苦しい恋の結末

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「陛下、こちらはルカイアン公爵家の後継問題に関する嘆願書です」
「ああ。そこに置いておけ」
「ザザーランの鉱夫の暴動は鎮圧されましたが、暴動の主導者が領主の不正を訴えていますね」
「ザザーランっていうと……ラリア侯爵か。直接話を聞く。即刻王城に来させろ」
「かしこまりました」
「新兵訓練式の件はどうなった?」
「オル将軍の報告が……まだですね。催促しておきます。ところで陛下」
 ライナス=エレインはがしりと主人の肩を掴み、渋面で言った。
「どちらへ行かれるのですか?」
 すでに執務椅子から立ち上がり、外套をまとっていそいそと出かける準備をしていたこの国の王、ヴィリオレイ=レド=ネストルは眉を上げて臣下を一瞥する。
「ああ? 城下視察だよ。城下視察」
 ヴィリオは肩を回してライナスの腕から逃れるとすたすたと廊下に出たが、もちろんそのまま主人を逃すライナスではない。ライナスは自分もまた大股で執務室を出るとぴったりと王の背後に張り付き、静かな声で諫言を口にした。
「劇場へのお出かけはお控えください」
 この場合、ライナスの言う劇場とは、ほかでもない城下町の小劇場オッリ=ベッカ座のことだ。
 前回オッリ=ベッカ座へ出かけてからまた一月が経っている。ヴィリオレイ王の我慢にそろそろ限界がくることをライナスも予想していたが、いかんせん前宰相を罷免して牢獄に入れてからまだ三月も経過していない。城内で整備すべきところはまだ多くあるし、時間がいくらあっても足りないのだ。
「うるせぇなあ」
「仕事が山積みです」
「城下視察も仕事だろ」
「優先順位を間違えないでください」
「間違えてないから出かけるんだよ」
「陛下」
 ライナスはぴたりと足を止めた。
 突然立ち止まった臣下に気づき、ヴィリオは怪訝そうに顔を歪めて振り向く。
 ライナス=エレインが公爵家の嫡男でありながら、官職につかずヴィリオの従者を続けているのはライナス自身がそれを望んでいるからだ。彼はヴィリオに初めて出会った十代のころからずっとこの軍人上がりの王を尊敬していた。心酔していると言ってもいい。
 だがそのライナスにして、こんなふうに誰か執着するヴィリオを見るのは初めてのことであった。
 もともと、ヴィリオレイ=レド=ネストルは一度愛着を持ったものはとことん大事にする性格だ。愛用の剣の手入れは欠かさないし、お気に入りの兵書は紙が擦り切れるほど読み込んでいる。当然軍人時代の部下の評判もいい。
 けれど彼がここまで、一人の人間に愛着を持ったのはレネ=オールストンが初めてだった。
 おそらくこれは、ヴィリオにとって初めての恋なのだ。
「なんだ」
 三十歳にして遅い初恋の渦中にある王は、突然黙り込んだ臣下を怪訝そうに睨め付ける。
 ライナスは一度小さく息を吐き、苦い顔で言った。
「あなたは王で、あの娘は売れない女優です。お分かりですね?」
(まさかこの人に、こんな苦言を呈する日がくるなんて)
 とライナスは思わずにおれなかった。
 王の妃が、なんの身分も地位も待たない市井の娘ではありえない。百歩譲って愛妾として召しかかえることはできるだろうが、そうしてレネ=オールストンを王城に入れた場合、彼女を待っているのは苦難の日々であろう。彼の王が出会ったのは、幸福な結末などありえない恋だった。
(早々に諦めるべき恋だ)
 それは王の怒りを覚悟しての苦言であったが、ヴィリオはライナスの予想に反してにやりと笑った。
「気が早いなライナス。レネはまだ僕のものにもなっていないのに」
「あなたが狙いを定めて手に入らぬものなどないでしょう。手に入れてもいずれ手放さねばならぬなら、最初から手を伸ばさない方があの娘のためになるのでは?」
 手に入れたなら手放すのが惜しくなる。
 恋が叶えば、別れるのが辛くなるだけだ。
「ライナス」
 しかし王は静かに彼の名を呼んだ。
「僕は、必ずレネ=オールストンを手に入れる」
 それはまるで、当然起こるべき事象を語るような声だった。
「そして手放すこともしない。僕の手の中であれが苦しみもがくならそれは仕方のないことだし、それはあの娘の問題で僕の問題ではない」
 ライナスは唖然として眉を寄せる。
 そんな臣下の肩を、ヴィリオはバンと叩いてからからと笑った。
「お前が心配することなど何もないから安心しろ。レネ=オールストンを僕のものにして僕以外の男には指一本触れさせない——到達点はそう決まっているのだから、あとはそこに至るまでの道筋を考えるだけだ。難しいことじゃない。そうだろう?」
 ヴィリオはそう言うと、さっと踵を返した。
 ライナスは、遠ざかる王の背中をもう追うことはせず、ただ今言われた言葉を何度か反芻してやがて大きなため息をついたのだった。
 目的を果たすために策略を巡らせるのはヴィリオレイ=レド=ネストルの得意とするところだ。彼がああ言うのなら、遅かれ早かれ、彼は彼の望みを叶えるのだろう。レネ=オールストンが何を望むかなど、ヴィリオには関係ないのだ。——あの娘が聞いたら、顔を真っ赤にして怒るだろうが。
(オールストン嬢には不運としか言いようがないな)
 女優を夢見る蝶がヴィリオレイ王という蜘蛛がはった罠にかかる様を想像して、同情を禁じ得ないライナスなのであった。



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