目覚めたジーリスは、状況を理解できなかった。
全身がひどく重く、部屋は寒い。熱があるようだ。
視界は薄暗く、異質に思えるほど静かであった。
雪が降っているのだ、と気付いたのはすぐ目の前に窓があったからだ。青みがかった黒い夜の中をちらちらと降る雪にぼうっとみとれていたジーリスは、ふいに現れた影に木戸を閉められてしまってがっかりした。
音もなく光源が生まれる。
炎だ。
何もない空中で、小さな炎が燃えている。その灯りの中に浮かび上がった金髪の恐ろしく綺麗な男は、ベッドに横たわるジーリスをじっと見下ろしていた。
「どうして」
喉から出た声は幼い少女のそれであった。
自分のものではありえない他人の声。それに、数百年ぶりに声を出したかのような感覚。
ああこれは。
なんてこと。
「見つけた時、お前の魂は三百年という月日の磨耗で消えかけていた。だから死にかけていたその娘の中に押し込んだんだ」
彼女は緩慢に二度瞬きをする。
「……この子は」
「お前の魂が入ったおかげでかろうじて一命をとりとめたようだな。五、六歳か? 薄汚いせいで男か女かもわからなかったが、女でよかった。一時的なものとはいえ、お前を俺以外の男の中に居候させておくなんて考えたくもない」
少し離れたところに立っていた男はおもむろに近づいてきて、ジーリスの前で膝をつくと横たわったままの彼女の頰に触れた。
「会いたかった」
その言葉が嘘ではないと目を見ればわかる。
数十年を連れ添った夫なのだ。
ジーリスの視界が涙で滲む。
それは怒りのせいでもあったし、悲しみのせいでもあったし、確かに、喜びのせいでもあった。
「会いたかった。ジーリス」
ザーティスがもう一度言う。
彼は祈るように少女の身体の髪を一房取ると、そこに唇を押し付けた。
きらきらと輝く銀色の髪だ。かつての自分と同じ。
そう思っていると、雫が一粒ジーリスの上に落ちてきた。
え、という驚きでジーリスの涙がぴたりと止まる。
なんてこと。
彼の瞳が涙を零すなんて。
覚えている限り、夫が泣いているところを見たことなど一度もない。
ザーティスはいつだって傲慢で尊大で、けれど危うかった。
ほとんど無意識に、重たい腕を持ち上げる。視界の中に入ってきたその手のひらは間違いなく子供のもので、指はあかぎれやせ細っている。
(かわいそうな子)
少し意識して探してみれば、まだこの身体の中にその少女の魂が眠っていることがわかった。淡い茶色の髪をした少女が自らを守るように小さくなって眠っている。まだほんの子供なのに、その子はもう誰かに助けを求めようとはしていなかった。
(ごめんね)
ジーリスは少女に謝ってから、持ち上げた手のひらで夫の頰に触れた。
謝ったのは、他人の身体を借りているというのに——目の前の男の妻であるかのように振る舞うのは適切だとは思えなかったからだ。少女の意識があったなら、青ざめて手を引いていたかもしれない。
「ジーリス」
ザーティスが、小さな手のひらに頬をすりよせ懇願するように妻の名を呼ぶ。
「もう俺を置いていくな」
夫の揺らめく灰色の双眸がこちらを覗き込んでいた。
胸が苦しい。
——なんてことなの。
妻の魂を繋ぎとめるためだけに幼い少女の身体を器として使った彼を、責める言葉が見つからないなんて。
『お願いよ。ザーティス。私を不安にさせないで。一人にしないで』
先にそう願ったのは自分の方だった。
置いていかないでと。
あの時彼は、自分が死にそうな時は必ず先にジーリスを殺してくれると誓ったけれど、ジーリスは家族に言葉を残す間もなく死んでしまったのだ。
「ごめんなさい」
夫が自分の後を追わなかった理由はわかっている。
ジーリスが死んですぐ自らも命を断てばきっと、彼はこんなにも心が擦り切れてしまいそうな月日を過ごすことはなかったのに、そうはしなかった。
