彼女がスリッパを彼に投げつけた

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 彼女はその星にたった一人降り立ち、種を植えた。
 種はやがて芽吹き、星は緑に溢れかえる。
 そこに彼女はもういなくても、ただ木漏れ日は祝福のように降るだろう。




『実は綱君がもう二ヶ月ほど登校しておりませんで、当校としましても綱君の家の事情というものを考慮して何も言わなかったのですが、退学という事になりますとやはり保護者の方も交えて話し合いをもった方がいいかと考えまして、こうしてお電話差し上げました次第なのですが……』
 この上なく婉曲的な表現で言い訳がましく電話の向こうの声は言った。大学の学生課でその電話を受け取った河野武一は、一瞬その言葉の意味がわからなかった。それは相手の言語表現が非常にわかりにくいものであったからであるし、その内容もまた彼にとって信じがたい事であったからだ。
「えーと……すいません。どういう事ですか?」
 武一はようやくそう言葉を搾り出した。
 電話の向こうの、弟の通っている高校の副校長だと名乗ったおっさんは、もう一度、今度は少し驚いたように言った。
『ご存知ないんですか? 綱君が今日、学校に退学届を提出されたんですよ』
 晴天の霹靂。寝耳に水。えーと他にはなんだ。この衝撃を表す言葉は。
 武一は電話の向こうの副校長に言った。
「ああすいません。たぶん弟は給食費の袋と間違えて持って行ってしまったんだと思います。後でそのふざけた届けは取り戻しに行かせますので、今日の所は失礼します」
 そして相手の返事を待たずに電話を切る。
「あ、終わりましたか?」
 学生課のなかなか美人な事務員がにっこりと笑ってそう言ったが、それを無視して武一は踵を返した。すたすたすたと学生課を出る。武一の大学にはロッカーというものがないので鞄はいつも持ち歩かなければならない。今回はそれが幸いした。このまま大学を出て電車に乗ってしまえば家に帰れる。授業? そんなもの今は二の次だ。
 今はまず家に帰らなくてはならない。
 時刻は四時半。今から帰れば丁度弟妹の帰宅時間に間に合うだろう。




