水もしたたる東の王様

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 友人や妻には馬鹿だの変態だの言われる鳥代であるが、一応その正体は一国の王である。
 国内で何か問題が起きれば執務に追われ、ろくに妻や息子と話せない時だってある。
 収穫の時期が差し迫ったその時も、領地内で重なって起きた蝗害の対策とそれにともなう国庫の放出、天候不良のため不安の残る冬の備えのために、鳥代は頭を悩ませていた。
 しかしそれでも毎晩執務室に備え付けられた寝室ではなく、自分の寝室に戻って眠ったのは、愛する妻の顔を一目なりとも見るためだ。彼が寝室に行くといつも珀蓮はすでに眠ってしまった後だったが、彼は毎晩その隣に潜り込み、眠る妻を抱きしめ一息ついてから気絶するように眠った。
 そして朝日が上る前にバチリと目を覚ました彼は、抱きしめて眠ったはずの妻がなぜだか寝台の端っこでこちらに背を向けていることに首を傾げながらも、一刻も早く問題を片付け妻との甘い時間を過ごしたい一心で寝台を抜け出し、再び執務室に向かうのだった。


「終わった!」
 最後の書類に押印した鳥代は、晴れ晴れとした気持ちで両手を上げた。
「ついに終わったぞ! やった!」
「それではこちらの書類は持っていきますね」
 ここ数日毎日顔を突き合わせ、ああでもないこうでもないと共に財政対策について頭を悩ませていた国庫管理が担当の翠明博士は、こちらも鳥代と同様やつれた顔をしていたが、眼鏡の向こうの表情は晴れやかであった。
「陛下はもうお休みになられますか?」
 翠明はとんとんと書類を机の上で揃えてから両手で抱えるように持つ。
 ゆるやかな明るい茶色の髪を耳の下で切りそろえた翠明博士は、老獪な学者たちからも一目置かれる才媛だ。鳥代よりも確か十ほど年上だが、成人を迎えた息子がいるとは思えないくらい若く見える。
 まだ珀蓮と結婚する前——学者の中に埋もれていた翠明を見出して王宮の官吏の職を与えた時は、魅力的な彼女に対する下心が皆無とは言えなかったが、今となってはただひたすらその能力を重用している鳥代である。
 つくづく自分には人を見る目があるな、などと広兼などが聞いたら「ふん」と鼻で馬鹿にされそうなことを思いながら、鳥代はがたりと立ち上がった。
「ああ。後は頼んだ。今日はもう俺を呼ぶなよ。いいな。絶対だぞ」
 しつこく念を押してくる王に、翠明はくすりと笑って頷いた。
「かしこまりましたわ。陛下」


