恋というものは

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 はっきり言って、クリスマスなんていうのは私多岐佳奈子にとって稼ぎ時以外の何者でもない。
 ああ今もしかして何人かの人は金持ちにクリスマスディナーを奢ってもらう私とか金持ちにバーキンのバッグを贈ってもらう私とかを想像したかもしれないけど、そうじゃない。それは、本当に、現金的な意味で稼ぎ時なのだ。労働的な意味で。血と汗と涙的な意味で。
 つまり、私のクリスマスは毎年、地元から少し離れた駅前の商店街の喫茶店でケーキの呼び込みをする、という労働で予定が埋まっている。
 もちろん、金持ちにクリスマスディナーを奢ってもらったりバーキンのバッグを贈ってもらうことを考えたことがないわけではないし、一度は実行もしたけどホテルに連れ込まれそうになって懲りた。
 男ってクリスマスに女がデートしてくれるってだけで、相手を自分のものにしたような錯覚に陥るのね。まぁもちろん全部の男がそうだとは言わないけど、少なくともそういう男が世の中にはいるってこと。その時私は相手のクソ男(なんとかって会社の社長令息。四歳年上の大学生)を殴って逃亡してことなきを得たわけだけれど、もうあんなのはごめんだった。
 だからあれからずっと、クリスマスは雑念を払って労働に身をやつしている。
 クリスマスバイトは時給がいいのだ。それに、万が一学校の人間に見られても簡単に私だと見破られることもない。なんだったら余ったケーキだって持って帰れる。いいことづくめなのだ。
 ただ、今年に関しては、私にはそのバイトを諦める覚悟があった。
 なんというか、その、今年は、クリスマスを一緒に過ごす可能性のある相手ができたからだ。
 いわゆる彼氏というやつである。
 もちろん相手は金持ちの息子だ。でも三男だし父親とは仲が良くなくて家を出て、秋になる前に一人暮らしを始めてしまったので夢の玉の輿は望めない。望めないのだが、私はそいつに恋をしてしまったようなので、とりあえず付き合ってみることにしたのだった。
 それが、今年の夏休み明けのことである。
 私の交際相手……萩原武士という男は、人の心が読めるらしい。
 最初告白された時は何バカなこと言ってんだこいつって思ったし、今もまだ半分疑っているけど……半分は信じている。なぜなら萩原武士はいつも私が心の中で考えていることを言い当てたし、私がそうと望むことを口にする前にやってしまうからだ。
 例えば手をつなぐ時も、初めてのキスも、萩原武士はとてもそつがなかった。そのたび私はあいつに負けている気がして腹が立ったし心を読まれているかと思うと恥ずかしかった。
(わかってる。別れちゃえば楽なのよ)
 母親の隣でこちらに向かって嬉しそう手を振る小さな女の子に愛嬌を振舞いながら、私はこっそりため息をついた。
 金持ちでもないし変な能力は持ってるし、萩原武士は決して私が理想としていた相手ではない。
 私があいつと交際している理由を述べるとするならたった一つ。私があいつに恋をしているから、というだけなのだ。じじいに言わせれば、「それで十分じゃねぇか」となるらしいが、最近たびたび本当にこれでいいのかと考えてしまう。
 特に、十二月に入って浮き足つ校内でたまたま私と二人きりになった萩原武士が、「多岐さん、クリスマスは毎年バイトなんだよね。がんばってね」とさらりと言ってきた時に。
 いやー正直あの時私、心の中で三回萩原武士を殺したよね。
 だって腹が立たない?
 何よあいつばっかりしれっとしてなんでも知ってますみたいな顔して。心が読めるだかなんだか知らないけど女心も読めっていうのよ。だいたいなんでこの私がこんなことでもやもや悩まないといけないのよ。あーアホらしいアホらしいアホらしいったらないわよ!!
 抑えきれない怒りに思わず地団駄を踏むと、前を通りかかったカップルの女性の方がこちらを見ながらクスクスと笑った。
「あのサンタさん踊ってるみたい。かわいいね」
 ……はー。
 クリスマスにサンタの格好をしてカップルにケーキを売っても惨めな気持ちになったことなんてこれまで一度もなかったのに。むしろケーキ五十個売ればボーナスが出るから生き生きしてたのに。なんなのかしら今年は。
 最悪だわ。
 恋というがこんなにままならないものだったなんてね。