 河野綱は帰路についていた。
 目を瞑ってでも歩けるような自宅への道は、複雑な住宅街の路地を通る。駅から河野家への最短距離を通ると、犬を飼っている家が四軒ある。綱は動物が好きだったが、自分達の生活にペットを養うような余裕がないのはわかっているので飼おうとは思わなかった。そんなご近所では河野さんちの四兄弟は有名で、歩いていると主婦のおば様方に話しかけられるのも珍しくなかったりする。
「あら綱君。今帰り?」
 ちょうど玄関先の掃き掃除をしていた滝川さんちの奥さんが、道の角を曲がって現れた、学校帰りらしい河野さんちの次男に気付いてにっこりと笑った。
「はい」
 綱は滝川さんちの前で立ち止まり、短く答えた。これが他の兄弟達ならもう少し愛想よく返事もできようが、綱はどこまで行っても綱だった。幸いなのは、彼のその性格を近所の方々も十分承知しているという事だろう。全く愛想のない綱に、しかし滝川さんちの奥さんは気分を害した様子もなく、そうだわ、と両手を合わせた。
「そうそう。この間田舎からさくらんぼがたくさん送られてきてね。綱君どう? 持って帰らない?」
 滝川さんちの奥さんは綱の返事を待つ事なくぱたぱたとサンダルの音をさせて家の中に入っていった。兄弟四人で頑張る河野さんちの四兄弟に、ご近所さんはこの上なく好意的だ。こんな風に食べ物を分けてくれる事も少なくない。滝川さんちの奥さんは、片手にスーパーの袋を持って家から出てきた。その袋の中に、溢れんばかりにさくらんぼが入っているのが遠目にもわかる。
「はいどうぞ。美味しいわよ」
「ありがとうございます」
 綱は無愛想に礼を言ってさくらんぼを受け取った。滝川さんちの奥さんはにこにこと笑った。
「静ちゃんにさくらんぼケーキでも作ってもらいなさいな」
 綱は、滝川さんちの奥さんのその提案はなかなかいいものであるように思った。もし静に今日中にやらなくてはならない宿題とかがなければ、きっと夕飯の後にでもケーキを作ってくれるだろう。
 綱は滝川さんちの奥さんにもう一度礼を言うと、家への道を辿った。家に着く頃には五時になってるだろうか。帰れば静は夕飯の準備をしていて、広中は部屋に篭って勉強してるだろう。綱が帰るとやっとテレビがつけられて、ソファにごろんと横になった双子の弟を静は働けと怒るのだ。綱は家の中が好きだった。両親が死んでからも変わらない毎日。それは、兄と姉が両親の代わりとなって動いてくれているからだと知っていた。それが綱には心地よかった。
 河野家は青い屋根に白い壁の、まったく何の変哲もない一軒屋だ。ガレージにある古びた小さな青い車は、まだ広中が生まれたばかりの頃に両親が中古で購入したものだった。綱はそのガレージの横を通り、玄関の扉を開けた。
「ただいまー」
 言って家の中に入ると、すぐ居間の方からなにやら騒がしい物音がして、長男の武一が飛び出してきた。兄はてっきりバイトに行っていると思っていた綱は少し驚いたように片眉を上げた。
「あれ? 武兄バイ……」
 武一は最後まで言わせなかった。
 ばきっ
 兄の鉄拳は弟の右頬をしたたかに打ち、身構える事もできなかった綱は勢いで玄関扉に肩をぶつけた。拍子に持っていた袋を落としてしまい、袋からさくらんぼが転がり出た。頭がぐわんぐわんする。綱は右頬をおさえ、顔をしかめて低く呻いた。
「ったー……」
 武一は左拳をにぎりしめたまま、まだどこかのんびりとした様子の弟をつめたく見下ろして問う。
「なんで殴られたかわかるか?」
 居間の方からひょいと顔だけのぞかせた長女の静は、うわー、と眉をしかめた。
 静が帰って来た時、家には既に武一がいた。いつもなら大学からそのままバイト先に行って九時前くらいに帰ってくるはずの兄は、綱の退学について静を問い詰めた。河野家の中で、綱を一番理解しているのは双子の姉である静である。静なら何か知っているのではないかと期待した武一は、しかし退学と聞いて驚いた様子の妹に少しがっかりして肩を落とした。
 静と綱は違う高校に通っている。静が通っているのは進学校で、綱が通っているのは家から一番近い公立高校だ。通訳になるという確固とした夢を持っていた静とそうでない綱とでは、中学での進路選択から道をわかたれる事になってしまったのだ。
 中学を出たら働くと言っていた綱を説得して高校へ行かせたのは武一だった。何かなりたいものがあるのならまだしも、特に高校で勉強したいものもないし家のために就職すると言った弟に、武一はせめて高校だけでも出ておけと諭すように言った。武一は弟妹達の中でも綱が一番心配だった。静はあの通りやりたい事もしっかりしているしそのために努力する力もある。末っ子の広中は頭も要領もいい子だ。少し自分を隠す所はあるが、そこまで心配ではなかった。しかし、綱はいささか鈍い所がある。人の感情に対してもそうだが、自分の感情に対しても少し鈍感だ。武一は綱がまだ確固とした自分を掴まないまま社会に出て、そのまま流されるようになるのではないかと心配したのだった。
 静は、兄のそれらの物思いを知っていた。だから武一が、綱が勝手に退学届を提出したと聞いて裏切られたような気持ちになったのも理解できた。
 双子って、痛みとかシンクロするって言うけどうちらにはそんなのなくて本当によかった。静は心から思った。だってあれは痛いだろう。口から血が出てるし。
 兄の問いに、綱は少し考えるように目を彷徨わせた。
「……武兄の買って来たプリンを今朝食べちゃった事?」
「ちがう!!」
 武一は怒鳴った。
「退学届を出した理由を今すぐここで言ってみろ!」
 兄のその言葉に、綱はただ 「ああ」、と言った。
「別に理由なんかないよ。ただもう学校には行きたくないなと思って」
「……」
 双子の弟のそのセリフを聞くと、静は黙って居間に引っ込み、ぱたりと扉を閉め、そっと自分の耳を塞いだ。まったく、綱にも少しは近所づきあいというものを考えて発言してほしい。あんな言い方をして、兄がどういう反応をするかなんてわかりきってるではないか。ああ、後でお向かいと両隣に謝りにいかなくちゃ。武兄、声量だけはあるんだもの。静はひっそりとため息をついた。
 武一は、すぅと息を吸い込む。

「……っっっ出て行けー!!!!」

 それはまるで家自体が震えるような大音量であった。




「家出?」
 小学校の委員会の集まりのせいでいつもより帰りの遅かった末っ子は、我が家の置かれた状況に目を丸くした。いつもならソファを陣取りテレビを見ているはずの次兄はおらず、その代わりそこには何故か額に氷をのせた長兄が横たわっていた。ただ姉である静だけが台所でいつものように夕飯の準備をしている。ダイニングのテーブルの上には何故かり大量のさくらんぼが無造作に転がっていた。しかもどこかでぶつけたのか少し傷んでいるようだ。
「そう。でもまぁ今日中には帰ってくると思うから、チェーンはあけといてあげてね」
 台所のカウンターの向こうで鍋の中の味噌汁を味見しながら、静は広中に言った。広中は、ランドセルを床に下ろしながら首を傾げる。
「武兄がまだ帰ってないと思ったからチェーンはかけてないけど……。何があったの?」
 家に帰ってみれば、次兄は家出したのでいないと姉が言った。綱が家出? あの飄々とした兄が? 考えられないとは言わないが、考えにくい事この上ない。
「こらヒロ。ランドセルはちゃんと自分の部屋に持って行きなさい。……別に、たいした事じゃないわ。ただちょっと武兄と喧嘩しただけよ」
 目ざとく注意されてしぶしぶとランドセルを持ち上げた広中は、ソファに横たわる武一に目を向けた。兄は目を右腕で覆い、なにやら考え込んでいるようだった。
「……」
 なんだかよくわからないが、これ以上聞いても有力な答えが得られるとは思えなかったので、広中は黙ってランドセルを持って居間を後にした。彼は、今日ばかりは早く家に帰ってこなかったのを後悔した。だっておかげで面白い見世物を見逃してしまったようではないか。ちぇ。