「珀蓮!」
 途中捕まえた女官から、王妃が部屋で身の回りの整理をしていると聞いた鳥代は、パーンと扉を開け輝くような表情で妻の名を呼んだ。
「終わったぞ! 終わったー! 疲れたー!」
 ここまで忙しいのは本当に久しぶりだった。
 疲れていたし今すぐ寝たいのも本音だったが、まず珀蓮を愛でないと始まらない。結婚してからこんなに彼女をほったらかしにしたのはこれが初めてなのだ。
 長椅子に座り、テーブルを囲む侍女たちと何やら話していた珀蓮が振り向く。
 数日ぶりに太陽の光の下で見る妻は、はっとするほど美しかった。息を飲むような美貌を持つ白雪姫は、何年経ってもその輝きを失うことはない。
 夫の来訪に気づいて立ち上がった彼女に駆け寄り、殴られることは覚悟の上で抱きしめた鳥代は、「悪かったな。ずっと放ったらかしていて。寂しかっただろう?」と言った。
『寂しい? 寝言は寝て言いなさい』などという冷たい言葉と冷たい視線を予想していた鳥代であるが、意外なことに珀蓮はにっこりと微笑む。
「お仕事は終わったの?」
「ああ。ひと段落ついた。少なくとももう今日は執務室には戻らない」
 さすがの珀蓮も寂しかったのかもしれない。
 これは寝てなどいられないぞ。
 鳥代はそう思うとまず何より妻の唇にキスを落とそうとしたが、それを避けるようにぐいと胸のあたりを押されて一歩背後に下がらされた。
「なんだよ」
 キスを遮られ、重ねて文句を口にしようとした東の王であったが、バシャン! という音がして一瞬視界から妻が消える。
 しん、と不自然に静まり返った室内に、ぽたり、ぽたりという水のしたたる音がした。
「……一応、先に理由を聞いておこうか」
 水甕を持ちこの国の王に頭から水をかぶせたのは背後から近づいてきた王妃の侍女である。気高い王妃に心酔する侍女がそんな蛮行に及んだのがその王妃の命令であることは、火を見るより明らかだった。
「ひどい臭いがするわよあなた」
 濡れ鼠のようになった夫を前に珀蓮が艶然と微笑む。
 それは早苗の野菊のような微笑みと違って、相手を緊張させる大輪の薔薇の微笑みだ。美しすぎる白雪姫は、その美しさでもって相手に畏怖さえ抱かせる。
「毎晩毎晩、他の女の香りをさせたあなたが寝台に入ってくるのを耐え続けたのだから感謝してほしいくらいだわ。ええもちろん、博士とはお仕事をされていらしたのよね。そこは疑ってはいないわ」
 珀蓮はくるりと鳥代に背を向けて二歩足を前に進めた。
 妻の濃紺のスカートの裾と靴に水が飛び散っているのがわかる。
 水甕を持った侍女たちはすすと音を立てないまま部屋を辞して、室内には王と王妃だけになった。彼女らが囲んでいたテーブルの上には、王妃の宝飾品が並んでいる。
「それでも、他の女の香りを消さないまま夫婦の寝台に入ってくるのは礼儀に反することよ」
 鳥代は、自分の中の怒りがしゅるしゅるとしぼんでいく音を聞いた気がした。
 一歩で珀蓮との距離を詰め、背後から強く抱きしめる。
「濡れるから離して」
 珀蓮は身じろぎもせずに言った。
「嫌な思いをさせてすまなかった」
 嗅ぎ慣れた甘い香りのする妻の黒髪に顔を埋める。
「あの水甕の水は三日前から準備させていたものよ」
「よしあんたも一緒に今から水浴びをしよう」
「一人でいってらっしゃい」
 鳥代は珀蓮の顎を掴んでくいとこちらを向かせると、逃げられる強さでその唇を塞いだ。
 相手の抵抗がないことに気を良くして今度は珀蓮の前に回り、腰を抱いて口づけを深くする。二人の温度が溶け合うようなキスに、鳥代はしばし夢中になった。
 顔を離すと珀蓮は少し涙目になっていて、口紅が薄くなり唇からはみ出してしまっていた。
 それを優しく拭ってやってから自分の口の端もぐいと拭い、「よし」と頷く。
 珀蓮が「何よ」と眉を上げるのと同時に彼は妻を横抱きにした。
「きゃあ! 何するのよ! 下ろしなさい!」
「嫌だ。俺はもう今日はあんたから離れないって決めたんだ」
 言いながら大股に歩き、先ほどまで珀蓮が座っていた長椅子に腰を落とす。彼女はさっと鳥代の膝から逃れようとしたが、がっちりと腰を掴まれており身動きが取れない。珀蓮はぎろりと鳥代を睨んだものの、ため息をついてそれ以上の抵抗を諦めたようだった。
 彼は珀蓮を捕まえていない方の腕を伸ばしテーブルの上の首飾りを手に取ると言った。
「これらをどうするつもりだ」
「もういらないから売ろうと思って」
「新しくほしい宝石でも?」
「これだけ売れば国庫の一角くらい埋められるわ」
 まさか、とは思ったが本当に珀蓮がそんなつもりだったとは。鳥代はため息をついた。
「あんたがそんなことをする必要はない。別にうちの国は貧乏というわけではないんだぞ」
「……わかってるわよ」
 ぷいとあさっての方向に顔を向ける珀蓮を見て、鳥代は再度息を吐いた。
 賢い方法とは言えないが、妻が自分にも何かできることをと動こうとしたのは鳥代や国のことを思ってに違いない。
「あんたさぁ……」
 首飾りをテーブルの上に戻した鳥代は、珀蓮の頰に手のひらを当ててこちらを向かせた。
「卑怯でしょ。可愛すぎるんだけど」
 珀蓮は目を細めて答えた。
「目がおかしいんじゃなくて? わたくしは可愛いのではなくて美しいのよ」
 褒めたのにそんな答えが返ってくるとはさすがは白雪姫である。
 鳥代は笑った。
「そうだな。あんたは美しく可愛らしい俺だけの白雪姫だよ」
 そう言って、東の国の王は妻の口紅を完全に拭いとってしまうために身をかがめたのだった。



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