 暖かい店内でコーラを飲みながら窓の外を見ていて、我ながら趣味が悪いなとは思った。
 でも顔がにやつくのは止められない。
(多岐さんって本当に僕の予想の斜め上をいく人だなぁ)
 僕が今いるファーストフード店の前には喫茶店があって、その喫茶店の前ではクリスマスケーキを売っている。売り子は赤い上下を着てサンタ帽を被った男女に、サンタの着ぐるみが一体だ。
 そのサンタの着ぐるみが、踊るように足を踏みならしたのを見て僕は思わずコーラを吹き出して笑ってしまった。
 そう。
 あの着ぐるみの中には、多岐佳奈子さんが入っている。
 ミス北高で、高校周辺では才色兼備のお嬢様として知られる多岐佳奈子さんが入っているのだ。
 十一月の下旬、多岐さんが心の中で(今年のクリスマスバイト、キャンセルするなら早めに店長に連絡しなきゃ)と言ったのを聞いたのがそもそもの始まりだった。
(はー。でも今年私の代わりが見つかっちゃって、その子が来年以降もやりたいって言ったら、私はもういらないわよね。すっごくいいバイトだったんだけどなぁ)
 そんなこと聞いたら、もうクリスマスには誘えないじゃないか。
 もちろん僕だって健全な一青少年だし、初めてできた彼女とのクリスマスにあれこれと想像していたことは否定しないけど、できるだけ多岐さんのこれまでの生活を乱したくはなかった。
 なぜなら、多岐さんがものすごい努力をして現在の自分を作り上げたことを僕は知っているし、実家を出て親という後ろ盾をなくした僕には、彼女に対してなんの保障もしてやれないからだ。
 家を出た現在も株で少々の収入はあるし、兄の勝と起業する準備は進めているけれど、僕という人間が今立っている地盤はあまりにも不安定で、そこに大切な彼女を引き込むことにはまだ抵抗があった。
 多岐さんが、クリスマスに誘ってほしいと思っていたことはもちろん承知している。けれど彼女がこれまで恒例としていたことをやめさせるのかと思うと、僕には誘う勇気が出ないのだった。
『お前は本当にへたれだねぇ』
 と勝に言われたし、否定もできない。
 結局僕にはまだ、彼女という特別な人を自分の腕の中に抱きしめる覚悟がないのだ。
 いつか失うのが怖いから。
 これはもう僕の根深い部分にある呪いで、そう簡単には解けない。けれどクラスメイトに見つからないためとはいえクリスマスに着ぐるみを被ってケーキを売っている多岐さんを見ていると、どんなにみっともないことをしても彼女を手放すことはできないとも思うのだった。
 僕は意を決して立ち上がり、飲みかけのコーラを捨てて紙のコップとプラの蓋もきちんとわけてゴミ箱に入れてから外に出た。
 冬の冷たい空気がつきつきと顔に刺さる。けれど不思議と寒いとは感じなかった。
 目が不自然なくらいきらきらと大きい白いひげの着ぐるみに、ベビーカーに座っていた幼児が泣いてしまったのを、サンタがいないいいないばあをしてあやしている。
(いないいないばあ! ほら! 泣き止みなさいよ! ばあ!)
 多岐さんがなんと言おうと、彼女は優しくて愛情深い人だ。それは彼女が、僕のこの、人の心を読むという能力を知ってなお離れていかないことからも証明できる。
 多岐佳奈子さんは、誰がなんと言おうと、他にない稀有な人物なのだ。
 僕の特別な人。
 僕を変えた人。
 泣き止まない幼児の乗ったベビーカーを、ケーキを買った父親が申し訳なさそうに頭を下げながら押していくのを待ってから、僕はサンタに近づいた。
 すたすたと自分に近づいてくる男にサンタがやっと気づく。
 驚いたサンタは、その動きを止めた。
 ああなんてことだ。彼女が入っているかと思うと、僕にはこの赤い衣装の太った白ひげの初老男性でも愛おしい。
「多岐さん」
 僕は彼女の前に立って言った。
「終わったら、デートしよう。クリスマスデート」
 プレゼントは買ってある。シルバーの指輪だ。今は学費だって自分で払ってるのでそんなに余裕があるわけではないから安物だけど、いつか本物がプレゼントできたらいい。その覚悟ができた時に。
「オッケーだったらうなずいて。終わった頃に迎えにくるよ」
 もしかしたら彼女は殴りかかってくるんじゃないかとも思いながらどきどきと待っていると、意外なことにサンタは大人しくこくりと頷いた。
 前に、バイトがんばってねと言った時は三回殺されたのに。
 意識して心を読んでみると、多岐さんが喜んでいる様子が伝わってくる。彼女は萩原武士と心の中で僕の名を読んで、(このバカ)と呟いた。
 それは、彼女が僕に読まれることを前提に頭に浮かべた言葉なのだとわかって、僕はこの上なく幸せな気持ちになった。
「じゃあ迎えにくるね」
 これ以上顔がにやけてしまう前にとその場を去ろうとした僕は、ふと思い出して言葉を続けた。
「あ、そうだ。それで、多岐さんの中学時代の話も聞かせてもらえる? 中学三年生の君をホテルに連れ込もうとしたクソ男の大学と名前と特徴も具体的にね」
 もちろん、そのクソ男には相応の報復を受けてもらわなくてはならない。
 多岐佳奈子という女性にそんな不埒な行いをしておきながら罰を受けないなんて、そんなことあってはならないからだ。



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