可愛い

Open Menu
「正直なところ俺は、これから生まれてくる赤ん坊を無条件に愛せるかどうか、自信がないんだ」
 広兼は言うと、ぐしゃりと自らの前髪を握り込んだ。
 生まれる前から魔女であるとわかっていた子供だ。まだ母の胎内にいたにもかかわらず、その力でもって母と仲間の魔女を救った。
 曰くつきの赤子。
 色眼鏡で見るなという方が無理な相談だ。広兼にとって妻の腹から出てくるそれはすでに、無垢な赤子ではなく未知の能力を持った魔女なのであった。
 しかしもちろん、そんなことを早苗には言えない。
 見ていれば彼女が腹の中の赤子を心から慈しんでいるのがわかるからだ。早苗は自らの子供が魔女であったことを、歓迎さえしているようである。だからこそ決して、この悩みを彼女には言えなかった。
「自信がない、ね」
 どうでもよさそうな声音を含んだ言葉に、広兼は視線を上げる。すると椅子の肘掛けに頬杖をついた南の国の王が、葡萄酒のグラスを片手につまらなそうな顔をしていた。
 広兼はすぐに後悔する。
 ——ああ、なのにどうして、今さら父などに話してしまったのか。
 それも、早苗が出産に臨んでいるこの時に、である。
 陣痛がやってきたのは三時間前のことだった。あの我慢強い早苗が痛みで脂汗を流し動けなくなるところなど初めて見た広兼である。すぐに産婆が呼ばれ、瞬く間に分娩の準備が整えられ広兼は部屋から放り出された。
 どれだけ知識を持とうとも、分娩は女性の仕事なのだ。
 部屋の中から聞こえる早苗のうめき声や励ます母達の声を聞きながら、広兼が廊下でうろうろと歩き回っていると、やってきた父王に「少し落ち着け」と言われ隣室に引っ張り込まれたのが数分前だ。
 父王の従者によって葡萄酒が用意されたが到底飲む気にはなれない。
 隣室では最愛の妻が生命を生み出すという偉業を成し遂げようとしているのだから。
「じゃあ聞くが、無条件の愛とはなんだ」
「……ああん?」
 広兼は、この父を賢者の王としては一目置いていたが男としては到底理解できないと思っていた。
 そもそも何人も妻を持つ意味がわからない。
 早苗と出会うまでは、自分は結婚すらしないだろうと思っていた。早苗以外の女を側に置きたいなどと思ったこともない。そんな父に、愛について問われるとは思っても見ないことであった。
「無条件の愛っていうのはだから無償の……」
「言っておくが、無償の愛なんていうものは存在しないぞ」
 四人もの妻を持つ王の言葉には不思議な重みがあった。
 王は嘲笑する。
「西の国の王子の影響か? ずいぶん甘いことを言うじゃないか。見返りのない愛なんてあるものか」
「言っておきますけどね、隣には陛下の四人の妃がいらっしゃるんですよ」
「あれらが俺を愛しているのは、同じかそれ以上の愛を俺が返しているからだ」
 親達のそんな話など聞きたくもないと広兼は首を振る。
 隣室の様子が気になってたまらず立ち上がった広兼は、部屋から出ようと戸口に向かった。
「もういいです。俺は廊下にいるので、陛下はお一人でどうぞ」
「俺はお前を愛しているぞ」
 ぴたりと足を止めた広兼は、あからさまに顔をしかめて振り向いた。
「気持ち悪ぃ」
 すると南の王ははははと腹を揺らして豪快に笑う。
「どのガキどもも愛している。だけどそれは、お前達が俺の血を継いでいるからじゃねぇぞ」
「酔ってるんですか?」
 広兼は眉を上げた。
 南の王はワインを一口含んでから続ける。酔っているのかと聞いたものの、この男が酒に酔っているところなど見たことがない。脂肪で膨れた顔に鋭い眼光を宿らせる南の国の王は、どんな状況でだってその頭を鈍らせることはないのだ。
「血などに意味があるものか。その証拠に、自分の子供であろうが関係なしに虐げる親はいる。そんなものは理由にならない。——俺がお前を愛しているのは、」
 王はにやり笑った。
「生まれてきたお前が俺の指を握ったからだよ」
 予想外の答えに、広兼は目を丸くした。
 息子のそんな反応など気にしない様子で南の王はグラスを煽る。
 広兼は、この男が酔っているのを見たことがない。
 けれどもしかして今は酔っているのではないか、と初めて思った。顔色は変わらないが、いつになく表情が柔らかい。
「お前は可愛かった。その可愛さだけで、一生愛するに足るほどにな」
「気持ち悪ぃ」
 もう一度そう言ったのは、他に何と言えばいいかわからなかったからだ。父王に可愛いなどと言われた記憶など、これまで一度もない。何となくその場に居づらくなって再び扉に向かった広兼の背中に、王は静かな言葉をかけたのだった。
「愛を知っている人間ならば、愛を与えられれば愛を返したくなる。愛情とは、そういうものだ。そして赤ん坊というものは、周囲に愛しかもたらさない生き物なんだぞ」
 愛などという不確かなものを賢者の王が論じるなんて、誰が想像するだろう。
 けれどもしかしたらこの男は、四つの国のどの王よりも愛というものを理解しているのかもしれなかった。
 愛情の伝え方を知らない北の王よりも。無骨な西の王よりも。多くの恋をしてようやくたった一人に出会った東の王よりも。
「そしてお前は愛を知っているはずだ。俺と妃と兄たちがそう育てたからな。愛とは何もないところから生まれる幻の名前ではないんだ。だから何も、恐ることはない」
 広兼は何も答えずに扉を開けて廊下に出た。
 すると同時におぎゃあああ! という赤ん坊の声が隣室から聞こえてきてはっと顔を上げる。扉を開けて躍り出てきた侍女が、そこにいた広兼を見つけて跪いた。
「おめでとうございます! 王子殿下ご誕生でございます!」
 女官を避けて赤ん坊の泣き声がする部屋に駆け込んだ広兼は、喜びに湧く産婆や侍女たちの向こうの寝台で、乱れ髪に汗をかき、ぐったりとしながらも笑顔の妻が赤ん坊抱いている姿を見て息を止めた。部屋の中はむっとした熱気と歓喜で充満している。
 早苗が夫に気づいてにこりと微笑んだ。
「……広兼様」
「早苗」
 掠れた声で名を呼ばれ、広兼はすぐ妻に駆け寄り寝台の横に跪いた。
「大丈夫か?」
「ええ。見てください」
 早苗が腕に抱く生き物を夫に見せる。
 ——赤ん坊は大丈夫かと思うくらいに赤く、頼りないほどに小さかった。たった今この世界に出てきた命だ。世界中の何よりも無垢な幼い手がぎゅっと空を掴んでいる。
 広兼はこの瞬間、それまで抱いていた屈託を捨てた。
 曰くつきの赤子?
 そんな赤子がいるものか。
 この世界に生まれてきた赤ん坊はすべからく無垢で純粋でしがらみさえ何も持たない。
 知らず目頭が熱くなる。
『お前は可愛かった。その可愛さだけで、一生愛するに足るほどにな』
 彼はこの時初めて、侍女らがいる前で泣いた。
「……ありがとう、早苗」
 そしてこの日を一生忘れないだろうと思ったのだった。



▲top