に一人しか知らない。
「?何か?」
 僕があまりにぶしつけに視線を向けたので、男は少し困ったようにはにかんだ。
「ああ、帝。コーヒーはだめよ。お水にしてあげてちょうだい」
「え?はい」
 女王陛下が男の手からなにやら泥色の液体の入った容器を取り上げ、新しい透明の容器を差し出した。男はそれを受け取り、氷を入れて水を入れる。
 そしてそれを僕の前に置いた。
「どうぞ」
 男がにこりと笑う。
 僕はお礼を言った。
 水を飲む。
 僕は顔をしかめた。
 そんな僕を見て女王陛下は笑った。
「我慢してちょうだい。あなたがいた所にあった湧き水とは質が違うのよ」
「あなたさまもこのようなものをお飲みになっているのですか?陛下」
 そうよ、と女王陛下がおっしゃるので、僕は我慢してそれを一気に飲み下した。
 この方が、このような飲み物で耐えられているのが遺憾だった。
 この尊いお方が耐えられていらっしゃるのに、僕が耐えないわけにはいかなかった。
「それで?」
 空になった容器を下げて、女王陛下が促す。
 男は他の人間に呼ばれて席をはずした。『けーき』がどうとか。
「あなたがわざわざ、生まれてからずっといた所から離れて来たのだもの。大事な用なのでしょう?」
 ええ、そうです。
 脳裏に浮かぶのは僕がずっと住んでいた所。
 あの。
 女王陛下がお生まれになった、竹のすぐ側。
 赤い門の立つ場所。
 朱雀門と人が呼ぶ場所。
 もう、二度と戻らない場所。
「どうかこの僕に名をください月の陛下。僕は死を賜りたく存じます」





 僕の生は『名』というものに支配されている。
 生まれた瞬間は覚えていない。
 ただ僕は、目が覚めたらそこにいた。
 僕の最初の役目は、女王陛下を取り上げる事だった。
 あの竹の中から。
 光る竹の中から。
 満月の夜。
 竹は銀色に輝いていた。
 僕の身を焼いてしまうほど高潔な光。
 その中のあの方はいらした。
 僕はあの方に名を授けなかった。
 それはそうだ。
 あの方には既に名があったのだから。
 あの方自身が定められた、
 かぐや
 という名が。
 やがて、一人の老人がやってきて、光り輝くあの方を連れて帰った。
 僕は一人になった。
 けれど役目を失う事はなかった。
 女王陛下がお生まれになったのを引き金に、この星には次々と月の眷属たちが生まれてくる。
 女王の下僕が生まれてくる。
 その存在の証に、僕は彼らに名前を授けなくてはならない。
「桃太郎」
「酒呑童子」
「一寸法師」
 僕の役目は、時は、連綿と続いた。
「乙姫」
「雪女」
「狼男」
 一人で。
 けれど僕に名はない。
 なぜなら月の眷属に名前を授けるのは僕だから。
 僕は僕に名を与えられない。
 僕に名を与えられるのは、僕を殺せる者。
 心臓を刺しても首を切っても死なない月の眷族には、それぞれにただ一つ、『死の条件』がある。
 人に正体を知られた雪女が水に返ったように。
 僕の作った女が人と交わり水に返ったように。
 僕に名が与えられた瞬間、僕は水へ、月へ還るだろう。
 それが僕の『死の条件』。
 雪女が人に正体を知られたように。
 僕の作った女が人と交わったように。
 もし僕に名が与えられれば、
 僕は月へ還るだろう。
 役目さえも放棄して。
 けれどそれが僕の本望なのです。
 どうか陛下。
 どうか。
 僕に僕である証をください。