 家を追い出され、綱は仕方がないので目的もなく適当に歩き始めた。外泊するつもりはもちろんない。外で適当に時間をつぶして、ほとぼりが冷めた頃に帰ればいいだろう。財布はポケットに入っているので、小腹がすいたら何か買えばいい。
 学校には二ヶ月くらい行っていなかった。毎日学生鞄を持って家を出ていたが、どうも行く途中で行く気をなくしてしまって、仕方ないのでアルバイト先に行って臨時でシフトをいれてもらったり、それができない時は土手にねっころがって時間をつぶしたりしていた。どうも自分は学校をやめた方がいいのではないかと思ったのが昨日だ。昨日家に帰ってから退学届をしたため、今日それを提出だけして学校を出た。学費もいくらかは戻ってくるだろう。
 武一が怒るだろう事は、綱は予想していた。そして彼の怒りが、彼の弟への心配からくるものだとわかっていたので、殴られても怒りはわかなかった。
「……」
 口内に広がる鉄の味で、綱はやっと自分が口を切っている事に気が付いた。実は結構喧嘩慣れしている兄と違って、綱は公然と人と争った事があまりない。争うほど人と関わった事がないのだ。だから殴られた時とっさに歯を食いしばる事ができなかった。顔をしかめて切ったと思われる部分をなめると少ししみた。歯を磨く時が思いやられる。
 その時、視界の端に女が見えた。このまま歩いていけばもう少しで通り過ぎる電信柱の傍らに一人の女が蹲っていた。青いチェックのワンピースに緑の上着を羽織っている。スカートからのぞいた足は白く、何故か茶色のスリッパを履いていた。女はぴくりともしなかった。気分でも悪いのだろうか。それとも寝ているだけなのかもしれない。
 どちらにしろ特に助けを求められる事もなかったので、綱は何事もなかったかのようにその女と電信柱の前を通り過ぎた。これが静であったのなら大丈夫ですか? とでも言って女に駆け寄っていただろう。けれど綱にはその静の行動は理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。助けて欲しいのなら助けて欲しいと言うだろう。求められてもいないのに手を差し伸べるのは、大きなお世話というものだ。何より面倒くさいし。
 その時である。
 パシン!
 音にしてはなにやら軽いかんじの衝撃が彼の後頭部を襲った。ちょっと痛い。ぽとりと地面に落ちたものを見て、自分を襲撃したのがスリッパだと知った綱は後頭部をさすりながら眉宇をひそめて振り向いた。そこには先ほどのワンピースの女がいた。黒くて大きめな目はぎらぎらと光っていて綱を睨みつけている。さっきは顔を膝にうずめていたのでわからなかったが、なかなか可愛らしい顔立ちである。そして彼女は、今まさに私がスリッパを投げましたと言わんばかりの体勢で立ち、こう言い放った。
「具合悪そうな女性の前を素通りするとはどういう了見よ!」
「……」
 えーと。
 綱は困惑した。
 なんでそれで俺が怒られなきゃいけないんだ。
 彼は思った。
「普通大丈夫ですか? とか救急車呼びましょうか? とか何とか声かけるでしょ! それくらいの下心もないのかあんたは!!」
 下心があっていいのか。
 と綱は思った。
 というか何なんだこの女は。
 女という人種の突発的行動に関しては、綱は十分に免疫力があるつもりだった。彼の姉である静が、そりゃもうトラブルメーカーを体現したような人物であるからだ。けれどいくら静でも、こんな風にいきなり理不尽に怒る事はしない。綱は対処に困った。
 結果。
 くるり。
 彼は踵を返して女を無視する事にした。
 すると、
 バシン!
 再び後頭部に衝撃がきた。なんというコントロール能力だろう。ぽとりと地面に落ちたものを確認するまでもなく、綱は軽く眉をひそめて振り向いた。
「……なんですか?」
 仕方なさそうに綱は問うた。
 ここまでされて、問答無用で怒り出さないのが彼の彼たるゆえんである。
 そして女は答えた。
「裸足の女性を置いていく気!?」
 裸足になったのはあんたがスリッパを投げたからだ、という言葉を綱はかろうじて飲み込んだ。女性が癇癪を起こした時は、素直に従った方が身のためである。それを綱は、十七年間もの姉との生活でよく知っていた。


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