ああ、目が熱い。
彼は確かに、自分と同じものを愛してくれていた。
「……ありがとう。ティレアリアを一人にしないでくれて」
夫の精霊としての性質を強く受け継いだ娘——ティレアリア。
ザーティスがいなければ、あの子は孤独に生きていかなければならなかっただろう。
彼は、娘を守ったのだ。
最後まで。
「愛してる。ジーリス」
ささやくようなその言葉は一切の淀みのない真実で、今はただ彼女はその心地の良さに身を任せたのだった。
「名前は?」
「……エルケ」
目覚めると、見知らぬとても綺麗な男がいたのでエルケは怯えるのも忘れて呆然としてしまった。
母に捨てられこれまでなんとか生きてきたが、ついにお迎えというやつがきたのだろうか。そういえば、ひどく寒くて気持ち悪くて立っていられず、どこかの路地で倒れてしまったのだった。もしかしてここは死後の世界というやつか。
……それにしては、ただの安宿に見えるけど。
「エルケか。とりあえずそこのを飲め。冷めているが、薬湯だ」
窓際の壁に寄りかかっている男は、こちらに近づく様子も見せずに言った。
しかし、かなりな違和感がある。年季の入った木の板に囲まれたこぢんまりとした部屋の中に、人とは思えないような容貌の男がいるのだから。まるで肥溜めに蝶。馬の糞の中に宝石だ。
「あ、はい……」
エルケは肘をついて身体を起こした。
すると驚くほど身体が軽い。そういえば、身体中にこびりついていた垢が落ちているようだ。べたべたとした感覚がなくなっていて、これまでにないくらいすっきりとした気分である。
(やっぱり死んだのかも)
そう思いながらベッド横に置いてあった薬湯に手を伸ばしたエルケは、さらりと顔の横に落ちてきた自分の髪を見て仰天した。
「わ!」
薄汚れて何色かもわからなくなっていた自分の髪が、いつの間にか透き通るような銀色になっているではないか。
「え、髪が。あれ? どうして?」
「洗ったらその色になったぞ」
「え? そうなの?」
昔は茶系の髪だった気がするのだが……。
男は息を吐くとエルケの方に歩み寄ってきて、薬湯を手に取ってエルケの口に運んだ。
「いいから飲め。飲まないと回復しない」
「あのでも、結構元気なかんじなんですけど……」
「あれが頑張っているだけだ。お前の身体が回復しないと、あれに負担がかかる」
「あれ? ってなんですか?」
「いいから飲め」
ぐいぐいと椀を口に押し付けられ、エルケは仕方なくそれを飲んだ。
「うわ、苦い」
顔をしかめる。ぴりりとした苦味は、空腹に耐えかねてその辺に生えていた植物を食べた時に似ていた。
「我慢しろ」
しかし男は容赦なく言う。
なんとか我慢して薬湯をすべて飲み干したエルケは、苦味の残る舌先をざりざりと歯でこすりながら男をちらりと見上げた。
「……あの、あなたは誰ですか?」
エルケの名前は聞いてきたくせに、一向に名乗る様子がない。まるでどこかの王様のように傲岸不遜な男であった。
「……ディルクだ」
「ディルク、さん」
「これから、お前の面倒は俺が見る」
「は?」
エルケは瞬きをした。
いったい何が起きているのだろう。
「怪我をするな。病気になるな。自分の身体はもっと丁重に扱え」
「……はぁ」
「側にいる代わりに、お前を守ると約束した」
誰と? と問う言葉はなぜだか出てこなかった。
まだ母と暮らしていた頃、近所のおばさんが読み聞かせてくれた物語みたいだ。
自分が頑張って生きていたから、こんなに綺麗な王子様が迎えにきてくれたのか。
「エルケ。俺がいる限り、もう誰にもお前を傷つけさせない」
この時男が口にしたその言葉は、まるで宝物のようにエルケの中にずっと残ったのだった。