 女王陛下は悲しげに微笑んだ。
 ああ、この方は、なんどこのようなお顔をなさったのだろう。
 わがままな下僕達のために。
 なんどその哀れみ深いお心を砕きになさったのだろう。
「私に、あなたに名を与える事はできないわ」
「ええ、存じております。この僕に名を授けられるのは貴女様のお役目ではございません」
 僕は僕の後ろで人間の相手をしている男に目を転じた。
「僕が授けた名もなく、月の光受けるあの鬼の男の役目でありましょう」
「......」
 月の名を持たず、月の光を受けるものは鬼だ。
 その心の善悪に関わらず、鬼なのだ。
 そしてその心まだ悪に染まらぬままいる鬼など、今この世界には、あの不死の薬を飲んだ男と、僕しかいないだろう。
 僕と同じ者。
 だからこそ、あの男にはその力がある。
 僕を殺す力。 
 僕に名を授ける力。
 そして、
 『僕』に成り代わる力。
 汚いと知っている。
 僕は押し付けようとしているのだ。
 この、限りなく孤独なこの役目を。
 誰かに。
 そして一人安らぎたいと思っている。
 なんて浅ましい。
 なんて。
「......そんなことはないわ」
 女王陛下が至高の声を紡がれる。
「そんなことはないわ。ねぇ、そんな顔をしないでちょうだい。あなたは、千年以上もの長い時を、よくぞ耐えてくれました。よくぞ、勤めを果たしてくれました」
 ああ。
 陛下。
 僕の頬を透明で暖かいものが流れる。
 何百年ぶりか。
 こんなにも静かに、涙するのは。
 女王陛下は、母のように笑ってくださった。
 その笑顔の向こうに思うのは、いつも浴びていたあの月の光。
 ああ。
 陛下。
 あなた様は、真実、月の化身でいらっしゃる。
 朱雀門に注がれた月の光、それよりも強いものをあなた様から感じます。
 強く。
 僕ははらはらと涙した。
 止まらなかった。
「大丈夫よ。もう、大丈夫」
 女王陛下は微笑まれた。
「誰かを孤独にして生まれてくる命なら、私は必要だとは思わない。
 月に頼むわ。もう誰も産まないでと。
 だって私は十分よ。
 私を愛してくれる眷属達はもうたくさんいるわ。
 だから」
 大丈夫。
「帝」
「はい」
 女王陛下が男を呼ぶ。
「帝、この男にはね、名前がないの」
「はい」
「この男はね、常に月の一番側にいて、誰よりも早く、新しい月の子供が生まれた事を知って、名前をつける役目にあるの」
「はい」
「この男にね、名前をつけた者は、代わりにその役目を負わなければならないの」
「はい」
「けれどね、その役目は私がなくしてしまうわ。嫌いだから」
「はい」
「だから、この男に名前をやってちょうだい」
「はい」
 男はふわりと微笑んだ。
 この上なく幸せそうに。
「かぐやに、役に立てる日が来るとは思いませんでしたよ」
「貸しが高くつきそうね」
「ええ、お返しが楽しみですね」
 そう言うと、男は僕に向き直った。
 僕はまだ涙が止まらなかった。
 そんな僕を見て、男は嫌な感じでなく笑った。
「泣く事はよい事ですよ。あなたの気持ちが溢れて、涙が出てくるのですから」
 こんな事を言う男に名前をつけられるのが、僕は少し嬉しかった。
 僕は目を瞑った。
「お休み、『......』」
 男が、ゆっくりと僕の名前を紡いだ。





 昔、死人から一人の女を作った。
 もうはっきりとは覚えていないが、黒い髪に銀色の双眸をした女だった。
 銀色は、月の色だ。
 女王の色だ。
 その女が人間の男と交わり僕を捨てた時、しかし僕は泣かなかった。
 心は凍っていた。
 しかし今、僕の心は泉のように溢れている。
 孤独も、憧憬も、畏怖も、狂気も、感嘆も。
 全てが僕の中から溢れている。
 『名』だ。
 今、僕にそれが授けられた。
 ああ、なんて事だろう。
 この喜びを、どう表せばいいのか。
 これで証明できる。
 僕がここに生きたその事を。
 その記憶を。
 僕は僕だ。

 その存在を今、僕ははっきりと言える。